私たちは後世に何を残すべきか 下編 内村鑑三
昨晩は後世へわれわれがのこして逝くべきものについて、まず第一に金のことの話をいたし、その次に事業のお話をいたしました、ところで金を貯める天才もなし、またそれを使う天才もなし、かつまた事業の天才もなし、また事業をなすための社会の位地もないときには、われわれがこの世において何をいたしたらよろしかろうか、事業をなすにはわれわれに神から受けた特別の天才がいるばかりでなく、また社会上の位地がいる、われわれはあるときは、かの人は天才があるのに何故なんにもしないでいるかといって人を責めますけれども、それはたびたび起る酷な責め方だと思います、人は位地を得ますとずいぶんつまらない者でも大事業をいたすものであります、位地がありませぬとエライ人でも志を抱いて空しく山間に終ってしまった者もたくさんあります、それゆえに事業をもって人を評することはできないことは明かなることだろうと思います、それゆえに私に事業の天才もなし、またこれをなすの位地もなし、友達もなし、社会の賛成もなかったならば、私は身を滅ぼして死んでしまい、世の中に何ものこすことはできないかという問題が起ってくる。
それでもし私に金を貯めることができず、また社会は私の事業をすることを許さなければ、私はまだ一つののこすものを持っています、何であるかというと、私の思想です、もしこの世の中において私が私の考えを実行することができなければ、私はこれを実行する精神を筆と墨とをもって紙の上に遺すことができる、あるいはそうでなくとも、それに似たような事業がございます、すなわち私がこの世の中に生きているあいだに、事業をなすことができなければ、私は青年を薫陶して私の思想を若い人に注いで、そうしてその人をして私の事業をなさしめることができる、すなわちこれを短くいいますれば、著述をするということと学生を教えるということであります、著述をすることと教育のことと二つをここで論じたい、しかしだいぶ時がかかりますから、ただその第一すなわち思想をのこすということについて、私の文学的観察をお話ししたいと思います。
すなわちわれわれの思想をのこすには、今の青年にわれわれの志を注いでゆくも一つの方法でございますけれども、しかしながら思想そのものだけをのこしてゆくには文学によるほかない、それで文学というものの要はまったくそこにあると思います、文学というものはわれわれの心に常に抱いているところの思想を後世に伝える道具に相違ない、それが文学の実用だと思います、それで思想の遺物というものの大なることはわれわれは誰もよく知っていることであります、思想のこの世の中に実行されたものが事業です、われわれがこの世の中で実行することができないからして、種子だけを蒔いて逝こう、「われは恨みを抱いて、慷慨(こうがい)を抱いて地下に下らんとすれども、汝らわれの後に来る人々よ、折あらばわが思想を実行せよ」と後世へ言いのこすのである、それでその遺物のおおいなることは実に著しいものであります。
われわれのよく知っているとおり、二千年ほど前にユダヤのごくつまらない漁夫や、あるいはまことに世の中に知られない人々が、『新約聖書』という僅かな書物を書いた、そうしてその小さい本がついに全世界を改めたということは、ここにいる人にはお話しするほどのことはない、みなご存じであります、また山陽という人は勤王論を作った人であります、先生はどうしても日本を復活するには日本をして一団体にしなければならぬ、一団体にするには日本の皇室を尊んで、それで徳川の封建政治をやめてしまって、それで今日いうところの王朝の時代にしなければならぬという大思想を持っておった、しかしながら山陽はそれを実行しようかと思ったけれども、実行することができなかった、山陽ほどの先見のない人は、それを実行しようとして戦場の露と消えてしまったに相違ない。
しかし山陽はそんな馬鹿ではなかった、彼は彼の在世中とてもこのことのできないことを知っていたから、自身の志を『日本外史』に述べた、そこで日本の歴史を述ぶるに当っても特別に王室を保護するようには書かなかった、外家(がいか)の歴史を書いてその中にはっきりといわずとも、ただ勤王家の精神をもって源平以来の外家の歴史を書いてわれわれにのこしてくれた、今日の王政復古を持ちきたした原動力は何であったかといえば、多くの歴史家がいうとおり山陽の『日本外史』がその一つでありしことはよくわかっている、山陽はその思想をのこして日本を復活させた、今日の王政復古前後の歴史をことごとく調べてみると山陽の功の非常に多いことがわかる、私は山陽のほかのことは知りませぬ、かの人の私行については二つ三つ不同意なところがあります、彼の国体論や兵制論については不同意であります、しかしながら彼山陽の一つのアムビション─Ambition すなわち「われは今世に望むところはないけれども、来世の人に大いに望むところがある」といった彼の欲望は私が実に彼を尊敬してやまざるところであります。すなわち山陽は『日本外史』を遺物として死んでしまって、骨は洛陽東山に葬ってありますけれども、『日本外史』から新日本国は生まれてきました。
イギリスに今からして二百年前に、痩っこけて背の低いしじゅう病身な一人の学者がおった。それでこの人は世の中の人に知られないで、何も用のない者と思われて、しじゅう貧乏して路地裏のようなところに住まって、かの人は何をするかと人にいわれるくらい世の中に知れない人で何もできないような人であったが、しかし彼は一つの大思想を持っていた人でありました。その思想というは人間というものは非常な価値のあるものである、また一個人というものは国家よりも大切なものである、という大思想を持っていた人であります。
それで十七世紀の中ごろにおいては、その説は社会にまったく受け入れられなかった、その時分、ヨーロッパでは主義は国家主義ときまっておった、イタリアなり、イギリスなり、フランスなり、ドイツなり、みな国家的精神を養わねばならぬとて、社会はあげて国家という団体に思想を傾けておった時でございました、その時に当ってどのような権力のある人であろうとも、彼の信ずるところの、個人は国家より大切であるという考えを世の中にいくら発表しても、実行のできないことはわかりきっておった、そこでこの学者はひそかに路地裏に引っ込んで本を書いた。
