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その事件の四日前

 文部科学省は政府官庁の建物が林立する端に立っているが、官庁ビル一ののっぽビルだった。初等中等教育局長室は二十七階にある。テニスコート一面ほどの広さだ。寺田洋治は八時過ぎにその部屋を出る。朝は八時前に局長室に入っているから、十二時間勤務したことになる。部屋を後にするとエレベターホールに向い、ノンストップのエレベターで地下三階に下り、送迎車専用の玄関に出る。そこで局長専用車に乗り込む。それが寺田の退庁するときのルーティンだった。

 彼は夜の会食が嫌いだった。夜の街にくり出すことがさらに嫌いだった。会食の必要があるときは昼食時に組み込んだ。彼を料亭などに呼びつける政治家たちには、早朝なら空いています、先生のお話になりたいその複雑な問題は、頭脳明晰な早朝にこそふさわしいと応じる。

 局長室付きの秘書事務官が、ねずみ色の封筒を携えて彼についてくる。エレベターは地下三階に下りていく。エントランスホールを出ると、彼を送迎する黒塗りの専用車が滑り込んでくる。秘書官がドアをあけ、携えてきた封筒を寺田に手渡すと、寺田はありがとうと言い、車に乗り込み、専属の運転手に「お願いします」と声をかける。官僚というピラミッド社会の階段を駆け上がっていく官僚たちは、次第に下位の階級に住む人間たちにぞんざいに振る舞うようになるが、洋治は威張ることはない。しかし彼の人格は単純ではない。むしろ複雑な人物だった。

 車は地下から地上にあがり首都高速に入る。秘書官が洋治に手渡した封筒には、その日に発行された文科省に関連する新聞や雑誌記事のコピーがファイルされている。そのファイルを取り出して、さあっと目を通していく。それが彼のなすべき一日の最後の仕事だった。

 その日のファイルが分厚い束になっているのは、この日に発行された週刊誌がいずれも、間もなく国会に提出される「初等・中等教育の教育課程に関する新教育指導要綱」を取り上げているためだった。いずれもどぎついタイトルで下半身的刺激を煽ろうとしている。それだけの安っぽい空っぽの記事だからざっと一瞥するだけだった。そんなファイルのなかで彼の手が止まった新聞記事があった。
 
ある官僚の熱く長い戦い(一)
翻訳ソフトの開発
 
 今国会に提出される「改訂教育指導要領」は、現行の教育制度を根底から変える革命といえるだろう。中学と高校の全生徒にパソコンが支給され、教科書が廃止になり、ノートも筆記用具も不要になる。さらなる大改革は英語である。これまでの英語の授業は教師が教科書にそって英文の解釈や文法を教えていた。こういう授業もまた完全に追放される。
 改訂指導要領による英語の授業は英会話中心で、一対一の対話、グループを組んでディスカッション、さらにはデベイトが行われたりする。教師の役割も一変する。教師はもはや授業の主役ではなく、会話レッスンの進行役、あるいはそのレッスンの管理人といったことになる。文法を教えることこそ英語教育の根幹であり、本道であると主張する英語教師たちからは、英語教育の破壊だと怒りと抗議の声が上がっている。
 さらに激しい論議をよんでいるのは、英語の授業時間が拡大されたことである。これまで国語と同じく週三日の三時限授業だったが、新指導要綱では英語が突出して週五日の五時限授業、さらに土曜日の選択授業に英語を選択すれば週六日も英語の授業になる。日本の教育は英語中心になる、これでは日本語が滅んでいくという非難の声も湧きあがっている。
 しかし文科省は大改革に向けて舵をきった。そこには一人の官僚の熱く長い戦いがあった。初等中等教育局長の寺田洋治である。文科省が巨大な船体の舵をきるまでの寺田の半生を三回の連載で追ってみる。
 寺田は東京で生まれるが、その年に物理学者だった父親が東大からプリンストン大学に転任したため、彼はボストンで成長していく。一家が帰国したのは寺田が十三歳のときだから典型的な帰国子女だった。帰国子女の多くが日本語に苦しむが寺田は二つの異なった文化をバランスよく成長していったようだ。そして中学三年生のとき、今日の英語改革の素地をつくったといわれる「草の葉メソッド」による授業に出会う。
 翻訳ソフトをベースにした授業である。ところが当時の翻訳ソフトの性能は、実用にほど遠い未完成品だった。そのことが物理学者の血が流れる寺田の科学的探究心に火をつけたようだ。東工大に入ると翻訳ソフトの開発に打ち込み、そのソフトが完成すると会社を立ち上げ、《オディセイ/ODYSSEY》という商品名で世に投じる。翻訳ソフトの革命と賞賛されるソフトだった。翌年にはその会社を大手のコンピューターメーカーに数十億円で売却している。
 若くして寺田は巨額の金を手にするのだが、彼が選択したのは官僚の道だった。当時、官僚になるには国家試験合格者だけだったが、その年から学長推薦者を採用するというルートが取り入れられた。寺田はその新制度によって文部科学省に入省した一期生だった》
 

