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大雪の日のゼームス坂


 R・シュトラウスに「四つの最後の歌」という作品がある。オーケストラをしたがえて、この歌を歌うのは、ソプラノ歌手にとってかぎりない憧れだった。しかしこの曲は、どんなに力量があっても若くては歌えない。二十代はむろん三十代にはいっても、この曲のもっている香りや艶はでないだろう。だからといって、年齢を重ねれば、歌えるといったものでもむろんない。私は何度か名高きソプラノ歌手たちが歌う「四つの最後の歌」を聴きにコンサートホールにでかけたが、なかなかこれといった歌に出会ったことはなかった。そんななかであざやかに印象に残っているのは、上海が生んだソプラノ歌手張暁霞のライブだった。若い人々にはいまや張暁霞というソプラノ歌手がいたことさえも知らないだろうが、その当時は彼女が登場するオペラは、そのチケットが発売されると同時に売り切れたという大変なスターだったのだ。それはニューヨークでも、パリでも、ベルリンでも、東京でもそうだった。彼女は世界の歌姫だった。

 あれはたしか、日本の大動乱があってから二年後のことだから、もう三十五年も前のことになるのだろうか。私は三番目の長編小説を書きすすめるために、上海に二年ほど逗留したのだが、そのときかのクーゼンスキーが手兵のベルリン・フイルをひきいて上海にやってきた。そして上海芸術院ホールで、張暁霞がこのベルリン・フイルをバックにして、この「四つの最後の歌」を歌ったのだが、そのときの感動は実に異様なものだった。あれをまさしく魂がゆさぶられる感動というのだろうか。それはなにもかも後で知るのだが、彼女はそのとき癌におかされ、わが身の死期を知っていたのだ。歌姫として生を得た以上、最後の歌を歌わねばならなかった。彼女はその最後の歌に文字通りこの「四つの最後の歌」を選んだのだった。彼女の病状はだいぶ進行していた。しかし襲いかかった病魔をおしきり、死力をふりしぼって白鳥の歌を歌い上げたのである。彼女はその公演があった半年後に四十五歳の生命を閉じた。

 要するにこの曲を歌いこなせるようになるには、さまざまな人生の苦節を知らねばならぬということなのだ。人生はけっして平坦な道ばかりではない。いくつもの障害がたちふさがり、いくつもの苦難を乗り切っていかなければならない。いわばそうした人生の宿題をこなした人間だけが、この歌を歌いきることができるのだ。それはシュトラウスが、八十四歳にして放ったシュトラウス自身の白鳥の歌でもあったのだ。

 人は年とともに衰えていく。その人の仕事もまた年とともに衰えていく。それは芸術の世界でもそうであって、老人の画いた傑作などというものはほとんどない。先般百七歳で物故した日本画家にしても、百七歳まで描きつづけた旺盛な創作力をさかんにマスコミはほめたたえたが、しかし彼がうみだした真の傑作というものは七十歳あたりまでの作品であって、後の作品はただだらだらと描き続けた駄作といったもので、そんな作品をもありがたがるのは、ひとえに彼の名声がなすものであった。七十歳以降の作品はあらゆる意味で滅んでいるのだ。しかしこのシュトラウスの作品をみるとき、私は人間というものは八十四になっても、なお成熟できるのだという強い励ましを受けるのだ。この曲はまったくたるみというものがない。四つの歌の一曲一曲が絢爛たる色彩を放ち、引き締まっていて、シュトラウス芸術の精華をおもわせるばかりの傑作なのだ。

 いま冬の重いコートを脱いで、ひかりあふれる季節がやってきた。その「春」をオーケストラが官能的なばかりの歌を奏でる。アカシアの枝から葉がひとひらまたひとひらと金色のしずくとなって散っていく「九月」。ものみな生命が沈みこんでいく憂愁のなかに響きわたるホルンはしみいるばかりだ。さらさらと心の綾を織り成すような「眠りにつこうとして」のヴァイオリンのソロ。この旋律の美しさはたとえようがない。そして最後の曲「夕映えの中で」二羽のひばりがつかず離れず飛んでいる。闇はこくこくと世界をつつんでいくなかを、二羽のひばりのさえずりもまた小さく小さく消えていくのだ。

