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私たちは後世に何を残すべきか 上編 内村鑑三

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 序文
 
 この講演は明治二十七年、すなわち日消戦争のあった年、すなわち今より三十一年前、私がまだ三十三歳の壮年であったときに、海老名弾正君司会のもとに、箱根山上、蘆の湖の畔においてなしたものであります。
その年に私の娘のルツ子が生まれ、私は彼女を彼女の母とともに京都の寓居に残して箱根へ来て講演したのであります。その娘はすでに世を去り、またこの講演を一書となして初めて世に出した私の親友、京都便利堂主人、中村弥左衛門君もついこのごろ世を去りました。その他この書成って以来の世の変化は非常であります。

 多くの人がこの書を読んで志を立てて成功したと聞きます。そのうちに私と同じようにキリスト信者になった者もすくなくないとのことであります。そして彼らの内のある者は早くすでに立派にキリスト教を「卒業」して、今は背教者をもって自から任ずる者もあります。またはこの書によって信者になりて、キリスト教的文士となりて、その攻撃の鉾を著者なる私に向ける人もあります。実に世はさまざまであります。

 そして私は幸いにして今日まで生きながらえて、この書に書いてあることに多くたがわずして私の生涯を送ってきたことを神に感謝します。この小著そのものが私の「後世への最大遺物──私たちは後世に何を残すべきか」の一つとなったことを感謝します。「天地無始終、人生有生死」であります。

 しかし生死ある人生に無死の生命を得るの途が供えてあります。天地は失せても失せざるものがあります。そのものをいくぶんなりと握るを得て生涯は真の成功であり、また大なる満足であります。
 私は今よりさらに三十年生きようとは思いません。しかし過去三十年間、生き残ったこの書は、今よりなお三十年、あるいはそれ以上に生き残るであろうとみてもよろしかろうと思います。終りに臨んで私はこの小著述を、その最初の出版者たる故中村弥左衛門君に献じます。君の霊の天にありて安からんことを祈ります。

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 時は夏でございますし、ところは山の絶頂でございます、それでここで私が手を振り、足を飛ばしまして、私の血に熱度を加えて諸君の熱血をここに注ぎ出すことは、あるいは私にできないことではないかも知れません、しかしこれは私の好まぬところ、また諸君もあまり要求しないところだろうと私は考えます、それでキリスト教の演説会で演説者が腰を掛けて話をするのは、たぶんこの講師が嚆矢であるかも知れない(満場大笑)。
 しかしながら、もしこうすることが私の目的に適うことでございますれば、私は先例を破って、ここであなたがたとゆっくり腰を掛けて、お話をしてもかまわないと思います。これもまた破壊党の所業だと、おぼし召されてもよろしゅうございます(拍手喝采)。

 そこで私は「後世への最大遺物」という題を掲げておきました、もしこのことについて私の今まで考えましたことと、今感じますることとをみな述べまするならば、いつもの一時間より長くなるかも知れませぬ、もし長くなってつまらなくなったなら、勝手にお帰りなすってください、私もまたくたびれましたならば、あるいは途中で休みを願うかも知れませぬ、もしあまり長くなりましたならば、明朝の一時間も私に戴いた時間でございますから、そのときに述べるかも知れませぬ。
 どうぞこういう清い静かなところにありまするときには、東京やまたはその他の騒がしいところでみな気の立っているところでするような、騒がしい演説を私はしたくないです、私はここで諸君と膝を打ち合せて、私の所感そのままを演説し、また諸君の質問にも応じたいと思います。

 この夏期学校に来ますついでに私は東京に立ち寄り、そのとき私のおやじと詩の話をいたしました、おやじが山陽の古い詩を出してくれました、私が初めて山陽の詩を読みましたのは、おやじからもらったこの本でした(本を手に持って)、でこの夏期学校にくるついでに、その山陽の本を再び持ってきました、そのなかに私の幼さいときに私の心を励ました詩がございます、その詩は諸君もご承知のとおり山陽の詩の一番初めに戟っている詩でございます。

十有三春秋 逝者已如水 天地無始終 人生有生死 安得類古人
千載列青史

 有名な詩でございます、山陽が十三のときに作った詩でございます、それで自分の生涯を顧みてみますれば、まだ外国語学校に通学しておりまする時分にこの詩を読みまして、私も自から同感に堪えなかった、私のようにこんなに弱いもので、子供のときから身体が弱うございましたが、こういうような弱い身体であって別に社会に立つ位置もなし、また私を社会に引っ張ってくれる電信線もございませぬけれども、どうぞ私も一人の歴史的な人間になって、そうして千載青史(歴史書)に列するを得るくらいの人間になりたいという心が、やはり私にも起ったのでございます、その欲望はけっして悪い欲望とは思っていませぬ、私がそのことを父に話し、友違に話したときに、彼らはたいへん喜んだ、「あなたにそれほどの希望があったならば、あなたの生涯はまことに頼もしい」といって喜んでくれました。

