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歴史小説論争   曽根博義

竹澤ふあうえ

もう六十年の前にことになる。1961年の雑誌「群像」の一月号に、大作家の道を歩きはじめた井上靖の記念碑的大作「蒼き狼」に、これまた大作家の道を粛々と歩いている大岡昇平が猛然とかみついたのだ。その攻撃は激しく、その長文を大岡は、
「ただそれを歴史小説にするためには、井上氏は『蒼き狼』の安易な心理的理由づけと切り張り細工をやめねばならぬ。何よりまず歴史を知らねばならぬ。史実を探るだけではなく、史観を持たねばならない。この意味で、井上氏の文学は重大な転機にさしかかっているのである」
 と締めくくっている。なにやら罵倒に近い大岡の怒りの根源はどこからくるのか。この攻撃に井上靖はどう受けて立ったのか。大作家たちの歴史小説論争は熱い。その全貌を伝える特集である。

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『蒼き狼』の同時代評    曽根博義

『蒼き狼』は単行本刊行後間もなく大岡昇平に批判され、論争になった悪名高い作品として知られるが、大岡の批判が発表されるまではむしろ好評だった。大岡の攻撃はまわりでみんなが褒めすぎることに対する単純な反感から出ていた。大岡自身、そのことを最初から断っている。まず論争が始まるまでの評価をざっと見ておこう。

 『蒼き狼』は「敦煌」が本になる前の昭和34年10月号から『文藝春秋』に載りはじめ、翌35年7月号で完結、10月10日に文勢春秋新社から刊行された。『文勢春秋』連載中から松本清張『日本の黒い霧』、山本周五郎『青べか物語』らとともに読者の人気をよび、昭和三十五年上半期の文勢春秋読者賞を受賞している。

 連載が終ると、まず各紙の文芸時評に取り上げられた。とくに『朝日新聞』にて中村光夫が上下2日にわたる「文芸時評」のうち「上」(6月20日)の全文を『蒼き狼』にあて、ほとんど手放しで褒めあげた。中村光夫によれば、『蒼き狼』は「井上氏がはじめて本気で歴史と取りくんだ小説」であって、その執筆態度は「敦煌」までの作品とは違って「叙情詩的」から「叙事詩的」に変化している。井上靖のこれまでの歴史小説は現代の常識に抵抗なく受入れられる、読者にこびる読物という傾きがあったが、この作品ではジンギスカンという「主人公を氏自身の気持にも、現代の常識にも近づけようとせず、彼とその一族が遂行したみぞう(未曾有)の征服事業にともなったさまざまな残虐行為も、ありのままに描きだして」いる。

「鴎外流にいえば氏も「自然」を尊重する境地に達したのでしょう。そして、僕等もしばらくヒューマニズムを人性の一部と考えがちな現代常識をはなれて、ゆううつな草原の英雄の血なまぐさい偉業に立ちあいます。
「氏は彼を自分の方に引きよせず、できるだけ彼に近づき、それにのりうつりたいと希っているようです。読者にむかって、彼を道徳的に批難する前に、ひとりの人間として感ずることを求めているようです。

「つまり氏は、彼の生涯を材料に読者に聞きなれた歌を聞かそうとしているのではなく、この手ごわい材料に躍りかかって、荒れ馬を乗りこなすように、これを意に従わせようとしているので、その必死な姿態は、それだけで読者に新鮮な感銘をあたえずにおきません。」
「フローベールの描いた聖者アントアーヌが、結局十九世紀人であるように、『蒼き狼』のジンギスカンにも、彼の内面を支配したように描かれているいくつかの固定観念には、現代日本人の影がさしているようです。しかしそれが井上氏の個人的感傷でなく、氏の人間観としての思想性を持ち、あるいはさらに現代人の人間観まで抽象化されている点に、この小説の読後感のある清々しさが由来するようです」

 この最後の一節は単行本になるときオビの推薦文に使われたが、その後に出た大岡昇平の批判との違いがあらわれているので記億にとどめておきたい。
 しかし『敦煌』を高く評価した河上徹太郎には『蒼き狼』は最初からあまり気に入らなかったらしい。6月21日付『讀賣新聞』夕刊の「文芸時評上」の冒頭で取り上げながら、こう書いている。

「ところで読み物、また小説としてこれは同じ作者の『楼蘭』や『敦煌』に比べて興味が落ちる点争えない。それは題材的にいって、前二作が没落の物語りであるのに対し、これは征服の記録であるのだが、つまり没落の哀愁というものがロマンチックで現代のニヒルに近いということだろうか。征服はいたずらに血なまぐさい。同時に『敦煌』はこの町が二十世紀になって世に出だのだから、人物などは自由な想像によって描いてある。『楼蘭』となると、ほとんど都市そのものの運命を描いたのだから、かえって非常の味が出ているということがあろう。今度の作品で’は人物が史実にしばられていて、よかれ惡しかれ現代離れしている。」

 白井健三郎の「文芸時評7月号」(『週刊読書人』7月4日)は、「五月十九日夜半の新安保条約強行採決以来、筆者のごとき者にとっても安保反対運動のために、連日ほとんど机に向う余暇がなかった」と書き出されていて、60年安保闘争のピークの時期に発表された作品だったことを思い出させてくれる。白井は歴史性や思想性に関して、中村光夫とは違った否定的な評価を下している。

