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私たちの町に本屋を作ろう 5          中山末喜

 シェイクスピア・アンド・カンパニー書店の名前を不朽のものとしたのは、何と言っても、一九二二年に彼女が二十世紀最大の古典のひとつであるジョイスの『ユリシーズ』を発行したことであった。当時、イギリスとアメリカで発行禁叺処分を受けていたこの作品の出版は、ほとんど絶望的であった。その絶望的な状況にあえて挑み、この作品をフランスの彼女の書店から発行したことは、文学サロンとして書店が果した功績に優るとも決して劣ることのない偉業であったと言えよう。その勇気は彼女の内に秘めたヤンキー魂にあったのかもしれない。

 前述のT・S・エリオッ卜の発言にはいささかの誇張があるにしても、ビーチのジョイスに対する献身的な奉仕と、この作品への愛情とがなかったならば、この二十世紀の古典が世に出るのが相当遅れていたことは容易に想像がつく。しばしば偉大な作家にみられがちなジョイスのエゴイズムを寛容に受けとめ、死力を尽してこの偉大な作品を出版にまで漕ぎつけた彼女の努力は、この作品が文学史にとどまる限り記憶されるべきであろう。

 ジョイスの一家四人の生活を支えるという経済的負担をも伴った『ユリシーズ』出版の仕事は、決して経済的に恵まれているとはいえなかったビーチには涙の出る想いがあった筈であり、その間の事情は、本書を通して想像されるが、彼女自身はほとんどその苦労を語っていない。寧ろ、本書から読みとられるものは、喜々としてこの難事業に取り組むビーチの姿であり、作品に対する彼女の愛情であって、あくまでも文学の裏方として徹しきった彼女の人柄である。ただ、ビーチのこの書物がなかったならば、文学作品としての『ユリシーズ』の高い価値を評価することはできても、この傑作が出版される裏の事情に、これ程生き生きと接することはできなかったであろう。

 当時、山版禁止になっていたアメリカの読者たちが、シェイクスピア・アンド・カンパニー書店版の『ユリシーズ』を秘かに手に入れることができたのは、ヘミッグウェイの知恵のお陰であるなどといった逸話に永久に知らされなかったかもしれない。『ユリシーズ』の出版に限らず、本書は文学史の書物などでは決して知ることのできない当時の生き生きとした作家や詩人たちの姿や裏話を知る上で極めて貴重である。

 私たちは、ともするとアメリカやフラン文学に登場する作家や詩人たちを、それぞれの国の独立した文学史の粋のなかでのみ扱い、位置づけることに慣れてしまい、国籍を異にする作家や詩人たちの生きた芸術的、生活的交流を無意識に見逃す危険がある。ジョイスとヴァレリーが、『ユリシーズ』出版記念のパーティで隣り合って坐っている写真などをみると、異様な衝撃と驚きに打たれることがある。しかし、ビーチのこの本は、そうした生きた芸術家たちの姿を裏窓から、実に楽しく覗かせてくれている。

 シェイクスピア・アンド・カンパニー書店は、その後一九三六年に財政的危機を迎える。しかしその危機も、ジィドを始め、パリの作家や学者たちの必死の救済活動によって切り抜けることができた。第二次世界大戦勃発でパリがドイツ軍に占領された後も、しばらく続いた訳であるが、一九四一年結局閉じることにたる。大戦の勃発とともに、ほとんどのアメリカ人は祖国に帰って行ったが、ビーチはパリを離れなかった。彼女はオデオン通り十二番地、彼女の書店と同じアパートで生江を閉じ、荼毘にふされた遺体となって、始めて大西洋を渡って帰国する。




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