 ところが不意にキリスト教に接し、通常この国において説かれましたキリスト教の教えを受けたときには、青年のときに持ったところの、千載青史に列するを得んというこの欲望が大分なくなってきました、それで何となく厭世的の考えが起ってきた、すなわち人間が千載青史に列するを得んというのは、まことにこれは肉欲的、不信者的、heathen 的の考えである、クリスチャンなどは功名を欲することはなすべからざることである、われわれは後世に名を伝えるとかいうことは、根こそぎ取ってしまわなければならぬ、というような考えが出てきました、それゆえに私の生涯は実に前の生涯より清い生涯になったかも知れませぬ、けれども前のよりはつまらない生涯になった、まあ、どうかなるだけ罪を犯さないように、なるだけ神に逆らって汚らわしいことをしないように、ただただ立派にこの生涯を終ってキリストによって天国に救われて、未来永遠の喜びを得んと欲する考えが起ってきました。

 そこでそのときの心持ちは、なるほどそのなかに一種の喜びがなかったではございませぬけれども、以前の心持ちとは正反対の心持ちでありました、そうしてこの世の中に事業をしよう、この世の中に一つ旗を挙げよう、この世の中に立って男らしい生涯を送ろう、という念がなくなってしまいました、ほとんどなくなってしまいましたから、私はいわゆる坊主臭い因習的な考えになってきました、それでまた私ばかりでなく私を教えてくれる人がそうでありました、たびたび‥‥ここには宣教師はおりませぬから、少しは宣教師の悪口をいっても許してくださるかと思いまするが‥‥宣教師のところにいって私の希望を話しますると、「あなたはそんな希望を持ってはいけませぬ、そのようなことはそれは欲心でございます、それはあなたのまだキリスト教に感化されないところの心から起ってくるのです」というようなことを聞かされないではなかった。


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 諸君たちもそういうような考えに、どこかで出会ったのではないだろうかと思います。なるほど千載青史に列するを得んということは、考えのいたしようによってはまことに下等なる考えであるかも知れませぬ、われわれが名をこの世の中にのこしたいというのでございます、この一代のわずかの生涯を終って、そのあとは後世の人に我々の名をほめ立ってもらいたいという考え、それはなるほどある意味からいいますると、私どもにとっては持ってはならない考えであると思います。

 ちょうどエジプトの昔の王様が、おのれの名が万世に伝わるようにとピラミッドを作った、すなわち世の中の人に彼は国の王であったということを知らしむるために、万民の労力を使役して大きなピラミッドを作ったというようなことは、実にキリスト信者としては持つべからざる考えだと思われます、有名な天下の糸平(相場事業で財を成した明治の実業家田中平八)が死ぬときの遺言は「己れのために絶大の墓を立てろ」ということであったそうだ。そうしてその墓には天下の糸平と誰か日本の有名なる人に書いてもらえと遺言した、それで諸君が東京の牛島神社にいってごらんなさると、立派な花崗石で伊藤博文さんが書いた「天下之糸平」という碑が建っております、それは、その千載にまで天下の糸平をこの世の中に伝えよと言った糸平の考えは、私はクリスチャン的の考えではなかろうと思います。

 またそういう例がほかにもたくさんある、このあいだアメリカのある新聞で見ましたに、ある貴婦人で大金持の寡婦が、「私が死んだ後に私の名を国の人に覚えてもらいたい、しかし自分の持っている金を学校に寄附するとか、あるいは病院に寄附するとかいうことは普通の人のなすところなれば、私は世界中にないところの大なる墓を作ってみたい、そうして千載に記憶されたい」という希望を起した、先日その墓が成ったそうでございます、どんなに立派な墓であるかは知りませぬけれども、その計算に驚いた、二百万ドルかかったというのでございます、二百万ドルの金をかけて自分の墓を建ったのは確かにキリスト教的の考えではございません。

