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吉永小百合さんへの手紙

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 いわゆるアイドルという種族は、この世界で千金を稼ぎ出そうとする芸能プロダクションや、映像メディアや、音盤メディアが、新たな売れ筋商品として生産販売するのであって、その賞味期限がきたらあっさりと捨て去るようになっている。それがアイドル路線といったものだった。そのころはアイドルなどという言葉はなかったが、吉永小百合さんはまさにそのアイドル路線にのっての登場だった。今では信じられぬ話だが、その当時は一週間ごとに新作が映画館にかかるばかりの映画全盛の時代で、彼女を主役にした映画もまた一か月に一、二本といったぺースで生産されていたのではないのだろうか。それは創造というよりも生産だった。

 彼女はこうしてアイドルとしてスタートしたが、しかしアイドルとしての賞味期限がきても彼女は捨てられなかった。それどころか、二十代になっても、三十代になっても、四十代になっても、さらには五十代になっても、六十代になっても、彼女はアイドルだった。アイドルの賞味期限はせいぜい二、三十歳までで、そのラインを越えるともうアイドルとは呼ばないのだろうが、吉永さんだけそんな流行用語の概念を突き破るアイドルであり続けた。

 これまで彼女はどのくらいの映画、テレビドラマを撮ったのだろうか。おそらく百本を越えているはずであり、それも大半が主役での登場なのだ。流行商品として販売されるアイドル路線から、大スターへと自己確立していったのである。こういう例は吉永さん以外にはない。どうして彼女だけが、このような奇跡を成し遂げてきたのだろうか。私は推測するのだが、それは多分こういうことではないのだろうか。俳優以前の人間としての自己確立を厳しく自分に課してきたからだと。あるいはまた逆説的にこうともいえる。スターとしての自己確立を厳しく自分に課してきたと。

 例えば、ハリウッドの俳優たちが、高額の出演料をせしめるような文字通りのスターになっていくと、さかんにボランティア活動を行うようになる。小児ガンにかかった子供たち専用の病院を建てたり、知的障害者たちのトレーニングセンターを創設したり、あるいは若い俳優たちのための学校をつくったり、災害にあった町を再生したり、売れない映画を製作したりと、それぞれがさまざまなボランティア活動に取り組むようになる。ボランティア活動とは、福祉活動をするという意味ではない。ボランティアという原語の意味は意志の人ということであり、この原語の意味を積極的に訳すると理想を実現する人ということになる。彼らはそれぞれの理想を実現させていくために、資金を投じていくのだ。

 自分はスターとして選ばれた人間になった。スターとして選ばれた以上、選ばれた人間が果たすべき使命というものがある。彼らはスターとして自己を確立するためにボランティア活動に取り組むのだ。そういう使命を自分に課しているスターだけが、つねにスターであり続ける。私の好きな俳優たちはいずれもそんな生き方をしている。吉永さんもまたそんな生き方を自分に課していた。そのことがわかったのは、彼女が原爆詩の朗読活動をはじめたことによってだった。彼女は選ばれたスターとして原爆詩を朗読するという使命を担ったのである。

 吉永さんが撮った百本を越える映画やテレビドラマのなかでも、とりわけ「夢千代日記」は代表作どころか別格のものであるにちがいない。おそらくこの作品と出会って、彼女は決定的に俳優としての自己を確立したのではないのだろうか。スターには次の作品が待っている。次の作品に没入するために夢千代は脱ぎ捨てねばならない。並の俳優ならばそれがどんなに特別な作品であっても、あっさりと脱ぎ捨てて次の作品に立ち向かう。しかし吉永さんは夢千代を脱ぎ捨てなかった。それは脱ぎ捨ててはならぬものだった。あの原爆の悲劇は脱ぎ捨ててはならぬものなのだ。

 太平洋戦争もどんどん遠ざかっていく。例えば高校生たちとその戦争のことで対話すると、こういう言葉が返ってくる。「あっ、それって知っている。この間、学校で習ったよ。それって、日本も参加したんでしょう」。参加したである。まるで予選を勝ち抜いてきた日本のサッカーチームがとうとうワールドカップに参加したといったのりである。だからこそ原爆の悲劇を語り継いでいかねばならない。それは心がえぐられることだった。目をそむけ、耳をおおいたくなるわれらの歴史に彫りこまれた悲劇だった。しかしだれかがその悲劇を昨日の出来事だったと、ありありと伝えていかねばならない。吉永さんはスターが担わねばならぬ使命として、そのボランティア活動に取り組んだにちがいない。


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吉永小百合
渡哲也さん、高倉健さん、樹木希林さん……一緒にやってきた人たちが次々に欠けていく、ちょっと辛いものがあるんですね、今のところはひとりになってしまったような感じ、とにかく映画の現場っていうのはめちゃめちゃ好きで、やっていきたいんだけれども、自分にそれだけの力がこれからあるんだろうかという恐れ、疑問があるんですね、それはデジタルになって映画の時代が変わっていく中で、体力、気力とかをしっかり持っていればいいんだけれども、セリフを覚える能力が本当に衰えている、そろそろ幕を閉めるから、私はもういいやと……今回の「こんにちは、母さん」のお話があって、これで、やめられると自分は思って、監督の映画、これで最後にできるなら……
 
山田洋治
百本も二百本も映画に出たりしますけど、吉永小百合には緊張するんだな、それがあの人なんだよね、いいところなんだよ、いちばん難しいけどね。宮本信子さんなんて簡単におばあさんになれる、あの人はなかなかおばあさんにはなれない、(体幹がしっかりしているから、おばあさんではないですよね、立ち方が)そうなんだ、そうなんだ、鍛えているからね、だから、いちばん最初にこの話をするとき、おばあさんになれますかって言ったの、普通の女優ではないからね、吉永小百合っていう存在があるわけだな、それは永遠に歳をとらないみたいなことなんだけど、どこかでふと老人になれる、そういう風にできないと、結局だんだん中途半端になっていっちゃう。