この人は、ご存じでありましょう、ジョン・ロックであります、その本はヒューマン・アンダースタンディング(Human Understanding)であります、しかるにこの本がフランスに往きまして、ルソーが読んだ、モンテスキューが読んだ、ミラボーが読んだ、そうしてその思想がフランス全国に行きわたって、ついに一七九〇年フランスの大革命が起ってきまして、フランスの二千八百万の国民を動かした、それがためにヨーロッパ中が動きだして、この十九世紀の始めにおいてもジョン・ロックの著書でヨーロッパが動いた、それから合衆国が生まれた、それからフランスの共和国が生まれてきた、それからハンガリアの改革があった、それからイタリアの独立があった、実にジョン・ロックがヨーロッパの改革に及ぼした影響は非常であります。
その結果を日本でお互いが感じている、われわれの願いは何であるか、個人の権力を増そうというのではないか、われわれはこのことをどこまで実行することができるか、それはまだ問題でございますけれども、何しろこれがわれわれの願いであります、もちろんジョン・ロック以前にもそういう思想を持った人はあった、しかしながらジョン・ロックはその思想を形にあらわして(Human Understanding)という本を書いて死んでしまった、しかし彼の思想は今日われわれのなかに働いている、ジョン・ロックは身体も弱いし、社会の位地もごく低くあったけれども、彼は実に今日のヨーロッパを支配する人となったと思います。
それゆえに思想をのこすということは大事業であります、もしわれわれが事業をのこすことができぬならば、思想をのこしてそうして将来にいたってわれわれの事業をなすことができると思う、そこで私はここでご注意を申しておかねばならぬことがある、われわれのなかに文学者という奴がある、誰でも筆をとってそうして雑誌か何かに批評でも載すれば、それが文学者だと思う人がある、それで文学というものはなまけ書生の一つの玩具になっている、誰でも文学はできる、それで日本人の考えに文学というものはまことに気楽なもののように思われている、山に引っ込んで文筆に従事するなどは実にうらやましいことのように考えられている、福地源一郎君が不忍の池のほとりに別荘を建てて日蓮上人の脚本を書いている、それを他から見るとたいそう風流に見える。
また日本人が文学者という者の生涯はどういう生涯であるだろうと思うているかというに、それは絵草紙屋へ行ってみるとわかる、どういう絵があるかというと、赤く塗ってある御堂のなかに美しい女が机の前に坐っておって、向こうから月の上ってくるのを筆をかざして眺めている、これは何であるかというと紫式部の源氏の間である、これが日本流の文学者である、しかし文学というものはこんなものであるならば、文学は後世への遺物でなくしてかえって後世への害物である、なるほど『源氏物語』という本は美しい言葉を日本に伝えたものであるかも知れませぬ、しかし『源氏物語』が日本の士気を鼓舞することのために何をしたか、何もしないばかりでなくわれわれを女らしき意気地なしになした、あのような文学はわれわれのなかから根こそぎに絶やしたい(拍手)。
あのようなものが文学ならば、実にわれわれはカーライルとともに、文学というものには一度も手をつけたことがないということを世界に向って誇りたい、文学はそんなものではない、文学はわれわれがこの世界に戦争するときの道具である、今日戦争することはできないから未来において戦争しようというのが文学であります、それゆえに文学者が机の前に立ちますときには、すなわちルーテルがウォルムスの会議に立ったとき、パウロがアグリッパ王の前に立ったとき、クロムウェルが剣を抜いてダンバーの戦場に臨(のぞ)んだときと同じことであります、この社会、この国を改良しよう、この世界の敵なる悪魔を平(たい)らげようとの目的をもって戦争をするのであります。
ルーテルが部屋のなかに入って何か書いておったときに、悪魔が出てきたゆえに、ルーテルはインクスタンドを取ってそれにぶっつけたという話がある、歴史家に聞くとこれは本当の話ではないといいます、しかしながらこれが文学です、われわれはほかのことで事業をすることができないから、インクスタンドを取って悪魔にぶっつけてやるのである、事業を今日なさんとするのではない、将来未来までにわれわれの戦争を続ける考えから事業を筆と紙とにのこして、そうしてこの世を終ろうというのが文学者の持っているアムビション(Ambition) であります、それでその贈物、われわれがわれわれの思想を筆と紙とにのこして、これを将来に贈ることが実に文学者の事業でありまして、もし神がわれわれにこのことを許しますならば、われわれは感謝してその贈物をのこしたいと思う。
有名なるウォルフ将軍がケベックの都市を取るときにグレイの エレジイ(Elegy) を歌いながらいった言葉があります、すなわち「このケベックを取るよりもわれはむしろこの(Elegy) を書かん」と、ちろん (Elegy) は過激なるいわゆるルーテル的の文章ではない、かしながらこれがイギリス人の心、ウォルフ将軍のような心をどれだけ慰めたか、実に今日までのイギリス人の勇気をどれだけ励ましたか知れない。トーマス・グレイという人は有名な学者で、彼の時代の人で彼くらいすべての学問に達していた人はほとんどなかったそうであります、イギリスの文学者中で博学多才といったならば、たぶんトーマス・グレイであったろうという批評であります、しかしながらトーマス・グレイは何をのこしたか、彼の書いた本は一つに集めたらば、たぶんこんなくらい(手真似にて)の本でほとんど二百ページか、三百ページもありましょう、しかしそのうちこれぞというて大作はありませぬ、トーマス・グレイの後世への遺物は何にもない、ただ (Elegy) という三百行ばかりの詩でありました。
グレイの四十八年の生涯というものは (Elegy) を書いて終ってしまったのです、しかしながらたぶんイギリスの国民の続くあいだは、イギリスの国語が話されているあいだは (Elegy) は消えないでしょう、この詩ほど多くの人を慰め、ことに多くの貧乏人を慰め、世の中にまったく容れられない人を慰め、多くの志を抱いてそれを世の中に発表することのできない者を慰めたものはない、この詩によってグレイは万世を慰めつつある、われわれは実にグレイの運命を羨むのであります、すべての学問を四十八年間も積んだ人が、ただ三百行くらいの詩をのこして死んだというては小さいようでございますが、実にグレイは大事業をなした人であると思います。