 しかしながらある意味からいいますれば、千載青史に列するを得んという考えは、私はそんなに悪い考えではない、ないばかりでなくそれは本当の意味にとってみまするならば、キリスト教信者が持ってもよい考えでございまして、それはキリスト信者が持つべき考えではないかと思います、なお、われわれの生涯の解釈から申しますると、この生涯はわれわれが未来に往く階段である、ちょうど大学校にはいる前の予備校である、もしわれわれの生涯がわずかこの五十年で消えてしまうものならば実につまらぬものである、私は未来永遠に私を準備するためにこの世の中に来て、私の流すところの涙も、私の心を喜ばしむるところの喜びも、喜怒哀楽のこの変化というものは、私の霊魂をだんだんと作り上げて、ついに私は死なない人間となってこの世を去ってから、もっと清い生涯をいつまでも送らんとするは、私の持っている確信でございます、しかしながらそのことは純粋なる宗教問題でございまして、それは今晩あなたがたにお話をいたしたいことではございません。


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 しかしながら私にここに一つの希望がある、この世の中をずっと通り過ぎて安らかに天国に往き、私の予備学校を卒業して天国なる大学校にはいってしまったならば、それでたくさんかと己れの心に問うてみると、そのときに私の心に清い欲が一つ起ってくる、すなわち私に五十年の命をくれたこの美しい地球、この美しい国、この楽しい社会、このわれわれを育ててくれた山、河、これらに私が何ものこさずに死んでしまいたくない、との希望が起ってくる、どうぞ私は死んでからただに天国に往くばかりでなく、私はここに一つの何かをのこして往きたい。

 それは何もかならずしも、後世の人が私をほめたってくれというのではない、私の名誉をのこしたいというのではない、ただ私がどれほどこの地球を愛し、どれだけこの世界を愛し、どれだけ私の同胞を思ったかという記念物をこの世に置いて往きたいのである、すなわち英語でいうMemento をのこしたいのである、こういう考えは美しい考えであります、私がアメリカにおりましたときにも、その考えがたびたび私の心に起りました、私は私の卒業した米国の大学校を去るときに、同志とともに卒業式の当日に愛樹を一本校内に植えてきた、これは私が四年も育てられた私の学校に、私の愛情をのこしておきたいためであった、なかには私の同級生で、金のあった人はそればかりでは満足しないで、あるいは学校に音楽堂を寄附するもあり、あるいは図書館を寄附するもあり、あるいは運動場を寄附するもありました。

 しかるに今われわれは世界というこの学校を去りまするときに、われわれは何もここにのこさずに往くのでございますか、その点からいうと、やはり私には千載青史に列するを得んという望みがのこっている、私は何かこの地球に Memento を置いて逝きたい、私がこの地球を愛した証拠を置いて逝きたい、私が同胞を愛した記念碑を置いて逝きたい、それゆえにお互いにここに生まれてきた以上は、われわれが喜ばしい国に往くかも知れませぬけれども、しかしわれわれがこの世の中にあるあいだは、少しなりともこの世の中を善くして往きたい、この世の中にわれわれの Memento をのこして逝きたい、有名なる天文学者のハーシェルが、二十歳ばかりのときに彼の友人に「わが愛する友よ、われわれが死ぬときには、われわれが生まれたときより、世の中を少しなりともよくして往こうではないか」というた、実に美しい青年の希望ではありませんか、「この世の中を、私が死ぬときは、私の生まれたときよりは少しなりともよくして逝こうじゃないか」と、ハーシェルの伝記を読んでごらんなさい、彼はこの世の中を非常によくして逝った人であります。

 今まで知られない天体を描いて逝った人であります、南半球の星を、何年間かアフリカの希望峰植民地に行きまして、すっかり図に載せましたゆえに、今日の天文学者の知識はハーシェルによってどれだけ利益を得たか知れない、それがために航海が開け、商業が開け、人類が進歩し、ついには宣教師を外国にやることができ、キリスト教伝播の直接間接の助けにどれだけなったか知れませぬ、われわれもハーシェルと同じに互いにみな希望 Ambition を遂げとうございませんか、われわれが死ぬまでにはこの世の中を少しなりとも善くして死にたいではありませんか、何か一つ事業を成し遂げて、できるならばわれわれの生まれたときよりも、この日本を少しなりともよくして逝きたいではありませんか、この点についてはわれわれ皆々同意であろうと思います。


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 それでこの次は遺物のことです、何を置いて逝こう、という問題です、何を置いてわれわれがこの愛する地球を去ろうかというのです、そのことについて私も考えた、考えたばかりでなくたびたびやってみた、何かのこしたい希望があってこれをのこそうと思いました、それで後世への遺物もたくさんあるだろうと思います、それを一々お話しすることはできないことでございます、けれども、このなかに第一番にわれわれの思考に浮ぶものからお話しをいたしたいと思います。