 その記事は毎朝新聞の朝刊に載った記事だったから、今朝出勤途上の車のなかで目を通していたが、あらためて読んでみるとずいぶん安直に仕立てられたものだと思った。新聞記者はもともと情報を打ち込む人種だから、事件だって、社会現象だって、人間だってこの程度のとらえ方しかできないのだろう。それはそれでいいがこの記事には三つの間違いがある。

 帰国子女が日本に戻ってきたとき日本に溶け込むことに苦労するものだが、寺田はそのことに苦しまなかったと書かれている。なるほどこの記事を書いた新聞記者はそのことを彼に問いかけてきた。しかし洋治はポーカーフェイスに徹してただ軽くクビを振った。彼は他者に弱みを見せない。苦しければ苦しいほどポーカーフェイスで耐え抜く、そういうタイプの人間だった。もしこの新聞記者が洋治のこのような性格を見抜き、ポーカーフェイスの内部に踏み込んできたら、多少は彼の実像を捕える記事になっていたかもしれない。

 異国で成長してきた子供が、突然、言葉や文化や生活の異なって国に投げ込まれて戸惑わない子供がいるのだろうか。彼はまず猛烈ないじめに出会った。そのいじめに対抗するために必殺の一撃を習得するために空手道場に通った。その必殺の一撃とは、相手の攻撃から逃げるように避けるように体をかがめて一回転させ、右足を蹴り上げ、踵を相手の顔面に叩き込む──回し蹴りだった。道場から帰宅してからも庭に立てた柱に必殺の回し蹴りを叩き込んだ。そしてついにその日がきた。中学一年生の回し蹴りだったが、相手は三メートルも吹き飛んでいた。その一撃でいじめはばたりと止んだ。

 彼をさらに苦しめたのは日本語だった。彼の第一言語はすでに英語になっていたから、彼の中学時代は日本語を第一言語にしようとした戦いの日々であった。言葉に鋭敏な少年だったからその戦いは深刻だった。偏頭痛に苦しめられ、アスピリンづけになっていた。そんな変調をきたすほどに追い詰められていた彼を救ったのが、中学三年生のときに出会った「草の葉メソッド」方式による英語の授業だった。

 それまで二つの異なった言語の争闘は、彼の頭の中、あるいは彼の肉体の中で行われていた。それがその授業によって翻訳ソフト上で行うようになったからだった。偏頭痛が消えていった。アスピリンから解放された。分裂していくかのようだった精神や肉体が統一され、いわゆるバイリンガルとしての自己が形成されていった。彼が翻訳ソフトの開発に打ち込んでいったのは、いわばバイリンガルとしての人格を形成していくことでもあったのである。

 開発した翻訳ソフトを大手ITメーカーに売却して、若くして数十億円という巨額の金を手にしたと書かれているくだりがあるが、このくだりも正しい記事とはいえない。なるほど彼が開発した翻訳ソフトは九十億で売却された。しかしその九十億は霞と化して消え去ったのだ。そのソフトを売却するための小さな会社を設立した。そのとき同じ東工大の研究室にいた手塚という男が、その事業の経理担当者になっていて、金の出納はすべて彼に委ねていた。

 手塚は統計確率論を打ち立てようと研究室に在籍していたが、彼の体質は研究者ではなく、新しい企業を打ち立てたいという野心がつねにうずいていた。洋治が起こした会社もこの手塚によって主導されて、その会社が九十億円で売却されたのもこの男のビジネス的手腕によってだった。そんなことからも売却した九十億円は手塚によって管理されていたのだが、彼はその資金をひそかにインターネット取引に注ぎ込んでいった。もっとも危険なバイバイゲームで金を獲得できる商品取引に。
 
 その世界はクリック一つで十億、二十億という金を稼ぎだせる世界だった。それは同時に一瞬にして百億、二百億を失う世界でもあった。手塚がひそかにその世界に手を染めていったのは、彼が編み出した統計確率論の実践に乗り出したのかもしれない。しかしそこは統計確率論などが通用する世界ではなかった。五十億を失い、六十億を失い、七十億円を失っていく。いよいよ追い詰められいく現実から逃れようと、競馬場、競艇場、競輪場に日毎に繰り出し、はては香港やマカオまで飛んでギャンブル漬けになって、地獄の底に転落していった。そしてマカオ近郊の森のなかで額に拳銃を撃ちこんで自殺した。こんな顛末があったことなど洋治はだれにも話したことはない。いまだにその真実を封印したままだった。

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