実朝と公暁 六の章
実朝は殺された。しかし彼の詩魂は、自分は自殺したのだと言うかもしれない。 ──小林秀雄
源実朝は健保七年(一二一九年)正月二十七日に鶴岡八幡宮の社頭で暗殺された。この事件の謎は深い。フィクションで歴史を描くことを禁じられている歴史家たちにとっても、この事件はいたく想像力をかきたてられるのか、その謎を暴こうと少ない資料を駆使して推論を組み立てる。しかしそれらの論がさらに謎を深めるといったありさまなのだ。それもこれも、実朝を暗殺した公暁がいかなる人物であったかを照射する歴史資料が無きに等しいところからくる。
しかし鎌倉幕府の公文書とでもいうべき『吾妻鏡』を、なめるようにあるいは穴の開くほど眺めていると、この公暁がほのかに歴史の闇のなかから姿をみせてくるのだ。というのもこの『吾妻鏡』のなかに「頼家の子善哉(公暁の幼名)鶴岡に詣でる」とか「善哉実朝の猶子となる」といったたった一行のそっけない記事が記されていて、それもすべてを並べたって十行余にすぎないが、しかしそれらの一行一行の奥に隠された公暁の生というものに踏み込んでいくとき、そこから公暁はただならぬ人物となって現れてくるのだ。
それは歴史学者たちが好んで描く、実朝暗殺は幕府の重臣たちの権力闘争であったとか、北条一族が権力を握るために公暁に暗殺させたとか、公暁が狂乱の果てに起こした刃傷沙汰だったといったことではなく、なにやら公暁なる人物が、主体的意志をもって時代を駆け抜けていった事件、公暁が公暁になるために──すなわち鎌倉に新しい国をつくるために画策した事件であったという像が、ほのかに歴史の底から立ち上ってくるのだ。
したがってこの謎に包まれた事件に近づいていくには、暗殺の首謀者である公暁を、どれだけ歴史のなかから掘り起こしていくかにある。もし公暁に生命を吹き込むことに成功したとき、私たちははじめてこの歴史の闇のなかにかすかであるが、一条の光を射し込ましたということになるのであろう。
六の章
公暁が道忠をしばらく避けていたのは、この僧の放つ言葉にたじろいでいたのだ。彼の魂を暗黒の底に引きずり込んでいくばかりの言葉の力に。それは真実を語るということの力なのか。平和な光が降り注いでいるかのように見えた鎌倉は、実は血で血を洗いながらつくられてきたのか。少年公暁に親しく声をかけてきた御家人たちもまた裏切りと謀略の主人公だったのか。真実を知るということは、暗黒の底に転がり落ちていくことなのか。公暁にとって道忠の暴きたてる歴史の姿は恐怖そのものだった。
眠りが浅くなった。眠りに落ちたかと思うと、すぐに悪夢にうなされ眼が覚めてしまう。するともはや二度と眠れない。僧房を抜け出て、井戸端に立ち、桶を落として水を汲み上げ、その恐ろしい悪夢を振り払うようにばさりと水をかぶる。そして雑巾を手にして、院や殿や堂の床や回廊を拭きはじめる。あるいは竹箒を手にして、樹木が落とす枯れ葉を掃き集める。園城寺の敷地は広大だった。本殿を中にして常喜院、真如院、花園院、青龍院と大小の院や堂が立ち並ぶ。その建物群を縫うように一人の若い僧が、月光を浴びて枯葉を掃き集めている姿は、何か鬼気せまるものがあった。
まだ夜も明けぬうちから朝の勤行がはじまるが、公暁の座は並みいる高僧たちを飛び越えて、園城寺長吏の脇にすえられていた。僧たちの声が一つの大河となって朗々と響く。その朗々と流れる重厚な響きのなかで、公暁の若い声はまるで天空を駈け上るひばりのさえずりのように響き渡る。
公暁は一心に祈りの声を上げて、彼の胸にぴたりと張りついた道忠の声を追い払おうとした。しかしそれも無駄だった。道忠の声はいよいよ公暁のなかに突き刺さってくるばかりだった。