 後世へわれわれののこすもののなかに、まず第一番に大切のものがある、何であるかというと金です、われわれが死ぬときに遺産金を社会にのこして逝く、己の子供にのこして逝くばかりでなく、社会にのこして逝くということです、それは多くの人の考えにあるところではないかと思います、それでそういうことをキリスト信者の前にいいますると、金をのこすなどということは実につまらないことではないか、という反対がじきに出るだろうと思います、私は覚えております、明治十六年に初めて札幌から山男になって東京に出てきました、その時分に東京には奇態な現象があって、それを名づけてリバイバルというたのです、その時分私は後世に何かをのこさんかと思っておりましたが、私は実業教育を受けたものであったから、もちろん金をのこしたかった、億万の富を日本にのこして日本を救ってやりたいという考えをもっておりました。

 自分には明治二十七年になったら、夏期学校の講師に選ばれるという考えは、その時分にはちっともなかったのです(満場大笑)、金をのこしたい、金満家になりたい、という希望を持っておったのです、ところがこのことをあるリバイバルに非常に熱心の牧師先生に話したところが、その牧師さんに私は非常に叱られました、「金をのこしたいとはいくじがない、そんなものはどうにもなるから、君は福音のために働きたまえ」といましめられた、しかし私はその決心を変更しなかった、今でも変更しない、金をのこすものをいやしめるような人は、やはり金のことにいやしい人であります、けちな人であります、金というものは、ここで金の価値について長い講釈をするには及びませぬけれども、しかしながら金というものの必要は、あなたがた十分に認めておいでなさるだろうと思います、金は宇宙のものであるから、金というものはいつでもできるものだという人に向って、フランクリンは答えて「そんなら今こしらえてみたまえ」と申しました。

 それで私に金などはいらないというた牧師先生はどういう人であったかというに、後で聞いてみると、やはりずいぶん金を欲しがっている人だそうです、それで金というものは、いつでも得られるものであるということは、われわれが始終持っている考えでございますけれども、実際金のいるときになってから金というものは得るに非常にむずかしいものです、そうしてあるときは富というものは、どこでも得られるように、空中にでも懸っているもののように思いますけれども、その富を一つに集めることのできるものは、これは非常に神の助けを受くる人でなければできないことであります、ちょうど秋になって雁は天を飛んでいる、それは誰が捕ってもよい、しかしその雁を捕ることはむずかしいことであります、人間の手に雁が十羽なり二十羽なり集まってあるならば、それに価値があります、すなわち、手の内の一羽の雀は木の上におるところの二羽の雀より貴いというのはこのことであります。

 そこで金というものは宇宙に浮いているようなものでございますけれども、しかしながらそれを一つにまとめて、そうして後世の人がこれを用いることができるように、貯めていこうとする欲望が諸君のうちにあるならば、私は私の満腔の同情をもって、イエス・キリストの御名によって、父なる神の御名によって、聖霊の御名によって、教会のために、国のために、世界のために、「君よ、金を貯めたまえ」というて、このことをその人に勧めるものです、富というものを一つにまとめるということは一大事業です、それでわれわれの今日の実際問題は社会問題であろうと、教会問題であろうと、青年問題であろうと、教育問題であろうとも、それをせんじつめてみれば、やはり金銭問題です、ここにいたって誰が金が不要だなぞというものがありますか、どうぞキリスト信者のなかに金持が起ってもらいたいです、実業家が起ってもらいたいです、われわれの働くときに、われわれのうしろだてになりまして、われわれの心を十分にわかった人がわれわれを見守ってくれるということは、われわれの目下の必要でございます、それで金を後世にのこそうという欲望を持っているところの青年諸君が、その方に向って、神の与えたる方法によって、われわれの子孫にたくさん金をのこしてくださらんことを私は実に祈ります。


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 アメリカの有名なるフィラデルフィアのジラードというフランスの商人が、アメリカに移住しまして建てた孤児院を私は見ました、これは世界第一番の孤児院です、およそ小学生徒くらいのものが七百人ばかりおります、中学、大学くらいまでの孤児をずっとならべますならば、たぶん千人以上のように覚えました、その孤児院の組織を見まするに、今日の日本にあるところの孤児院のように、寄附金の足らないために事業がさしつかえるような孤児院ではなくして、ジラードが生涯かかって貯めた金をことごとく投じて建てたものです、ジラードの生涯を書いたものを読んでみますると、なんでもないただその一つの目的をもって金を貯めたのです、彼に子供はなかった、妻君も早く死んでしまった、「妻はなし、子供はなし、私には何にも目的はない、けれども、どうか世界第一の孤児院を建てやりたい」というて、一生懸命に働いてこしらえた金で建てた孤児院でございます。