有名なるヘンリー・ビーチャーがいった言葉に‥‥私はこれはけっしてビーチャーが小さいことを針小棒大にしていうた言葉ではないと思います、「私は六十年か七十年の生涯を私のように送りしよりも、むしろチャールス・ウェスレーの書いたジーザス・ラヴァー・オブ・マイ・ソール(Jesus, Lover of my soul)の讃美歌一篇を作った方がよい」と申しました、ちょっと考えてみるとこれはただチャールス・ウェスレーを尊敬するあまりに発した言葉であって、けっしてビーチャーの心のなかから出た言葉ではないように思われますけれども、しかしながらウェスレーのこの歌をいく度か繰り返して歌ってみまして、どれだけの心情、どれだけの趣味、どれだけの希望がそのうちにあるかを見るときには、あるいはビーチャーのいったことが本当であるかも知れないと思います、ビーチャーの大事業もけっしてこの一つの讃美歌ほどの事業をなしていないかも知れませぬ、それゆえにもしわれわれに思想がありまするならば、もしわれわれがそれを直接に実行することができないならば、それを紙に写しましてこれを後世にのこしますことは大事業ではないかと思います、文学者の事業というものはそれゆえに羨むべき事業である。
こういう事業ならばあるいはわれわれも行ってみたいと思う、こう申しますると、諸君のなかにまたこういう人があります、「どうもしかしながら文学などは私らにはとてもできない、どうも私は今まで筆を執ったことがない、また私は学問が少い、とても私は文学者になることはできない」、それで『源氏物語』を見てとてもこういう流暢なる文は書けないと思い、マコーレーの文を見てとてもこれを学ぶことはできぬと考え、山陽の文を見てとてもこういうものは書けないと思い、どうしても私は文学者になることはできないといって失望する人がある、文学者は特別の天職を持った人であって文学はとてもわれわれ平凡の人間にできることではないと思う人があります。
その失望はどこから起ったかというと、前にお話しした柔弱なる考えから起ったのでございます、すなわち『源氏物語』的の文学思想から起った考えであります、文学というものはそんなものではない、文学というものはわれわれの心のありのままをいうものです。ジョン・バンヤンという人はちっとも学問のない人でありました、もしあの人が読んだ本があるならば、たった二つでありました、すなわち『バイブル』とフォックスの書いた『ブック・オブ・マータース(Book of Martyrs)』というこの二つでした、今ならばこのような本を読む忍耐力のある人はない、私は札幌にてそれを読んだことがある、十ページくらい読むと後は読む勇気がなくなる本である、ことにクエーカーの書いた本でありますから文法上の誤謬がたくさんある。
しかるにバンヤンは始めから終りまでこの本を読んだ、彼は申しました、「私はプラトンの本もまたアリストテレスの本も読んだことはない、ただイエス・キリストの恩恵にあずかった憐れなる罪人であるから、ただわが思うそのままを書くのである」といって、ピルグリムス・プログレス(Pilgrim’s Progress)──天路歴程──という有名なる本を書いた、それでたぶんイギリス文学の批評家中で第一番という人……このあいだ死んだフランス人、テーヌという人であります……その人がバンヤンのこの著を評して何といったかというと「たぶん純粋という点から英語を論じたときにはジョン・バンヤンの(Pilgrim's Progress)に及ぶ文章はあるまい、これはまったく外からのまじりのない、もっとも純粋なる英語であるだろう」と申しました。
そうしてかくも有名なる本は何であるかというと無学者の書いた本であります、それでもしわれわれにジョン・バンヤンの精神がありますならば、すなわちわれわれが他人から聞いたつまらない説を伝えるのでなく、自分のこしらった神学説を伝えるでなくして、私はこう感じた、私はこう苦しんだ、私はこう喜んだ、ということを書くならば、世間の人はどれだけ喜んでこれを読むか知れませぬ、今の人が読むのみならず後世の人も実に喜んで読みます、バンヤンは実に「真面目なる宗教家」であります、心の実験を真面目に表わしたものが英国第一等の文学であります、それだによってわれわれのなかに文学者になりたいと思う観念を持つ人がありまするならば、バンヤンのような心を持たなくてはなりません、彼のような心を持ったならば実に文学者になれぬ人はないと思います。
今ここに丹羽さんがいませぬから少し丹羽さんの悪口をいいましょう(笑声起る)‥‥後でいいつけてはいけませんよ(大笑)、丹羽さんが青年会において『基督教青年』という雑誌を出した、それで私のところへもだいぶ送ってきた、そこで私が先日東京へ出ましたときに、先生が「どうです、内村君、あなたは『基督教青年』をどうお考えなさいますか」と問われたから、私は真面目にまた明白に答えた、「失礼ながら『基督教青年』は私のところへきますと、私はすぐそれを厠(かわや)へ持っていって置いてきます」ところが先生たいへん怒った、それから私はそのわけをいいました、あの『基督教青年』を私がきたない用に用いるのは何であるかというに、実につまらぬ雑誌であるからです、なにゆえにつまらないかというに、あの雑誌のなかに名論卓説がないからつまらないというのではありません、あの雑誌のつまらないわけは、青年が青年らしくないことを書くからです、青年が学者の真似をして、つまらない議論をあっちからも引き抜き、こっちからも引き抜いて、それをはさみさと糊のりでくっつけたような論文を出すから読まないのです。
もし青年が青年の心のままを書いてくれたならば、私はこれを大切にして年の終りになったら立派に表装して、私のライブラリー(書函)のなかのもっとも価値あるものとして残しておきましょうと申しました、それからその雑誌はだいぶ改良されたようであります、それです、私は名論卓説を聴きたいのではない、私の欲するところと社会の欲するところは、女よりは女のいうようなことを聴きたい、男よりは男のいうようなことを聴きたい、青年よりは青年の思っているとおりのことを聴きたい、老人よりは老人の思っているとおりのことを聴きたい、それが文学です、それゆえにただわれわれの心のままを表白してごらんなさい、そうしてゆけばいくら文法は間違っておっても、世の中の人が読んでくれる、それがわれわれの遺物です、もし何もすることができなければ、われわれの思うままを書けばよろしいのです、私は高知から来た一人の下女を持っています。非常に面白い下女で、私のところに参りましてから、いろいろの世話をいたします。ある時はほとんど私の母のように私の世話をしてくれます。その女が手紙を書くのをそばで見ていますと、非常な手紙です、筆を横に取って、仮名で、土佐言葉で書く、今あとで坂本さんが出て土佐言葉の標本を諸君に示すかも知れませぬ(大笑拍手)、ずいぶん面白い言葉であります。