高倉健さんだって、最後の作品はだいぶ体のせんが崩れて、しかしそんなの七十になれば当たり前なんで、だけど、ちょっとよたよた歩く高倉健は、高倉健じゃないってことになつちゃうんだな、それは健さんにもすごい悩みだったんじゃないのかね、同じような問題も小百合さんにもあるわけで、いつでもしゃんとしてなければいけないっていうかな、小百合さんであり続けることは、どんなにプレッシャーであろうかと、ときどき気の毒に思うぐらいだね、

小百合さんと出会ったのはもう五十年も前になるけど、ああ、ついにぼくたちの寅さんシリーズに吉永小百合が登場って、どんなにみんなうれしかったかわからないね、撮影所でみんな興奮して彼女を迎えたという記憶がありますね、そういう存在でしたね、彼女はね、小百合さんの企画だったら、いくつでも持ち出せますよ、いくらでも、だって小百合さんと仕事をするっていうのは、大きな喜びだからね、あのすてきな、人格にふれられるってことですよね、美しいっていうのは、顔形だけじゃなくて、感受性から、思想から、生き方をふくめてね、吉永小百合っていう人はそういう位置にいる人じゃないかな。

小百合さんが、そのこと(引退)についてどう考えているのかわからないけども、もしもよ、これが私の最後の作品になりますといって出演した映画っていうのは、あまりにつらいね、そんな悲愴な映画は見たくないなって感じがするね、依然としてフレッシュで、依然として美しく、そんな引退なんてふさわしくないですよ、同じ問題はぼくにだってある、ぼくだってもうそろそろ引退だけど、みんなにこれが私の最後の映画ですよなんて言って映画つくりたくないね、
 
吉永小百合
(「こんにちは、母さん」の映画が完成、その試写会の後で)
映画自体はね、たぶんお客さんが見てくださって、なんか心があらわれるような形になってはと思って、それはとてもうれしいことなんですけど、私はもうちよっと、もうちょっとやらないと、うまくはならなくてもいいの、もう芝居をしていないように見えるくらいに透明感を持ちたい、ちょっとまだね、もうちょっと勉強して、もうちょっと表現をつけたいって、今思っています。
(NHKプロフェッショナルより採録)
 
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吉永さんもいよいよ八十歳に突入する。ということは吉永さんもまた八十歳からおこすルネサンスの時代に踏み込んだということである。吉永さんが生起させるルネサンスとはなにか。それは監督になることだ。監督になって映画をつくることである。アメリカでは女優が二足の草鞋を履くことはすこしも珍しいことではない。監督になって名作を作り上げた女優は何人もあらわれる。しかしこの日本では、たった一人の例外をのぞいて皆無にひとしい。そのたった一人とは、田中絹代さんである。大スターであり数々の映画賞に輝いた田中さんは、六本もの映画を監督として制作している。

二足の草鞋を履くと言っても、俳優と監督業とは別次元の仕事である。映画製作のすべて、膨大な作業を担わねばならない。しかし力量のあるスタッフを配下に従えて、メガホンをとれば女優にだって名作を誕生させることができるのだ。二百本近い映画に主役を張ってきた吉永さんは映画作りを熟知している。吉永小百合監督から、沈滞し劣化していくばかりの日本の映画に、新生の光を投じる名作が誕生するだろう。吉永さんは、八十歳から起こすルネサンスの体現者なのだ。

かつて日本には映画の黄金時代があった。黒沢明や小津安二郎がメガホンをとっていた時代である。それから半世紀の月日が流れたが、果たして黒沢や小津が撮った映画を超える作品が現れただろうか。何千本もの映画を見てきた私見から言うと、彼らの作品をこえる映画など一本も現れていない。現れていないどころか、駄作、駄作、これまた駄作ばかりで、日本の映画はマンネリとワンパターンとべニア板の安普請づくりの底に沈んだままである。

俳優と監督の二刀流を担って、数多くの名作を誕生させたスターの筆頭に上げられるのが、クリント・イーストウッドだろう。彼が2003年に制作した生と死の問題を鋭くえがいた「ミリオンダラー・ベイビー」は、アカデミー賞の主要四部門を獲得している。この映画は永遠に色あせない名作である。あるいはロバート・レッドフォートもまた多くの作品を撮っているが、青年の自己確立の物語をえがいた「リバー・ランズ・スルー・イット」をぼくはこよなく愛する。何度みても新しい感動の泉がわきでてくる。この映画もまた永遠に残っていく名画である。

映画作りの基盤はなんといってもシナリオである。シナリオによってその映画の真価が決定される。そのシナリオは、シナリオライターが独自に書き上げることもあるが、大半の映画は原作からシナリオがつくりだされていく。「ミリオンダラー・ベイビー」はF・X・トウールの短編小説「テン・カウント」からであり、「リバー・ランズ・スルー・イット」は退職した大学教授ノーマン・マックリーンが、はじめて小説に手を染めて書き上げた中編小説から脚色されている。

したがって吉永小百合監督は、まずシナリオ作りの前に名作に出会わなければならない、その名作に出会ってから、厳しいシナリオづくりがはじまるのだが、ここで一つの提案というか挑戦をするのだが、吉永小百合監督の最初の作品は、「青い海、青い島」を読み込んで、この作品を映画化してはどうだろうか。このストーリーを完璧なシナリオに磨き上げて映画化されるとき、「リバー・ランズ・スルー・イット」のようないつまでも心に響く名作が誕生するだろう。



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