 その時分はアメリカ開国の早いころでありましたから、金の貯め方が今のように早くゆかなかった、しかし一生涯かかって貯めたところのものは、おおよそ二百万ドルばかりでありました、それをもってペンシルバニア州に人の気のつかぬ地面をたくさん買った、それで死ぬときに、「この金をもって二つの孤児院を建てろ、一つはおれを育ててくれたところのニューオルリーンズに建て、一つはおれの住んだところのフィラデルフィアに建てろ」と申しました、それで妙な癖があった人とみえまして、教会というものをたいそう嫌ったのです、それで「おれは別にこの金を使うことについて条件はつけないけれども、おれの建ったところの孤児院のなかに、デノミネーションすなわち宗派の教師は誰でも入れてはならぬ」という条件をつけて死んでしまった。

 それゆえに、今でもメソジストの教師でも、監督教会の教師でも、組合教会の教師でも、この孤児院にははいることはお気の毒でございますけれどもできませぬ(大笑)、そのほかは誰でもそこにはいることができる、それでこの孤児院の組織のことは長いことでございますから、今ここにお話し申しませぬけれども、前に述べた二百万ドルをもって買い集めましたところの山です、それが今日のペンシルバニア州における石炭と鉄とを出す山でございます、実に今日の富はほとんど何千万ドルであるかわからない、今はどれだけ事業を拡張してもよい、ただただ拡張する人がいないだけです、それでもし諸君のうち、フィラデルフィアに往く方があれば、一番にまずこの孤児院を往って見ることをお勧め申します。


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 また有名なる慈善家ピーボディーはいかにして彼の大業を成したかと申しまするに、彼が初めてベルモントの山から出るときには、ボストンに出て大金持ちになろうという希望を持っておったのでございます、彼は一文なしで故郷を出てきました、それでボストンまではその時分はもちろん汽車はありませんし、また馬車があってもただでは乗れませぬから、ある旅籠屋の亭主に向い、「私はボストンまで往かなければならぬ、しかしながら日が暮れて困るから今夜泊めてくれぬか」というたら、旅籠屋の亭主が可愛想だから泊めてやろうというて喜んで引き受けた、けれどもそのときにピーボディーは旅籠屋の亭主に向って「ただで泊まることはいやだ、何かさしてくれるならば泊まりたい」というた、ところが旅籠屋の亭主は「泊まるならば自由に泊まれ」というた、しかしピーボディーは、「それではすまぬ」というた、そうして家を見渡したところが、裏に薪がたくさん積んであった、それから「御厄介になる代りに、裏の薪を割らしてください」というて旅籠屋の亭主の承諾を得て、昼過ぎかかって夜まで薪を挽き、これを割り、たいていこのくらいで旅籠賃に足ると思うくらいまで働きまして、そうして後に泊まったということであります。

 そのピーボディーは彼の一生涯を何に費やしたかというと、何百万ドルという高は知っておりませぬけれども、金を貯めて、ことに黒人の教育のために使った、今日アメリカにおります黒人が、たぶん日本人と同じくらいの社交的程度に達しておりますのは何であるかというに、それはピーボディーのごとき慈善家の金の結果であるといわなければなりません、私は金のためにはアメリカ人はたいへん弱い、アメリカ人は金のためにはだいぶ侵害されたる民であるということも知っております、けれどもアメリカ人のなかに金持ちがありまして、彼らが清き目的をもって金を貯め、それを清きことのために用うるということは、アメリカの今日の盛大をいたした大原因であるということだけは私もわかって帰ってきました。

 それでもしわれわれのなかにも、実業に従事するときにこういう目的をもって金を貯める人が出てきませぬときには、本当の実業家はわれわれのなかに起りませぬ、そういう目的をもって実業家が起りませぬならば、彼らはいくら起っても国の益になりませぬ、ただただわずかに憲法発布式のときに貧乏人に一万円‥‥一人に五十銭か六十銭くらいの頭割をなしたというような、そんな慈善はしない方がかえってよいのです、三菱のような何千万円というように金を貯めまして、今日まで‥‥これから三菱は善い事業をするかと信じておりますけれども‥‥今日まで何をしたか、彼自身が大いに勢力を得、立派な家を建て立派な別荘を建てましたけれども、日本の社会はそれによって何を利益したかというと、何一つとして見るべきものはないです。