道忠を園城寺の北方の小高い丘に、ひっそりと立つ灌頂堂に誘ったのは、彼を避けてから五日目だった。公暁の抵抗はたった五日間だったということになる。ふだん閉じられている扉の錠を開くと、堂に取りついた小窓を開き、その小さな口から二人は身をくぐらせて、ゆるく傾斜をつけた屋根に出た。広大な園城寺の一帯がそこから見下ろせた。風がひゅうひゅうと吹きつけて、彼らの僧衣を翻した。
「ここならば、誰の耳も気にすることはありません」
「公暁さまの身の軽さは、まるで猿のようでありますね」
「鎌倉で私は悪童でした、あきれるばかりに悪戯ばかりをしている子供でした」
「その悪童ぶりが鎌倉中に知れ渡ったのは、重臣たちの子供たちと三浦の海に向かったときでした」
「そんなこともありました、和田の子供も、引企の子供も、北条の子供も、三浦の子供もいました、私は彼らを引き連れて鎌倉を脱出したのです」
「鎌倉の辻々に警備の軍が配置されたほどの騒動でした」
「あのとき私は彼らを三浦の海に連れていきたかったのです、三浦からさらに海を渡って安房の国に連れていこうと、三浦に育てられた私は、何度も安房や上総の国に渡ったものです、それはまるで新世界に渡るような興奮でした、その興奮を鎌倉という小さな世界にいる彼らにも知ってもらいたいと思ったのです、いまあのときを振り返ってみると、私はいつも海の彼方にまったく新しい国がある、その国こそ私の住む所だという思いがあったのです」
「実朝さまもまた海の向こうに憧れているようでございますね。宗の国に渡らんと大船を建造なさったと聞き及んでいます」
「私と実朝とは違います」
と公暁はぴしゃりと言った。そして彼の抵抗を放棄するように、
「話を聞かせて下さい、あなたの真実の歴史というものを」
「そうです、歴史です、この風の唸りもまた私にそう囁いています、語れよ、語れよと、それはまた公暁さまにはおつらい話になりますが」
「私はもう慣れました、どんな話を聞いても、私の心は傷つかぬようになっています、どのような話をなさっても驚かぬし、傷つくこともない、もうたっぷりと驚き続けた私の心は鋼のようになりました」
「それならばよろしいのですが、公暁さまのお姿を遠くから見ておりまして、私はこのようなことをお話しすべきではなかったのだと自責の念にかられておりました」
「私にかまわず話をはじめて下さい」
「いよいよ時代は、私たちの立っている現代に近づいてまいります、骨肉の争いとはまさにいまからお話するようなことをいうのでしょうか、父時政を打ち倒した義時は、一気に歴史の前面に躍り出てきたというところまでが、前回のお話でございました、さて、義時は父時政にかわって政所の別当に就任すると、巧妙な駆け引きをもちいながら、権力の階段を一段また一段と上っていくのですが、そのとき彼の行く手にいつも立ち塞がる人物がおりました、すなわち待所の別当、和田義盛どのであります。
争乱というものは、いつもその底に争乱を生起させる大きな潮流が流れていることをたびたび指摘してまいりましたが、このときもまた大きな潮流、すなわち鎌倉の覇者とならんとする義時と、この義時の台頭を阻止せんとする反義時勢力、その中心がほかならぬ和田どのでありましたが、この二つの相拮抗する潮流が流れていたのです、このときこの均衡を破る一つの陰謀が発覚いたしました。
建歴三年の二月十五日のことでありました、千葉成胤が言動あやしき安念なる僧を政所に差し出すと、義時は金窪行親という奉行にその探査を命じるのですが、この金窪という奉行の取り調べまことに凄まじいものでありました、白を黒と、黒を白といわすばかりの拷問で自白させていくのですが、このときもまた安念を拷問で攻め立て、栄実さまを擁した一味が幕府を倒す陰謀をひそかに進行させたと自白させるのです、すると金窪はその一味を逮捕拘禁して、またもや凄まじい拷問によって新たな人物の名を吐き出させる、こうして次から次へと二百余名を逮捕して、大規模な陰謀が進行していたと義時に報告するのです。