「ジンギスカンの時代の歴史性はもちろん現代のそれとは異なるが、その歴史性を意味づけるのは、史実や記録にもとづいて人工的に再構成する作者自身によるものでしかない。もしそれがなければ、ぼくらは史実や記録そのものをありのまま与えられればよいので、小説作品として読まされる理由はなにもないわけである。

「時代を異にする歴史性の意味づけとはいえ、現代の状況に根ざす現代人としての作者の人間観、歴史観にもとづくのであり、現代から遠く離れた時代を扱うにしても、作者の現代的思想性を離れることはできない。しかし作者はこの点において不用意だったというべきだろう。ジンギスカンを現代の常識習慣とは異質の、原始神話にたいする根源的信仰を基とした草原の英雄としてとらえ、あくまでそれにふさわしい主人公の感情と行動を、作者は原始的状態のありのままに復元しようとする。

「この復元化に作者の抒情性がこめられ、事件をたんに空間的に羅列するに終っている結果、作品は平板な感動しか生みださないのである。史実や記録、地理風俗などについての研究、作品構成のエネルギーは並々ならぬものがあって敬意をはらわざるをえないか、その努力とエネルギーはよくみたされたとは言えない。原始的なものの忠実な復元化が、原始的人間像を現代に復活させる方法だと考えたところに、作者の誤算があると思うが、この誤算は作者自身の現代的思想性の掘り下げの浅さと無縁のものではないだろう」

 これに対して江藤淳が「政治と純粋─―文芸時評」(『文學界』昭和35年8月号)で、石原慎太郎『挑戦』の粗大さを浮き立たせるためだったにせよ、『蒼き狼』を取り上げて、「緻密に、慎重に構築された大叙事詩」と賞讃したのはめずらしいことだった。江藤淳はいう。
「『不純』な血への疑いを背負わされて生れたために、『純粋』になろうとして無窮動をつづけねばならぬ者、という主題は、興味深い主題である。『蒼き狼』における父と子の関係は、まさに古典的な権力関係であって、鉄木真を見るエスガイの眼、ジュチを見る成吉思汗の眼には、『子』を見る『父』の恐怖がっねに映じている。

 しかし、それより重要なことは、成古思汗が自らのなかに『父と子』を併存させていることであろう。彼は破壊するために組織し、さらに破壊するためにさらに多くのものを組織する。組織する彼は典型的な政治的人間であり、あらゆる「深く精神的なもの」を排斥して無味乾燥な実務をやりとげる実行家である。しかし破壊する彼は、いわば文学的人間、内部における『純粋』への激しい希求を、敵の抹殺と文化の崩壊という外部の証拠によってたしかめっづけようとする者である。読者は外面化された「純粋」とは『死』にほかならぬことを、成吉思汗の侵略の記録によって思い知らされる。ドイツ第二帝国でなくても、あまりにおびただしい『純粋』によってあがなわれた帝国は存在しっづけることが不可能である。成吉思汗は死ぬが、やがて彼の帝国が崩壊するであろうことは予感される。」

 江藤淳はとくに前半がすぐれているといい、「そこでは鉄木真の内面に作者の眼が向けられ、彼のおびえがことごとくにえぐり出される。そして、井上氏のひそかな歌が点綴され、ひとりの凶暴な青年のイメイジが作者の愛する歌でくまどられる」と書いている。
 
 以上が、連載完結直後の文芸時評類に現われた主な批評である。この後、本が出る少し前の10月1日付『図書新聞』に、駒田信二が新潮社版『井上靖文庫』全27巻の前宣伝を兼ねて「井上靖著蒼き狼」と題する紹介文を寄せ、ジンギスカンをたんなる英雄でなく「蒼き狼」としてとらえることによって「近来の名作」となり得た、と評している。

 本が出ると、新聞や週刊誌に書評が相次いで載った。『サンデー毎口』11月6日号の「読書室」はとくに大きく取り上げ、「現代的な英雄叙事詩」という見出しで山本健吉・三浦朱門・村松剛の座談会を掲載した。「現代化されたジンギスカンをえがいた叙事詩」ともいえるし「ジンギスカンを借りて書かれた現代の叙事詩」ともいえるという村松剛をはじめ、三人の意見は、歴史小説の一つの原型を叙事詩におくとすれば、『天平の甍』以降の歴史小説のなかでこれが歴史小説としていちばん落ち着いた作品であり、その点で井上靖の一つの転機を示しているのではないかという点でほぼ一致している。

「週刊朝日」11月6日号の河盛好蔵「英雄の生涯一は、「作者の空想と野心が思うさま翼を広げた」「近ごろ文壇の一大収穫」と絶讃した。一方、手塚富雄は、11月14日付『週刊読書人』の書評で、作品の現代的性格とその効果の巧みさは評価しながらも、「ロマンとしての本質的な新しさはない」という結論に達している。

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特集 歴史小説論争
『蒼き狼』は歴史小説か  大岡昇平
『蒼き狼』は叙事詩か   大岡昇平
自作「蒼き狼」について  井上靖
成吉思汗の秘密        大岡昇平
歴史小説と史実      井上靖
『蒼き狼』の同時代評   曽根博義
『蒼き狼』論争一     曽根博義
『蒼き狼』論争二     曽根博義
花過ぎ 井上靖覚え書   白神喜美子 



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