 それでキリスト教信者が立ちまして、キリスト信徒の実業家が起りまして、金をもうけることは己れのためにもうけるのではない、神の正しい道によって、天地宇宙の正当なる法則にしたがって、富を国家のために使うのであるという実業の精神がわれわれのなかに起らんことを私は願う、そういう実業家が今日わが国に起らんことは、神学生徒の起らんことよりも私の望むところでございます、今日は神学生徒がキリスト信者のなかに十人あるかと思うと、実業家は一人もないです、百人あるかと思うと実業家は一人もない、あるいは千人あるかと思うと、一人おるかおらぬかというくらいであります、金をもって神と国とにつかえようという清き考えを持つ青年がない。

 よく話に聴きまするかの紀ノ国屋文左衛門が、百万両ためて百万両使ってみようなどといういやしい考えを持たないで、百万両貯めて百万両神のために使って見ようというような実業家になりたい、そういう実業家が欲しい、その百万両を国のために、社会のためにのこして逝こうという希望は実に清い希望だと思います、今日私が自身に持ちたい望みです、もし自身にできるならばしたいことですが、ふしあわせにその方の技量は私にはありませぬから、もし諸君のなかにその希望がありますならば、どうぞ今の教育事業とかに従事する人たちは、「汝の事業は下等の事業なり」などというて、その人を失望させぬように注意してもらいたい、またそういう希望を持った人は、神がその人に命じたところの考えであると思うて、十分にそのことを自から奨励されんことを望む、あるアメリカの金持ちが「私はあなたにこの金を譲り渡すが、このなかにきたない金は一文もない」というて子供に遺産を渡したそうですが、私どもはそういう金が欲しいのです。


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 それで後世への最大遺物のなかで、まず第一に大切のものは何であるかというに、私は金だというて、その金の必要を述べた、しかしながら何人も金を貯める力を持っておらない、私はこれはやはり一つの ジーニアス(Genius─天才)ではないかと思います、私は残念ながらこの天才を持っておらぬ、ある人が申しまするに、金を貯める天才を持っている人の耳はたいそうふくれて下の方に垂れているそうですが、私は鏡に向って見ましたが、私の耳はたいそう縮んでおりますから、その天才は私にはないとみえます(大笑)。

 私の今まで教えました生徒のなかに、非常にこの天才を持っているものがある、あるやつは北海道に一文無しで追い払われたところが、今は私に十倍もする富を持っている、「今におれが貧乏になったら、君はおれを助けろ」というておきました、実に金儲けは、やはりほかの職業と同じように、ある人たちの天職である、誰にも金を儲けることができるかということについては、私は疑います、それで金儲けのことについては、少しも考えを与えてはならぬところの人が金を儲けようといたしますると、その人は非常にきたなく見えます、そればかりではない、金は後世への最大遺物の一つでございますけれども、のこしようが悪いとずいぶん害をなす、それゆえに金を貯める力を持った人ばかりでなく、金を使う力を持った人が出てこなければならない。

 かの有名なるグールドのように彼は生きているあいだに二千万ドル貯めた、そのために彼の親友四人までを自殺せしめ、あちらの会社を引き倒し、こちらの会社を引き倒して二千万ドル貯めた、ある人の言に「グールドが一千ドルとまとまった金を慈善のために出したことはない」と申しました。彼は死ぬときにその金をどうしたかというと、ただ自分の子供にそれを分け与えて死んだだけであります、すなわちグールドは金を貯めることを知って、金を使うことを知らぬ人であった、それゆえに金を遺物としようと思う人には、金を貯める力とまたその金を使う力とがなくてはならぬ、この二つの考えのない人、この二つの考えについて十分に決心しない人が、金を貯めるということは、はなはだ危険のことだと思います。

 さて、私のように金を貯めることの下手なもの、あるいは貯めてもそれが使えない人は、後世の遺物に何をのこそうか、私はとうてい金持ちになる望みはない、ゆえにほとんど十年前にその考えをば捨ててしまった、それでもし金をのこすことができませぬならば、何をのこそうかという実際問題が出てきます、それで私が金よりもよい遺物は何であるかと考えて見ますと、事業です、事業とはすなわち金を使うことです、金は労力を代表するものでありますから労力を使ってこれを事業に変じ、事業をのこして逝くことができる、金を得る力のない人で事業家はたくさんあります、金持ちと事業家は二つ別物のように見える、商売する人と金を貯める人とは人物が違うように見えます、大阪にいる人はたいそう金を使うことが上手であるが、京都にいる人は金を貯めることが上手である、東京の商人に聞いてみると、金を持っている人には商売はできない、金のないものが人の金を使うて事業をするのであると申します。