さすがにこの拷問によるでっち上げは、幕僚や御家人たちから抗議と非難の声が上がり、政所もやむなく逮捕した二百余名を釈放していったのでありますが、しかし義時に対する非難の声は鎮まるどころかえって高くなり、義時は政所別当を辞任せよという声まで上がっていったのです、しかし義時はこのような非難に屈する人物ではありませぬ、それどころかその轟々たる非難のさなか、彼は彼の時代をつくりだすための一大決意をなしたものと思われます、すなわち常に義時の前に立ち塞がり、このときもまたさかんに義時更迭の声を上げておりました和田一族を、一挙に打ち倒さんとする一大謀略を。
ついに義時はその謀略に踏み出しました、泉小次郎なる者に実際に乱を起こさせ、その詮議にまたもや金窪を投入したのであります、白を黒といわす金窪にとって、事件をでっち上げるなどたやすいことでありました、そのときもまた金窪は十数名を逮捕するのですが、その半数が和田の家臣でありました、しかもそのなかに義盛どのの四男義直さまと、六男義重さま、さらには甥の胤長さままでもが含まれておりました、この胤長さまは弓の使い手として、鎌倉どころか日本に二人と並ぶものがないと評されるばかりの名手でありました、武勇だけでなく、英明であり、統治の力を持ち、和田一族が誇る人物でありました、義盛どののはげしい抗議に義時は、義直さまと義重さまを釈放しましたが、しかしこの胤長さまだけは陰謀の首謀者であったと断じて、さらには胤長さま側近の家臣たちを検挙するという挙に出る始末。
この幕府の対応に義盛どのは、九十八名の一族の武者を率いて幕府の南庭にずらりと列座させました、それは一種の武力による威嚇であったのですが、しかしそれもまたいまという時点から振り返ると、義時の策謀にまんまと陥れられたということでありましょうか、義時は幕府を胴喝するとは何事だと怒り、これ以上の侮蔑はないやり方で、和田一族に報復する挙に出るのです、荒縄で締め上げた胤長さまを、九十八名が列座する面前に引き出し、一族が注視するなか、胤長の屋敷没収と、胤長を陸奥国に追放する、直ちに執行せよ、と大音声で言い渡し、胤長さまを奉行山城行村に引き渡しました。
この屈辱の光景を目の当たりにした和田一族の怒りは頂点に達しますが、しかし義盛どのは、ここで怒りを暴発させてはならずと必死にこらえたのですが、義時の和田に対する挑発はこれでもかと続き、没収した胤長さまの屋敷を、何と謀略を組み立てた金窪に報償として与えるという挙に出るに及んで、ついに和田一族は蜂起の旗を上げたのです」
風が堂を巻き、ひゅうひゅうと唸りを上げて、吹き渡っていく。そのたびに公暁や道忠の僧衣が、ぱたぱたと風に翻って音をたてる。
「戦端はひそかに集結させた二百五十騎によって切って落とされました。その二百五十騎を三手に分け、一手を幕府の表門、一手を南門、そして残る一手を義時邸に向けたのであります、この作戦は幕府をまず制圧し、さらに義時を討つことにありました、精鋭二百五十騎の戦闘はまことに果敢勇猛、警護きびしき幕府になだれ込み、建物に次々に火を放って幕府を陥れたのでありますが、義時の館に向けた一隊は苦戦を強いられ、義時邸の周囲に点在する北条一派の軍が駈けつけてくるに及んで、果敢な戦闘も力尽きて壊滅していくのです。
このあたりから体制を取り直した幕府の軍は、和田の軍をじりじりと押し返す一方、和田邸にも襲いかかりその館を炎上させると、形勢は一気に逆転いたしました、和田の軍は後退につぐ後退で、その日は由比ガ浜に陣を張ったのであります、翌日、作戦通り和田の領地から一千の部隊が鎌倉に到着しました、新たな勢力を加えた和田の軍の反攻は凄まじく、幕府軍を若宮大路へと押し返し、鎌倉を占拠せんと全域に戦線を拡大していったのです、しかし幕府軍にもまた各地から戦闘部隊が、陸族と鎌倉に参着して戦闘の層を厚くしていくと、和田の軍を所々で打ち砕き撃破して、和田の武者たちも次々に討ち取られ、ついに義盛どのも敵の手に落ちていきました。