仮名で書くのですから、土佐言葉がソックリそのままで出てくる、それで彼女は長い手紙を書きます、実に読むのに骨が折れる、しかしながら私はいつでもそれを見て喜びます、その女は信者でも何でもない、毎月三日月様になりますと私のところへ参って「どうぞ旦那さまお銭(あし)を六厘」という、「何に使うか」というと、黙っている、「何でもよいから」という、やると豆腐を買ってきまして、三日月様に豆腐をそなえる、後で聞いてみると「旦那さまのために三日月様に祈っておかぬと運が悪い」と申します、私は感謝していつでも六厘差し出します(大笑)、それから七夕様がきますといつでも私のために、七夕様に団子だの梨だの柿などを供えます、私はいつもそれを喜んで供えさせます、その女が書いてくれる手紙を私は実に多くの立派な学者先生の文学を『六合雑誌』などに拝見するよりも喜んで見まする。
それが本当の文学で、それが私の心情に訴える文学‥‥文学とは何でもない、われわれの心情に訴えるものであります、文学というものはそういうものであるならば‥‥そういうものでなくてはならぬ‥‥それならばわれわれはなろうと思えば文学者になることができます。われわれの文学者になれないのは筆がとれないからなれないのではない、われわれに漢文が書けないから文学者になれないのでもない、われわれの心に鬱勃(うつぼつ)たる思想がこもっておって、われわれが心のままをジョン・バンヤンがやったように綴ることができるならば、それが第一等の立派な文学であります、カーライルのいったとおり「何でもよいから深いところへ入れ、深いところにはことごとく音楽がある」、実にあなたがたの心情をありのままに書いてごらんなさい、それが流暢なる立派な文学であります。
私自身の経験によっても私は文天祥がどう書いたか、白楽天がどう書いたかと思っていろいろ調べてしかる後に書いた文よりも、自分が心のありのままに、仮名の間違いがあろうが、文法に合うまいが、かまわないで書いた文の方が私が見ても一番良い文章であって、外の人が評してもまた一番良い文章であるといいます、文学者の秘訣はそこにあります、こういう文学ならばわれわれ誰でものこすことができる、それゆえに有難いことでございます、もしわれわれが事業を遺すことができなければ、われわれに神様が言葉というものを下さいましたからして、われわれ人間に文学というものを下さいましたから、われわれは文学をもってわれわれの考えを後世にのこして逝くことができます。
そう申しますとまたこういう問題が出てきます、われわれは金を貯めることができず、また事業をなすことができない、それからまたそれならばといって、あなたがたがみな文学者になったらば、たぶん活版屋では喜ぶかもしれませぬけれども、社会では喜ばない、文学者の世の中にふえるということは、ただ活版屋と紙製造所を喜ばすだけで、あまり社会に益をなさないかも知れない、ゆえにもしわれわれが文学者となることができず、またなる考えもなし、バンヤンのような思想を持っておっても、バンヤンのように綴ることができないときには、別に後世への遺物はないかという問題が起る、それは私にもたびたび起った問題であります、なるほど文学者になることは私が前に述べましたとおりやさしいこととは思いますけれども、しかし誰でも文学者になるということは実は望むべからざることであります。
たとえば、学校の先生‥‥ある人がいうように何でも大学に入って学士の称号を取り、あるいはその上にアメリカへでも往って学校を卒業さえしてくれば、それで先生になれると思うのと同じことであります、私はたびたび聞いて感じまして、今でも心に留めておりますが、私がたいへん世話になりましたアーマスト大学の教頭シーリー先生がいった言葉に「この学校で払うだけの給金を払えば学者を得ることはいくらでも得られる、地質学を研究する人、動物学を研究する人はいくらもある、地質学者、動物学者はたくさんいる、しかしながら地質学、動物学を教えることのできる人は実に少い、文学者はたくさんいる、文学を教えることのできる人は少い、それゆえにこの学校に三、四十人の教授がいるけれども、その三、四十人の教師は非常に尊い、なぜなればこれらの人は学問を自分で知っているばかりでなく、それを教えることのできる人であります」と、これはわれわれが深く考うべきことで、われわれが学校さえ卒業すればかならず先生になれるという考えを持ってはならぬ。
学校の先生になるということは一種特別の天職だと私は思っております、よい先生というものはかならずしも大学者ではない、大島君もご承知でございますが、私どもが札幌におりましたときに、クラーク先生という人が教師であって、植物学を受け持っておりました、その時分にはほかに植物学者がおりませぬから、クラーク先生を第一等の植物学者だと思っておりました、この先生のいったことは植物学上誤りのないことだと思っておりました、しかしながら彼の本国に行って聞いたら、先生だいぶ化けの皮が現われた、かの国のある学者が、クラークが植物学について口を利くなどとは不思議だ、といって笑っておりました、しかしながら、とにかく先生は非常な力を持っておった人でした、どういう力であったかというに、すなわち植物学を青年の頭のなかへ注ぎ込んで、植物学という学問のインタレスト(Interest) を起す力を持った人でありました、それゆえに植物学の先生としては非常に価値のあった人でありました。
ゆえに学問さえすれば、われわれが先生になれるという考えをわれわれは持つべきでない、われわれに思想さえあれば、われわれがことごとく先生になれるという考えを放擲してしまわねばならぬ、先生になる人は学問ができるよりも、学問もなくてはなりませぬけれども、学問ができるよりも学問を青年に伝えることのできる人でなければならない、これを伝えることは一つの技術であります、短い言葉でありますけれども、このなかに非常の意味が含まっております、たといわれわれが文学者になりたい、学校の先生になりたいという望みがあっても、これかならずしも誰にもできるものではないと思います。
それで金ものこすことができず、事業ものこすことができない人は、かならずや文学者または学校の先生となって思想をのこして逝くことができるかというに、それはそうはいかぬ、しかしながら文学と教育とは、工業をなすということ、金を貯めるということよりも、よほどやさしいことだと思います、なぜなれば独立でできることであるからです、ことに文学は独立的の事業である、今日のような学校にてはどこの学校にても、ミツション・スクール(Mission School) を始めとしてどこの官立学校にても、われわれの思想を伝えるといっても実際伝えることはできない、それゆえ学校事業は独立事業としてはずいぶん難い事業であります、しかしながら文学事業にいたっては社会はほとんどわれわれの自由にまかせる、それゆえに多くの独立を望む人が政治界を去って宗教界に入り、宗教界を去って教育界に入り、また教育界を去ってついに文学界に入ったことは明かな事実であります、多くの偉い人は文学に逃げ込みました、文学は独立の思想を維持する人のために、もっとも便益なる隠れ場所であろうと思います、しかしながらただ今も申し上げましたとおり、かならずしも誰にでも入ることのできる道ではない。
