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菅野村長は苦渋の決断をした

飯舘村菅野村長への手紙を私は五月二日に投稿している。次のような文面だった。
 美しき日本の大地をわれらの世代が汚してしまった。飯舘村もまた死の灰で汚されてしまった。村民は二年で帰還できると村外に避難していった。しかし避難生活は二年どころではなかった。三年、四年、五年と人々を苦しめるばかりの星霜が流れ、六年目にやっと避難指示が解除され、村民はわが村に帰還できるようになった。
 しかし今日まで村に帰還した人は村民の二割にも及ばない。しかも帰還した人々は高齢者ばかりで、限界集落どころではない。これでは村は機能しない。なぜ八割をこえる村民が帰還しないのか、なぜ若者たちの帰還が絶無なのか。それはこの村を襲った悲劇があまりにも深く、とうてい村民だけで担えるような悲劇ではないのだ。
 なぜ汚された地に住む人々だけが、この巨大な悲劇を担わなければならないのか。なぜ汚された地に住む人々だけが、生木を裂かれるような人生を歩まなければならないのか。われらの世代が美しい大地を汚したのだ。この悲劇はわれらすべての日本人が背負わなければならないのではないか。

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 この大きな課題を抱いて飯舘村を訪れ、村長室でかたくハグして、飯舘村で唯一開業している高橋さんのお店でさかずきを交わし(村長は自家用車通勤だから一滴のアルコールも口にしなかったが)、飯舘村の再生を熱く語りあいましたが、しかし帰還する村民も増えずに、いまなお苦しい行政が続いています。しかも今年の十月には村長選挙があります。ヤマセに苦しむ貧しい村を、日本一美しい豊かな村に変貌させていったあなたは、なんとしても村を再生したいと再び立たれるのでしょう。
 いま東京は沈滞の底に沈みこんでいます。都民すべてが家のなかに閉じこもっています。しかし九年前の原発爆発、そのとき飯舘村の人々を襲った悲劇に比べたら、月とスッポンです。あのとき飯舘村の人々はそれまで築いていたものをすべて投げ捨て避難しなければならなかったのです。
 いまは私たちの活動もすべてストップしています。しかしこのコロナ禍が去ったら再び活動を再開させます。私たちはすでに廃校同然のあの日本一美しい小学校を忘れることはできません。あの日本一美しい小学校から、世界を変革していく新しい文化や芸術が誕生していく、そのことを今度の村長選挙の戦いに掲げて下さい。

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菅野飯舘村長今期限り退任へ 6期24年、村職員辞職し選挙の公算

 飯舘村の菅野典雄村長(73)=6期=は6日、10月26日の任期満了に伴う村長選に立候補せず、今期限りで退任することを表明した。記者会見した菅野氏は「(震災から)ちょうど10年目で区切りがいい。(長泥地区の避難指示解除について)道筋を付けることができた」と退任理由を述べた。
 村長選を巡っては村議で新人の佐藤健太氏(38)が立候補を表明。ほかに、6日に辞職を申し出た村の男性職員が出馬するとみられ、選挙戦となる公算が大きい。
 菅野氏は飯舘村出身。帯広畜産大卒。1996(平成8)年の村長選で初当選した。4期目途中の2011年に震災と原発事故が発生し、村は全村避難を余儀なくされた。17年春の避難指示解除後も、長泥地区だけが帰還困難区域になっている。菅野氏は長泥地区の特定復興再生拠点区域(復興拠点)外について、全面的な除染は行わず、村営の復興公園を整備することで23年春までに一括して避難指示を解除してほしいと国に要望。国は長泥地区の避難指示を解除する仕組みを検討している。
 菅野氏の退任により国の避難指示が出た11市町村のうち、震災時から首長を務めているのは川内村の遠藤雄幸村長のみとなる。
 菅野氏は記者会見で「新しい感覚を持った人に新しい村づくりを進めていってほしい」と強調、後継候補については「どのような考え方を持った人が出るかは現段階で分からない。村民に託すしかないと思っている」とし、明言を避けた。
 村長選ではほかにも立候補を模索する動きがある。
 柔軟な発想、復興尽力 
 6期24年間、飯舘村のかじ取り役を担った菅野典雄村長が今期限りでの退任を表明した。小規模自治体を前面に出したユニークな施策を次々に展開。東京電力福島第1原発事故後も古里再生に向けたアイデアを出し続け、「までい」な姿勢で村復興に尽力してきた。
 「1期ごとに初心に帰り、惰性でやってきたことは一つもない。毎日が決断の連続だった」と振り返る。「平成の大合併」では、近隣市町村が合併を選択する中、自主自立の村づくりを掲げ、合併ではなく自立を選択。女性の海外視察など、当時としては先進的な事業を次々と打ち出した。
 4期目途中の2011(平成23)年に発生した東日本大震災では、全村避難を余儀なくされる中、村のコミュニティー維持を目指し「村から車で1時間以内」の避難を提唱した。村民の約9割が福島市など近隣市町村に避難する結果となり、村と村民の「心の距離」を保つことにつながった。
 17年3月31日の避難指示解除後も、前向きな施策を次々と打ち出した。道の駅の開設のほか、村外からの支援を引き込む「ふるさと住民票」制度の創設、小中一貫の義務教育学校「いいたて希望の里学園」の設置など、柔軟な発想で今後の発展の基礎を築いた。
《福島民友新聞より転載》

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