こうして和田の軍の壊滅していったのですが、その作戦の子細をもう一度検証してみるとき、もし二つの致命的な過ちがなければ、戦いは和田の勝利であったと思われるのです、やがていつの日か、公暁さまのお役に立つかもしれず、その検証を披瀝いたしますが、先制の攻撃である二百五十騎の奇襲は正しかったのです、あの奇襲がなかったら、幕府は圧倒的な軍勢を整え、逆に先制の攻撃をかけてきたでしょう、あのとき和田は奇襲する以外になかったのです、精鋭百五十騎の奇襲によって幕府を落とすことに成功しましたが、しかし義時邸の攻撃は失敗しました、このとき和田は、その主力をむしろ義時の館に向けるべきだったのです。
もしあのとき主力百五十騎を義時邸に差し向け義時を討っていたなら、その棟梁を欠いた幕府はたちまち混乱し、あのような反攻の体制を整えることができなかったでありましょう、この作戦の過ちはいまだに悔やまれてなりません、和田が最初にしなければならなかったのは、幕府を襲うことではなく、義時を撃つことだったのです。
さらにもう一つの敗因は、援軍一千を、蜂起したその日に鎌倉に入れねばならなかったのです、和田の練りに練った作戦は、和田の領地から一千の兵を蜂起する前日の夜、闇をついて鎌倉に長駆させることでありました、蜂起以前に大軍を動かせば幕府に察知されます、そこで援軍一千を鎌倉に入れるのは、蜂起した翌朝としましたが、これはむしろ逆であり、蜂起前日にひそかに大軍を鎌倉裏に移動させ、蜂起と同時になだれ込み、一気に鎌倉を制圧するという作戦をとるべきであったと思われるのです、もしこの二点の過ちがなければ、勝利は確実に和田のものだったのです」
まるで歴史のうねりに身を預けるようにして聞いている公暁の中に、ふつふつとよぎるものがある。このとき公暁がそのよぎるものを口にした。
「あなたは歴史というものは、勝者からでなく、また敗者からでもなく、つねに公平な視点からとらえていくべきだと語られてきましたが、今回の話は何やらその公平なる視点が失われているように思われますが、それは何か理由があるのでしょうか」
すると道忠は、やや慌てる様子で、その問いに答えた。
「そのように取られたのなら、私の歴史を推察する力が不足しているからでしょう、歴史をとらえる者の嗜好が、しばしば判断を狂わせます、そのことは常に反省するところでございます」
「いや、そうではなく、あなたはかつて和田に仕えていた者ではありませんか、だからこそあの乱を、和田の視点からとらえていくのではありませんか」
深い沈黙があった。また烈風が吹きつけて、ぱたぱたと二人の僧衣を翻した。
「公暁さまは、弟君の千寿丸、出家なされて栄実と名乗られましたが、その栄実さまのことはお聞き及びでございましょうか」
「栄実は一昨年に病死しました、巌泉寺の墓地に葬られています、私は二度ほどそこで供養の読経を行ってきました」
「その栄実さまは、真実病死なのでしょうか」
「栄実もまた病死ではないというのですか」
「病死とは病に落ちることであります、そうであるならば、栄実さまは病死などではございません」
「そなたは、栄実も父と同じように惨殺されたというのですか、わが兄一幡と同じように、謀略のなかで惨殺されたというのですか、話して下さい、その真実とやらがまた私の心臓を突き刺しても、真実を知りたいのです、私の心臓はいまや鋼になった、どんなことが語られても少しも驚きません、私の眼がえぐられても真実を見たいのです、どうか真実を語って下さい」