ここにいたってこういう問題が出てくる、文学者にもなれず学校の先生にもなれなかったならば、それならば私は後世に何をものこすことはできないかという問題が出てくる、何かほかに事業はないか、私もたびたびそれがために失望に陥ることがある、しからば私には何ものこすものはない、事業家にもなれず、金を貯めることもできず、本を書くこともできず、ものを教えることもできない、そうすれば私は無用の人間として、平凡の人間として消えてしまわなければならぬか、陸放翁(りくおうぼう)のいったごとく「我死骨即巧、青史亦無名」と嘆じ、この悲嘆の声を発してわれわれが生涯を終るのではないかと思うて失望の極に陥ることがある。
しかれども私はそれよりもっと大きい、今度は前の三つと違いまして誰にものこすことのできる最大遺物があると思う、それは実に最大遺物であります、金も実に一つの遺物でありますけれども、私はこれを最大遺物と名づけることはできない、事業も実に大遺物たるには相違ない、ほとんど最大遺物というてもようございますけれども、いまだこれを本当の最大遺物ということはできない、文学も先刻お話ししたとおり実に尊いものであって、わが思想を書いたものは実に後世への価値ある遺物と思いますけれども、私がこれをもって最大遺物ということはできない、最大遺物ということのできないわけは、一つは誰にものこすことのできる遺物でないから、最大遺物ということはできないのではないかと思う、そればかりでなくその結果はかならずしも害のないものではない。
昨日もお話ししたとおり金は用い方によってたいへん利益がありますけれども、用い方が悪いとまたたいへん害をきたすものである、事業におけるも同じことであります、クロムウェルの事業とか、リビングストンの事業はたいへん利益がありますかわりに、またこれには害が一緒に伴うております、また本を書くことも同じようにそのなかに善いこともありまた悪いこともたくさんあります、われわれはそれを完全なる遺物または最大遺物と名づけることはできないと思います。
それならば最大遺物とはなんであるか。私が考えてみますに人間が後世に遺すことのできる、そうしてこれは誰にものこすことのできるところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある、それは何であるかならば、勇ましい高尚なる生涯であると思います、これが本当の遺物ではないかと思う、他の遺物は誰にものこすことのできる遺物ではないと思います、しかして高尚なる勇ましい生涯とは何であるかというと、私がここで申すまでもなく、諸君もわれわれも前から承知している生涯であります、すなわちこの世の中はこれはけっして悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であるということを信ずることである、失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを信ずることである、この世の中は悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中であるという考えをわれわれの生涯に実行して、その生涯を世の中への贈物としてこの世を去るということであります。
その遺物は誰にものこすことのできる遺物ではないかと思う。もし今までの偉い人の事業をわれわれが考えてみますときに、あるいは偉い文学者の事業を考えてみますときに、その人の書いた本、その人ののこした事業は偉いものでございますが、しかしその人の生涯にくらべたときには、実に小さい遺物だろうと思います。パウロの書簡は実に有益な書簡でありますけれども、しかしこれをパウロの生涯に較べたときには価値のはなはだ少いものではないかと思う。パウロ彼自身はこのパウロの書いたロマ書や、ガラテヤ人に贈った書簡よりも偉い者であると思います。クロムウェルがアングロサクソン民族の王国を造ったことは大事業でありますけれども、クロムウェルがあの時代に立って自分の独立思想を実行し、神によってあの勇壮なる生涯を送ったという、あのクロムウェル彼自身の生涯というものは、これはクロムウェルの事業に十倍も百倍もする社会にとっての遺物ではないかと考えます。
私は元来トーマス・カーライルの本を非常に敬読する者であります、それである人にはそれがために嫌われますけれども、私はカーライルという人については全体非常に尊敬を表しております、たびたびあの人の本を読んで利益を得、またそれによって刺激をも受けたことでございます。けれども、私はトーマス・カーライルの書いた四十冊ばかりの本をみな寄せてみてカーライル彼自身の生涯に較べたときには、カーライルの書いたものは実に価値の少いものであると思います。先日カーライルの伝を読んで感じました。ご承知の通りカーライルが書いたもののなかで一番有名なものはフランス革命の歴史でございます。それである歴史家がいうたに「イギリス人の書いたもので歴史的の叙事、ものを説き明した文体からいえば、カーライルの『フランス革命史』がたぶん一番といってもよいであろう、もし一番でなければ一番のなかに入るべきものである」ということであります。
それでこの本を読む人はことごとく同じ感覚を持つだろうと思います、実に今より百年ばかり前のことをわれわれの目の前に活きている画のように、そうして立派な画人(えかき)が書いてもあのようには書けぬというように、フランス革命のパノラマ(活画)を示してくれたものはこの本であります、それでわれわれはその本に非常の価値を置きます、カーライルがわれわれにのこしてくれたこの本は、実にわれわれの尊ぶところでございます、しかしながらフランスの革命を書いたカーライルの生涯の実験を見ますと、この本よりかまだ立派なものがあります、その話は長いけれどもここにあなたがたに話すことを許していただきたい。
カーライルがこの書を著すのは彼にとってはほとんど一生涯の仕事であった、ちょっと『革命史』を見まするならば、このくらいの本は誰にでも書けるだろうと思うほどの本であります、けれども歴史的の研究をこらし、広く材料を集めて成った本でありまして、実にカーライルが生涯の血を絞って書いた本であります、それで何十年ですか忘れましたが、何十年かかかってようやく自分の望みのとおりの本が書けた、それからしてその本が原稿になってこれを罫紙(けいし)に書いてしまった、それからしてこれはもうじきに出版するときがくるだろうと思って待っておった、そのときに友人が来ましてカーライルに会ったったところが、カーライルがその話をしたら「実に結構な書物だ、今晩一読を許してもらいたい」といった、そのときにカーライルは自分の書いたものはつまらないものだと思って人の批評を仰ぎたいと思ったから、貸してやった。
