大地に聳え立つホイットマン
この講座は、共に対話する場だと思いますので、若いお二人の詩人にちょっと長めの質問をさせて下さい。
アメリカにウオルト・ホイットマンという詩人がいます。南北戦争とか、リンカーンが大統領だった時代に生きた詩人です。彼は草の葉という詩集のなかに膨大な詩を刻み込んだ詩人です。ホイットマンの刻み込んだ詩はすたれるどころか、いまなお脈々としてアメリカ人のなかに流れこんでいて、巨大なアメリカ杉のようにアメリカの大地に聳え立っています。たとえば、作家になりたいと志望するアメリカ人はだれもがホイットマン体験をしています。作家たちだけでない、画家も、彫刻家も、映画監督も、俳優も、ロッカーも、ラッパーも、ダンサーも、芸術家たちだけなく政治家だって、銀行員だって、工員だって、店員だって、営業マンだって彼の詩を読んでいます。ハリウッドでつくられる映画にはたびたびホイットマンの詩が登場してきます。毎年生まれる壮大なアメリカ文学のなかにもホイットマンの詩が引用されています。ホイットマンの詩は、アメリカの一つの精神の核を作っているのです。
このホイットマンを日本にはじめて紹介したのが夏目漱石なんですね。その当時のホイットマンはまったくの無名で、ブルックリンの安アパートで貧困にあえぎながらほそぼそと詩をかいていた存在で、アメリカ人でさえ彼の詩など読んだこともなかった。そんな存在だったホイットマンの詩に着目して、その詩人の存在を日本に紹介した夏目漱石の英語を読む深さに驚くばかりですが、こうして日本に上陸したホイットマンは、言葉によって人生をつくりだしていこうとする人々に熱く支持されていって、やがて志賀直哉や武者小路実篤や有島武郎らによって白樺派という大きな文芸運動が起こるのですが、そのムーブメントの底にホイットマンの詩が脈々と流れていたのです。有島武郎などはアメリカにわたり、草の葉を翻訳しています。こうして日本に根づいたホイットマンの詩は新しい人々によって次々に翻訳されていって、とくに酒本雅之さんは二度にわたって草の葉の全詩集を日本語にして、それが岩波文庫に上、中、下の三冊になって刊行されていくのです。
しかしいま私たちはこの三冊を手にすることができません。岩波はこの詩集の刊行を打ち切っているのです。それはこの詩集がまったく売れないからです。彼の詩を読もうとする日本人がいまやどこにもいなくなったからです。こうしてこの日本ではホイットマンが刻み込んだ草の葉は消えていきます。なぜホイットマンの詩が読まれなくなったのか、なぜホイットマンの詩が消えていくのか。それは私たちのことばである日本語がどんどん劣化している、いよいよ力を失って衰弱している、そのことと軌を一にしているからだと思います。
このことを鋭く指摘した方が、この会場にいます。どこか背後のいるはずですが、この隣町珈琲は雑誌を発行していて、その雑誌の創刊号の最後のページ、たった二ページ、四百字詰め原稿一枚程度の短いエッセイのなかにそのことがかかれています。このエッセイを書いたのはこの店の店長である栗田佳幸(よしゆき)さんで、彼はこの短いエッセイを次のように書きだしています。言葉がつらい、と。見事な書き出しです。なぜ言葉がつらいのか、彼はこう明かしていきます。自分の発している言葉や書くもの、読むもの、すべてに現実感なく、条件反射的に発する言葉さえのど元につっかえて消えていくと。そしてこのフレーズは次のように展開されます。まるでメツキがはがれるように言葉の意味が喪失していく。言葉は本当に信用できるのだろうか、言葉にはそのリアリティを回復するだけの価値があるのだろうかと。
この栗田さんが問いかけるフレーズは、いま私たち日本人が対決すべき原点だと思うのです。かつて白樺派という大きな文芸運動を起こした人たちは、言葉の力を信じていました。言葉には力があり、言葉によって光を放つことができ、言葉によって新しい地平を切り開けるのだと絶対的に信じていた。彼らが興した文芸運動はそういうものでした。しかしいまや言葉とは親指だけでなんの思考もされずに、即物的に打ち込まれるだけのものになってしまった。言葉とは自己を確立していくのではなく、自己を自滅させていくものになっていく。
さて、ここで、ぼくが若い詩人に問いかけるは、言葉の力がどんどん衰弱していく言葉の受難の時代に、これから言葉の道をどのように歩いていこうされているのか、そんなことをお二人におたずねしたいのです。長くなってすみません。