「幕府は討ち取った和田一族の三百にものぼる首を、河原にずらりと並べて、カラスの餌食にする一方で、諸国に点在している和田の領地にもまた掃討の部隊を派遣し、和田家を根絶やしにする作戦を展開しました、かつて頼朝さまは義経さまを追跡するために、全国に地頭と守護の包囲の網をつくりだしました、そのことが天下を治める土台となったのでありますが、義時もまたそれにならって諸国に和田の残党狩りを指令しましたが、それは今日まで執拗に続いております。
それらの厳しい追跡の眼を逃れながら、和田の家臣たちは、あるいは商人になり、あるいは農民になり、あるいは工人になり、あるいは僧となって諸国を巡礼しながら、無念のなかに倒れた和田家再興の道を探っているのでございますが、しかしそれは容易な道ではありません、彼らにもそれぞれ妻子があり、妻子を養うだけで精一杯であり、とにもかくにも食べていくことで手一杯なのです、厳しい追跡におびえながらの生活はともすると挫けそうになります、が、それではいけない、やがて訪れる光あふれる道を作り出さねばならないと、この京に逃れてきた者たちが、ひそかに集い、励まし助け合って生きていたのでございますが、そのときたまたま横山五郎なる者が、栄実さまとのご面識をえるのでございます。
栄実さまは辛苦のなかで生きている和田一族に対し、並々ならぬお心をお寄せになられ、過酷な和田の残党刈りを打ち切る道を、ともに探しだそうという励ましのお言葉をかけられるのです、そのお言葉に感動した彼らは、集いの場に栄実さまをお迎えしたのですが、それを探知した六波羅は、幕府から派遣された宇佐美右衛門、武田有範、佐々木廣網らとともにその集会の場に斬り込み、たちまち七名の和田の家臣たちを屠り、さらに栄実さまをもその場で惨殺したのです」
公暁は瓦の上に思わず立ち上がっていた。そして震える声で、
「そなたはいったい何者なのだ、いったい私に何を吹き込むというのか、父は惨殺された、兄もまた惨殺された、そしてわが弟も惨殺されたというのか、この弱い私の心に、何を吹き込み、いったいどこに私を連れていくというのか!」
道忠は公暁の頬に怒りの涙が落ちているのを見た。人は怒りに震えるときも涙を流すものなのか。道忠はそんな公暁にはげしく打たれ瓦の上に座り直すと、
「明日、私の正体を明かします、そのとき公暁さまにお引き会わせしたい人物がおります、その人物を連れてまいります、どうか会ってやって下さい、裏山の草思堂に、朝の勤行が終えた刻にきていただけますか、そこでお待ちしております」
その朝、早朝の勤行が終えた公暁は、その裏山に向かった。園城寺の敷地はあたりの山を越え、さらに次の山を越えて広がるというばかりに広大だった。その山道のあちこちに小さな堂が立っている。道忠としばしば密会した草思堂と名づけられたその堂には、獣道のような山道を登らねばならない。公暁は歩きながらいまなお迷っていた。いくべきではない。そこにいったらおれは決定的な過ちを犯すことになる。戻らなければならない。道忠との縁を切らなければならない。悲痛な声が彼の底から立ち上ぼってくる。しかし公暁の足はその声に反して、ずんずんと山道を上がっていく。やがて木立のなかに小さな堂が見えた。
公暁はもはや躊躇しなかった。くるならこい、どんな運命がきてもたじろぐことはない、と自らに決然と言い放ってその堂に向かった。
鬱蒼と茂る木立に包みこまれた草思堂は、板間が一つあるばかりの建物だった。段を上がり板戸を開くと、道忠が壁を背にして座禅を組んでいる。公暁は声をかけた。道忠からの声はない。かわりに血の匂いが公暁の鼻を打った。公暁は身構え、どのような襲撃にも立ち向かわんと、はげしい気迫で堂のなかに踏み込んだ。
道忠の額に長刀が突き刺さっていた。長刀は頭部を貫いて、土壁にぐさりと突き刺さっている。床にもう一体横たわっていた。半身を堂の外に突き出している。その人物こそ道忠が公暁に引き合わせようとした男に違いない。顔を見ようとうつぶせに横たわる体を引きずり上げようとしたが、公暁はぎょっとなって手を離した。その人物の首が切り落とされていたのだ。