貸してやるとその友人はこれを家へ持っていった。そうすると友人の友人がやってきて、これを手に取って読んでみて、「これは面白い本だ、一つどうぞ今晩私に読ましてくれ」といった。そこで友人がいうには「明日の朝早く持ってこい、そうすれば貸してやる」といって貸してやったら、その人はまたこれをその家へ持っていって一所懸命に読んで、明け方まで読んだところが、あしたの事業に妨げがあるというので、その本をば机の上に放りだして床について自分は寝入ってしまった、そうすると翌朝彼の起きない前に下女がやってきて、家の主人が起きる前にストーブに火をたきつけようと思って、ご承知のとおり西洋では紙を木端の代りに用いてくべますから、何か好い反古(ほご)はないかと思って調べたところが机の前に書いたものがだいぶひろがっていたから、これは好いものと思って、それをみな丸めてストーブのなかへ入れて火をつけて焼いてしまった、カーライルの何十年ほどかかった『革命史』を焼いてしまった、時計の三分か四分の間に煙となってしまった。
それで友人がこのことを聞いて非常に驚いた、何ともいうことができない、ほかのものであるならば、紙幣を焼いたならば紙幣をつぐなうことができる、家を焼いたならば家を建ててやることもできる、しかしながら思想の凝(こ)って成ったもの、熱血を注いで何十年かかって書いたものを焼いてしまったのは償いようがない、死んだものはもう生き帰らない、それがために腹を切ったところが、それまでであります、それで友人に話したところが、友人も実にどうすることもできないで一週間黙っておった、何といってよいかわからぬ、どうも仕方がないから、そのことをカーライルにいった。
そのときにカーライルは十日ばかりぼんやりとして、何もしなかったということであります、さすがのカーライルもそうであったろうと思います、それで腹が立った、ずいぶん短気の人でありましたから、非常に腹を立てた、彼はそのときは歴史などはほっぽりだして、何にもならないつまらない小説を読んだそうです、しかしながらその間に己で己に帰っていうに「トーマス・カーライルよ、汝は愚人である、汝の書いた『革命史』はそんなに尊いものではない、第一に尊いのは汝がこの艱難に忍んで、そうしてふたたび筆をとってそれを書き直すことである、それが汝の本当に偉いところである、実にそのことについて失望するような人間が書いた『革命史』を社会に出しても役に立たぬ、それゆえにもう一度書き直せ」といって自分で自分を鼓舞して、ふたたび筆を執って書いた。
その話はそれだけの話です。しかしわれわれはそのときのカーライルの心中にはいったときには、実に推察の情あふれるばかりであります。カーライルの偉いことは『革命史』という本のためにではなくして、火にて焼かれたものをふたたび書き直したということである、もしあるいはその本が残っておらずとも、彼は実に後世への非常の遺物をのこしたのであります、たといわれわれがいくらやりそこなっても、いくら不運にあっても、そのときに力を回復して、われわれの事業を捨ててはならぬ、勇気を起してふたたびそれに取りかからなければならぬ、という心を起してくれたことについて、カーライルは非常な遺物を遺してくれた人ではないか。
現代の弊害は何であるかといいますれば、なるほど金がない、われわれの国に事業が少い、良い本がない、それは確かです、しかしながら日本人お互いに今要するものは何であるか、本が足りないのでしょうか、金がないのでしょうか、あるいは事業が不足なのでありましょうか、それらのことの不足はもとよりないことはない、けれども、私が考えてみると、今日第一の欠乏はライフ(Life)、生命の欠乏であります、それで近ごろはしきりに学問ということ、教育ということ、すなわちカルチュア(Culture)、修養ということが大へんにわれわれを動かします、われわれはどうしても学問をしなければならぬ、どうしてもわれわれは青年に学問をつぎ込まねばならぬ、教育をのこして後世の人をいましめ、後世の人を教えねばならぬというてわれわれは心配いたします。
もちろんこのことはたいへんよいことであります、それでもしわれわれが今より百年後にこの世に生まれてきたと仮定して、明治二十七年の人の歴史を読むとすれば、どうでしょう、これを読んできてわれわれにどういう感じが起りましょうか、なるほどここにも学校が建った、ここにも教会が建った、ここにも青年会館が建った、どうして建ったろうといってだんだん読んでみますと、この人はアメリカへ行って金をもらってきて建てた、あるいはこの人はこういう運動をして建てたということがある。
そこでわれわれがこれを読みますときに「ああ、とても私にはそんなことはできない、今ではアメリカへ行っても金はもらえまい、また私にはそのように人と共同する力はない、私にはそういう真似はできない、私はとてもそういう事業はできない」というて失望しましょう、すなわち私が今から五十年も百年も後の人間であったならば、今日の時代から学校を受け継いだかも知れない、教会を受け継いだかも知れませぬ、けれども私自身を働かせる原動力をばもらわない、大切なるものをばもらわないに相違ない。
しかしもしここにつまらない教会が一つあるとすれば、そのつまらない教会の建物を売ってみたところが、ほとんどわずかの金の価値しかないかも知れませぬ、しかしながらその教会の建った歴史を聞いたときに、その歴史がこういう歴史であったと仮定してごらんなさい‥‥この教会を建てた人はまことに貧乏人であった、この教会を建てた人は学問も別にない人であった、それだけれどもこの人は己のすべての浪費を節して、すべての欲情を去って、まるで己の力だけにたよって、この教会を造ったものである、‥‥こういう歴史を読むと私にも勇気が起ってくる、かの人にできたならば己にもできないことはない、われも一つやってみようというようになる。
私は近世の日本の英傑、あるいは世界の英傑といってもよろしい人のお話をいたしましょう。この世界の英傑のなかに、ちょうどわれわれの泊まっているこの箱根山の近所に生まれた人で、二宮金次郎という人がありました。この人の伝を読みましたときに私は非常な感覚をもらった。それでどうも二宮金次郎先生には私は現に負うところが実に多い。二宮金次郎氏の事業はあまり日本にひろまってはおらぬ。それで彼のなした事業はことごとくこれをまとめてみましたならば、二十ヵ村か三十ヵ村の人民を救っただけにとどまっていると考えます。しかしながらこの人の生涯が私を益し、それから今日日本の多くの人を益するわけは何であるかというと、何でもない、この人は事業の贈物にあらずして生涯の贈物をのこした。