 純粋の事業家の成功を考えてみまするに、けっして金ではない、グールドはけっして事業家ではない、バンダービルトはけっして事業家ではない、バンダービルトは非常に金を作ることが上手でございました、そして彼は他の人の事業を助けただけであります、有名なカルフォルニアのスタンフォードは、たいへん金を儲けることが上手であった、しかしながらそのスタンフォードに三人の友人がありました、その友人のことは面白い話でございますが、時がないからお話をしませぬけれども、金を儲けた人と、金を使う人と、数々あります、それですから金を貯めて金をのこすことができないならば、あるいは神が私に事業をなす天才を与えてくださったかも知れませぬ、もしそうならば私は金をのこすことができませぬとも、事業をのこせば充分満足します。

 それで事業をなすということは、美しいことであるはもちろんです、どういう事業が一番誰にもわかるかというと土木的の事業です、私は土木学者ではありませぬけれども、土木事業を見ることが非常に好きでございます、一つの土木事業をのこすことは、実にわれわれにとっても快楽であるし、また永遠の喜びと富とを後世に遺すことではないかと思います、今日も船に乗って、湖水の向こうまで往きました。その南の方に当って水門がある、その水門というは、山の裾をくぐっている一つの隧道(ずいどう)であります、その隧道を通って、この湖水の水が沼津の方に落ちまして、二千石ないし三千石の田地を灌漑しているということを聞きました、昨日ある友人に会うて、あの穴を掘った話を聞きました、その話を聞いたときに私は実に嬉しかった。

 あの穴を掘った人は、今からちょうど六百年も前の人であったろうということでございますが、誰が掘ったかわからない、ただこれだけの伝説がのこっているのでございます、すなわち箱根のある近所に百姓の兄弟があって、まことに沈着であって、その兄弟が互いに相語っていうに、「われわれはこの有難き国に生まれてきて、何か後世にのこして逝かなければならぬ、それゆえに何かわれわれにできることをやろうではないか」と、しかし兄なる者はいうた、「われわれのような貧乏人で、貧乏人には何も大事業をのこして逝くことはできない」というと、弟が兄に向っていうには、「この山をくり抜いて湖水の水をとり、水田を興してやったならば、それが後世への大なる遺物ではないか」というた、兄は「それは非常に面白いことだ、それではお前は上の方から掘れ、おれは下の方から掘ろう、一生涯かかってもこの穴を掘ろうじゃないか」といって掘り始めた。

 それでどういうふうにしてやりましたかというと、そのころは測量器械もないから、山の上に標(しるし)を立って、両方から掘っていったとみえる、それから兄弟が生涯かかって何もせずに‥‥たぶん自分の職業になるだけの仕事はしたでございましょう‥‥兄弟して両方からして、毎年毎年掘っていった、何十年でございますか、その年は忘れましたけれども、下の方から掘ってきたものは、湖水の方から掘っていった者の四尺上に往ったそうでございます、四尺上に往きましたけれども御承知の通り、水は高うございますから、やはり竜吐水(りゅうどすい)のように向こうの方によく落ちるのです、生涯かかって人が見ておらないときに、後世に事業を遺そうというところの奇特(きとく)の心より、二人の兄弟はこの大事業をなしました。

 人が見てもくれない、ほめてもくれないのに、生涯を費してこの穴を掘ったのは、それは今日にいたってもわれわれを励ます所業ではありませぬか、それから今の五ヵ村が何千石だかどれだけ人口があるか忘れましたが、五ヵ村が頼朝時代から今日にいたるまで年々米を取ってきました、ことに湖水の流れるところでありますから、旱魃ということを感じたことはございません、実にその兄弟はしあわせの人間であったと思います、もし私が何にもできないならば、私はその兄弟に真似たいと思います、これは非常な遺物です、たぶん今往ってみましたならば、その穴は長さたぶん十町かそこらの穴でありましょうが、そのころは煙硝(えんしょう)もない、ダイナマイトもないときでございましたから、あの穴を掘ることは実に非常なことでございましたろう。

 大阪の天保山を切ったのも近ごろのことでございます、かの安治川を切った人は実に日本にとって非常な功績をなした人であると思います、安治川があるために大阪の木津川の流れを北の方に取りまして、水を速くして、それがために水害のうれいを取り除いてしまったばかりでなく、深い港をこしらえて九州、四国から来る船をことごとくあそこにつなぐようになったのでございます、また秀吉の時代に切った吉野川は昔は大阪の裏を流れておって人民を悩ましたのを、堺と住吉の間に開鑿(かいさく)しまして、それがために大和川の水害というものがなくなって、何十ヵ村という村が大阪の城の後ろにできました、これまた非常な事業です。