 この稿を起こすにあたって、私は久しぶりにこの曲を聞いたが、涙がはらはらと落ちて仕方がなかった。私はもちろんドイツ語はわからない。しかしそこでなにが歌われているか諳んじている。ヘルマン・へッセの詩をテキストにしていたシュトラウスは、この最後の曲にアイヒェンドルフの詩を使うのだ。

 苦しいときも、うれしいときも
 私たちは手に手をとりあって歩いてきた、
 さすらいの足を止めて、いま私たちは
 のどかな田園がひろがる丘の上でやすらう

 私たちの前に、谷々がおちこみ
 空はしだいに暮れかかっている
 二羽のひばりが、夕もやのなかを
    高く、高く、飛翔していく

 こっちへおいで、さえずるひばりたちよ
 まもなく眠りの時間がやってくる
 こんなにさびしい景色のなかで、
 私たちははぐれないようにしよう

 おお、このひろびろした静かな平和
    夕映えが深々と世界を染めていく
 歩いてきた旅の疲労が、私たちに重くのしかかる
 もしかしたら、これが死なのだろうか
    
 私の妻は意識が混濁したなかで、しきりに右手で何かを訴えるようにしていた。私はその手の動きがわからなかった。意味のわからぬままその手を握ると、彼女は深い安息につつまれるようにして逝ったのだ。あの謎はこういうことだったのだろうか。はぐれないように私の手を求めていたのだろうか。彼女がはぐれるのではない。彼女はいまわのきわのなかにありながら、なお私を案じていたのだ。彼女はまさしく私の分身のような存在であった。彼女に出会っていなければ、おそらく私は私とならなかっただろう。それと同じように、私は彼女にとってよい夫であったのだろうか。

 ヘッセの詩にも生の輝きに織り成すように、落ち葉に、夕闇に、夏の終りに、夜に、眠りに死の影が濃厚に宿っている。その生と死のおののきを音楽がいっそう深く染め上げていく。シュトラウスは言葉と音楽を魔術的色彩のなかで融合させたのだ。「英雄の生涯」や「ツアラストラはかく語りき」などの交響詩、「薔薇の騎士」や「サロメ」などのオペラ群を創造してきたこの作曲家の創造力が最後に到達した、まるで沈みいく太陽が西の空をこの世のものとは思えないばかりの荘厳さで染めていく夕映えの揮きといった、まことに見事としか言い様がない作品なのだ。

 私はこの曲に出会ってから長いこと心にひめていたことがあった。シュトラウスにならうわけではないが、私もまた八十という年を迎えたとき、最後の四つの小説というものを手がけてみようと思っていたのだ。作家たちはある年齢に達すると自分の人生といったものがひどく気になるのか、しきりに自伝めいたものを書きはじめていく。しかし私はそのことをきっぱりと拒んできた。作家の人生などというものは、実にとるにたらないつまらないものなのだ。日常の大半を机にむかってワープロを叩き込んでいるだけの人生だった。そんな人間の自伝が面白いわけがない。事実作家の自伝といったもので、これはと思ったものはほんの数えるほどしかない。作家にはもっと書かねばならないことがあるのだ。その思いはいまでも変わらないのだが、しかしこのシュトラウスの曲をおりにふれて聴くたびに、わが人生を主題にした最後の四つの小説というものを手がけたいという誘惑は、私のなかでずうっとくすぶっていたのだ。

 八十年という人生を振り返ってみるとき、たしかに人には節目といったものが存在する。竹のようにくっきりとした輪郭というものがあるわけではないが、ある一つの出来事、ある一つの出会い、ある一つの体験がなるほど人生のなかに、あるときは奔流のように襲い、またあるときは微妙な波をつくりながら流れ込み、その人の一生を決定していく。そんな節目にも似た出来事のなかから、私は四つの主題を選び出してみるのだ。すなわち私の少年時代のこと、放浪を続けていた青年時代のこと、かろうじて私というものを打ち立てることができた四十代のこと、そしてふたたび闇のなかをさ迷っていた五十代での出来事を。そしてシュトラウスがなしたように短い物語のなかに私の最後の歌を託してみるのだ。

 さて、その最初の歌である。それは私の小学六年生のときの話であるから、月日を限りなく引き戻さなければならない。二千三十年、二千二十年、二千十年……とプレイバックさせ、二十一世紀というラインをわずかに飛び越して、時は二十世がまさに終わらんとする一九九五年のことである。その頃、私の一家はゼームス坂近くに立つマンションにあり、その地域にある品川小学校に通っていたが、その時代の話なのだ。


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