この人の生涯はすでにご承知の方もありましょうが、ちょっと申してみましょう、二宮金次郎氏は十四のときに父を失い、十六のときに母を失い、家が貧乏にして何物もなく、ためにごく残酷な伯父に預けられた人であります、それで一文の銭もなし家産はことごとく傾き、弟一人、妹一人持っていた、身に一文もなくして孤児です、その人がどうして生涯を立てたか、伯父さんの家にあってその手伝いをしている間に本が読みたくなった、そうしたときに本を読んでおったら、伯父さんに叱られた、この高い油を使って本を読むなどということはまことに馬鹿馬鹿しいことだといって読ませぬ、そうすると、黙っていて伯父さんの油を使っては悪いということを聞きましたから、「それでは私は私の油のできるまでは本を読まぬ」という決心をした。
それでどうしたかというと、川辺の誰も知らないところへ行きまして、菜種を蒔いた、一ヵ年かかって菜種を五、六升も取った、それからその菜種を持っていって、油屋へ行って油と取換えてきまして、それからその油で本を見た。そうしたところがまた叱られた、「油ばかりお前のものであれば、本を読んでもよいと思っては違う、お前の時間も私のものだ、本を読むなどという馬鹿なことをするならよいから、その時間に縄をよれ」といわれた、それからまた仕方がない、伯父さんのいうことであるから終日働いてあとで本を読んだ、‥‥そういう苦学をした人であります。
どうして自分の生涯を立てたかというに、村の人の遊ぶとき、ことにお祭り日などには、近所の畑のなかに洪水で沼になったところがあった、その沼地を伯父さんの時間でない、自分の時間に、その沼地よりことごとく水を引いてそこでもって小さい鍬で田地をこしらえて、そこへ持っていって稲を植えた、こうして初めて一俵の米を取った、その人の自伝によりますれば、「米を一俵取ったときの私の喜びは何ともいえなかった、これ天が初めて私に直接に授けたものにして、その一俵は私にとっては百万の価値があった」というてある、それからその方法をだんだん続けまして、二十歳のときに伯父さんの家を辞した、そのときには三、四俵の米を持っておった、それから仕上げた人であります。
それでこの人の生涯を初めから終りまで見ますと、「この宇宙というものは実に神様‥‥神様とはいいませぬ‥‥天の造ってくださったもので、天というものは実に恩恵の深いもので、人間を助けよう助けようとばかり思っている、それだからもしわれわれがこの身を天と地とにゆだねて、天の法則に従っていったならば、われわれは欲せずといえども天がわれわれを助けてくれる」というこういう考えであります、その考えを持ったばかりでなく、その考えを実行した。
その話は長うございますけれども、ついには何万石という村々を改良して自分の身をことごとく人のために使った、旧幕の末路にあたって経済上、農業改良上について非常の功労のあった人であります、それでわれわれもそういう人の生涯、二宮金次郎先生のような人の生涯を見ますときに、「もしあの人にもああいうことができたならば私にもできないことはない」という考えを起します、普通の考えではありますけれども非常に価値のある考えであります、それで人に頼らずともわれわれが神にたより己にたよって宇宙の法則に従えば、この世界はわれわれの望むとおりになり、この世界にわが考えを行うことができるという感覚が起ってくる、二宮金次郎先生の事業は大きくなかったけれども、彼の生涯はどれほどの生涯であったか知れませぬ。
私ばかりでなく日本中幾万の人はこの人から「インスピレーション」を得たでありましょうと思います、あなたがたもこの人の伝を読んでごらんなさい、『少年文学』の中に『二宮尊徳翁』というのが出ておりますが、あれはつまらない本です、私のよく読みましたのは、農商務省で出版になりました五百ページばかりの『報徳記』という本です、この本を諸君が読まれんことを切に希望します、この本はわれわれに新理想を与え、新希望を与えてくれる本であります、実にキリスト教の『バイブル』を読むような考えがいたします、ゆえにわれわれがもし事業をのこすことができずとも、二宮金次郎的の、すなわち独立生涯を実行していったならば、われわれは実に大事業をのこす人ではないかと思います。
私は時が長くなりましたからもうしまいにいたしますが、常に私の生涯に深い感覚を与える一つの言葉を皆様の前に繰り返したい、ことにわれわれのなかに一人アメリカのマサチューセッツ州マウント・ホリヨーク・セミナリーという学校へ行って卒業してきた方がおりますが、この女学校は古い女学校であります、たいへんよい女学校であります、しかしながらもし私をしてその女学校を評せしむれば、今の教育上ことに知育上においては私はけっしてアメリカ第一等の女学校とは思わない、米国にはたくさんよい女学校がございます、スミス女学校というような大きな学校もあります、またボストンのウェレスレー学校、フィラデルフィアのブリンモアー学校というようなものがございます。
けれどもマウント・ホリヨーク・セミナリーという女学校は非常な勢力をもって非常な事業を世界になした女学校であります。なぜだといいますと(その女学校はこの節はだいぶよく揃ったそうでありますが、このあいだまでは不整頓の女学校でありました)、それが世界を感化するの勢力を持つにいたった原因は、その学校には非常に偉い女性がおった。
その人は立派な物理学の機械にまさって、立派な天文台にまさって、あるいは立派な学者にまさって、価値のある魂を持っておったメリー・ライオンという女性でありました。
その生涯をことごとく述べることは今ここではできませぬが、この女性が自分の女生徒に遺言した言葉はわれわれのなかの婦女を励まさねばならぬ、また男子をも励まさねばならぬものである、すなわち私はその女性の生涯をたびたび考えてみますに、実に日本の武士のような生涯であります、彼女は実に義侠心に満ち満ちておった女性であります、彼女は何というたかというに、彼女の女生徒にこういうた。
他の人の行くことを嫌うところへ行け
他の人の嫌がることをなせ
これがマウント・ホリヨーク・セミナリーの立った土台石であります、これが世界を感化した力ではないかと思います、他の人の嫌がることをなし、他の人の嫌がるところへ行くという精神であります、それでわれわれの生涯はその方に向って行きつつあるか、われわれの多くはそうでなくして、他の人もなすから己もなそうというのではないか、他の人もああいうことをするから私もそうしようというふうではないか、ほかの人もアメリカへ金もらいに行くから私も行こう、他の人も壮士になるから私も壮士になろう、はなはだしきはだいぶこのごろは耶蘇教が世間の評判がよくなったから私も耶蘇教になろう、というようなものがございます。