 それから有名の越後の阿(あがの)賀川(がわ)を切ったことでございます、実にエライ事業でございます、有名の新発田(しばた)の十万石、今は日本においてたぶん富の中心点であるだろうという所でございます、これらの大事業を考えてみるときに私の心のなかに起るところの考えは、もし金を後世に遺すことができぬならば、私は事業をのこしたいとの考えです。また土木事業ばかりでなく、その他の事業でももしわれわれが精神をこめてするときは、われわれの事業はちょうど金に利息がつき、利息に利息が加わってきて、だんだん多くなってくるように、一つの事業がだんだん大きくなって、終りには非常なる事業となります。


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 事業のことを考えますときに、私はいつでも有名のデビッド・リビングストンのことを思い出さないことはない、それで諸君のうち英語のできるお方に私はスコットランドの教授ブレーキの書いたライフ・アンド・レターズ・オブ・デビッド・リビングストン(Life and Letters of David Livingstone)という本を読んでごらんなさることを勧めます。私一個人にとっては聖書のほかに、私の生涯に大刺激を与えた本は二つあります。一つはカーライルの『クロムウェル伝』であります。そのことについては後にお話をいたします。それからその次にこのブレーキ氏の書いた『デビッド・リビングストン』という本です。それでデビッド・リビングストンの一生涯はどういうものであったかというと、私は彼を宗教家あるいは宣教師と見るよりは、むしろ大事業家として尊敬せざるをえません、もし私は金を貯めることができなかったならば、あるいはまた土木事業を起すことができぬならば、私はデビッド・リビングストンのような事業をしたいと思います。

 この人はスコットランドのグラスゴーの機屋(はたや)の子でありまして、若いときからして公共事業に非常に注意しました、デビッド・リビングストンの考えまするに、どこかに一事業を起してみたいという考えで、始めはシナに往きたいという考えでありまして、その望みをもって英国の伝道会社に訴えてみた、ところが支那にやる必要がないといって許されなかった、ついにアフリカにはいって、三十七年間己れの生命をアフリカのために差し出し、始めのうちはおもに伝道をしておりました、けれども彼は考えました、アフリカを永遠に救うには今日は伝道ではいけない、すなわちアフリカの内地を探検して、その地理を明らかにしこれに貿易を開いて勢力を与えねばいけぬ、そうすれば伝道は商売の結果としてかならず来るに相違ない、そこで彼は伝道を止めまして探検家になったのでございます。

 彼はアフリカを三度縦横に横ぎり、わからなかった湖水もわかり、今までわからなかった河の方向も定められ、それがために種々の大事業も起ってきた、しかしながらリビングストンの事業はそれで終らない、スタンレーの探検となり、ペーテルスの探検となり、チャンバーレンの探検となり、今日のいわゆるアフリカ問題にして一つとしてリビングストンの事業に原因せぬものはないのでございます、コンゴ自由国、すなわち欧米九ヵ国が同盟しまして、プロテスタント主義の自由国をアフリカの中心に立つるにいたったのも、やはりリビングストンの手によったものといわなければなりませぬ。
 
 今日の英国は偉い国である、今日のアメリカの共和国は偉い国であると申しますが、それは何から始まったかとたびたび考えてみる、それで私は尊敬する人について少しく偏するかも知れませぬが、もし偏しておったならばそのようにご裁判を願います、けれども私の考えまするに、今日のイギリスの大なるわけは、イギリスにピューリタンという党派が起ったからであると思います、アメリカに今日のような共和国の起ったわけは何であるか、イギリスにピューリタンという党派が起ったゆえである、しかしながらこの世にピューリタンが大事業をのこしたといい、のこしつつあるというは何のわけであるかというと、何でもない、このなかにピューリタンの大将がいたからである。

 そのオリバー・クロムウェルという人の事業は、彼が政権を握ったのはわずか五年でありましたけれども、彼の事業は彼の死とともにまったく終ってしまったように見えますけれどもそうではない、クロムウェルの事業は今日のイギリスを作りつつあるのです、しかのみならず英国がクロムウェルの理想に達するには、まだずっと未来にあることだろうと思います、彼は後世に英国というものをのこした、合衆国というものをのこした、アングロサクソン民族がオーストラリアを従え、南アメリカに権力を得て、南北アメリカを支配するようになったのも彼の遺蹟といわなければなりませぬ。


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