関東に往きますと関西にあまり多くないものがある、関東には良いものがだいぶたくさんあります、関西よりも良いものがあると思います、関東人は意地ということをしきりに申します、意地の悪い奴はつむじが曲っていると申しますがイガグリ頭にてはすぐわかる、頭のつむじがここらに(手真似にて)こう曲がっている奴はかならず意地が悪い、人が右へ行こうというと左といい、ああしようといえばこうしようというようなふうで、ことに上州人にそれが多いといいます(私は上州の人間ではありませぬけれども)、それでかならずしもこれは誉(ほ)むべき精神ではないと思うが、しかしながら武士の意地というものです、その意地をわれわれから取り除けてしまったならば、われわれは腰抜け武士になってしまう。
徳川家康の偉いところはたくさんありますけれども、諸君のご承知のとおり彼が子供のときに河原へ行ってみたところが、子供の二群が戰をしておった、石を投げあっておった、家康はこれを見て、彼の家来に命じて人数の少い方を手伝ってやれといった、多い方はよろしいから少い方へ行って助けてやれといった、これが徳川家康の偉いところであります、それでいつでも正義のために立つ者は少数である、それでわれわれのなすべきことはいつでも少数の正義の方に立って、そうしてその正義のために多勢の不義の徒に向って石撃(いしぶち)をやらなければなりません、もちろんかならずしも負ける方を助けるというのではない、私の望むのは少数とともに戦うの意地です、その精神です、それはわれわれのなかにみな欲しい。
今日われわれが正義の味方に立つときに、われわれ少数の人が正義のために立つときに、少くともこの夏期学校に来ている者くらいは、ともにその方にたってもらいたい。それでどうぞ後世の人がわれわれについてこの人らは力もなかった、富もなかった、学問もなかった人であったけれども、己の一生涯をめいめい持っておった主義のために送ってくれたといわれたいではありませんか、これは誰にものこすことのできる生涯ではないかと思います、それでその遺物をのこすことができたと思うと実にわれわれは嬉しい、たといわれわれの生涯はどんな生涯であっても。
たびたびこういうような考えは起りませぬか。もし私に家族の関係がなかったならば私にも大事業ができたであろう、あるいはもし私に金があって大学を卒業し欧米へ行って知識を磨いてきたならば私にも大事業ができたであろう、もし私に良い友人があったならば大事業ができたであろう、こういう考えは人々に実際起る考えであります。しかれども種々の不幸に打ち勝つことによって大事業というものができる、それが大事業であります、それゆえにわれわれがこの考えをもってみますと、われわれに邪魔のあるのはもっとも愉快なことであります、邪魔があればあるほどわれわれの事業ができる、勇ましい生涯と事業を後世に遺すことができる、とにかく反対があればあるほど面白い、われわれに友達がない、われわれに金がない、われわれに学問がないというのが面白い。
われわれが神の恩恵を受け、われわれの信仰によってこれらの不足に打ち勝つことができれば、われわれは非常な事業をのこすものである、われわれが熱心をもってこれに勝てば勝つほど、後世への遺物が大きくなる、もし私に金がたくさんあって、地位があって、責任が少くして、それで大事業ができたところが何でもない、たとい事業は小さくても、これらのすべての反対に打ち勝つことによって、それで後世の人が私によって大いに利益を得るにいたるのである、種々の不都合、種々の反対に打ち勝つことが、われわれの大事業ではないかと思う、それゆえにヤコブのように、われわれの出会う艱難についてわれわれは感謝すべきではないかと思います。
まことに私の言葉が錯雑しておって、かつ時間も少くございますから、私の考えをことごとく述べることはできない。しかしながら私は今日これでごめんをこうむって山を下ろうと思います。それで来年またふたたびどこかでお目にかかるときまでには、少くともいくばくの遺物を貯えておきたい。この一年の後にわれわれがふたたび会しますときには、われわれが何かのこしておって、今年は後世のためにこれだけの金を貯めたというのも結構、今年は後世のためにこれだけの事業をなしたというのも結構、また私の思想を雑誌の一論文に書いてのこしたというのも結構、しかしそれよりもいっそう良いのは後世のために私は弱いものを助けてやった、後世のために私はこれだけの艱難に打ち勝ってみた、後世のために私はこれだけの品性を修練してみた、後世のために私はこれだけの義侠心を実行してみた、後世のために私はこれだけの情実に勝ってみた、という話を持ってふたたびここに集まりたいと考えます。
この心掛けをもってわれわれが毎年毎日進みましたならば、われわれの生涯は決して五十年や六十年の生涯にはあらずして、実に水のほとりに植えたる樹のようなもので、だんだんと芽を吹き枝を生じてゆくものであると思います、けっして竹に木を接ぎ、木に竹を接ぐような少しも成長しない価値のない生涯ではないと思います、こういう生涯を送らんことは実に私の最大希望でございまして、私の心を毎日慰め、かついろいろのことをなすに当って私を励ますことであります、それで私のなお一つの題の「真面目ならざる宗教家」というのは、時間がありませぬからここに述べませぬ、述べませぬけれども、しかしながら私の精神のあるところは皆様に十分お話しいたしたと思います。
己の信ずることを実行するものが真面目なる信者です、ただただ壮言大語することは誰にもできます、いくら神学を研究しても、いくら哲学書を読みても、われわれの信じた主義を真面目に実行するところの精神がありませぬあいだは、神はわれわれにとって異邦人であります、それゆえにわれわれは神がわれわれに知らしたことをそのまま実行いたさなければなりません。こういたさねばならぬと思うたことはわれわれはことごとく実行しなければならない。
もしわれわれが正義はついに勝つものにして、不義はついに負けるものであるということを世間に発表するものであるならば、そのとおりにわれわれは実行しなければならない。これを称して真面目なる信徒と申すのです、われわれに後世にのこすものは何もなくとも、われわれに後世の人にこれぞというて覚えられるべきものはなにもなくとも、あの人はこの世の中に生きているあいだは、真面目なる生涯を送った人であるといわれるだけのことを後世の人に遺したいと思います。(拍手喝采)
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