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その人は、新しい地平を懸命に切り拓いていく。日本の歌が聞こえる、さまざまな讃歌が聞こえる。

 間もなくウオーデンは「note」を立ち去るのだが、社会を変革していく魅力あふれる女性のことを書き込んでおこう。

 人は人とのめぐりあいによって劇的に変わっていくことがあるが、鏑木七海にとって野呂先生との出会いはまさにそういうめぐり合いだった。野呂先生の授業に出会って英文法パニック症候群から抜け出したばかりか、彼女の体質まで変わってしまった。読む、書く、聞く、話す、思考するといった言語活動は、それまで日本語で行われていた。ところがそのときから、いつでもどこでも悪魔のシステムを機能させ、日本語を英語に転換していくという習慣を身につけたものだから、友達と話しているとき突然その英語が飛び出してくる。するともうそこから英語に切り替える。仲のよいクラスメイトとは最初から最後まで英語の会話だった。

 高校二年生のとき、七海のその後の人生を決定するような体験をしている。創立百二十年の伝統校で、それだけに保守的で管理的な校風が支配していた。彼女はそんな校風を変革しようと生徒会の会長選挙に立候補したのだ。そのときの彼女の選挙公約といったら、制服を変えるとか、生徒から教師たちの授業を採点するシステムを導入するとか、クラブ活動にもっと予算を投入するとか、英語の授業を「草の葉メソッド」に変革すべきだとか、そのほとんどが実現不可能なものだった。しかしそんな破天荒な選挙公約が全校生徒のハートをとらえて、彼女は圧倒的な得票を得て生徒会長になった。

 そんな七海に高校三年生のとき悲劇が襲いかかる。茶屋「なかのぶ園」は、静岡の生産農家と直接取引をしていて、彼女の両親は定期的にその農家を訪れているのだが、その日も両親は静岡の茶畑に向かって車を走らせていた。その車に睡魔に落ちた長距離便のトラックが激突するのだ。車はぐしゃりとつぶされたばかりか、炎上して両親はその姿をとどめないばかりに焼け焦げていた。炭のように真っ黒になった遺体を見たとき、七海はあまりの衝撃でその場で意識を失ってしまった。

 彼女の家は荏原中延商店街に店をかまえる茶屋だった。一階がその店舗「なかのぶ園」で二階が喫茶店、三階と四階が一家の住居になっていた。両親を一挙に失ってしまった。両親が営んでいた「なかのぶ園」と喫茶店をいったいどうするのか。高校三年生の七海にその問題がいきなり突き刺さってきた。弟は中学生だった。七海が一切を引き継ぐ以外の選択はなく、彼女は大学進学をあきらめ四代目のお茶屋さんになった。

 十九歳の店主には大変な試練だった。しかしその試練を一つまた一つと乗りこえていくと、両親が経営していたときよりも客足はのびて売り上げも増えていった。笑顔で客を迎える。その初々しい笑顔を見るとお茶がいっそうおいしくなると何人もの客に言われた。客の心をとらえる彼女は、商店主としての天性の素質をもっていたということかもしれなかった。

 店の経営も軌道にのり、弟が大学生になって店を手伝うようになると、二階の喫茶店を改造して「英語の広場」と名づけた塾を開いた。そんな事業に彼女が乗り出したのは、中学三年生のとき出会った英語教師、野呂が投じた最後の挑戦のプリント「第三十九課、日本人は日本の野球を創造した」が彼女の内部でつねに鳴動していたからだった。

 そのプリントが彼女の体内で年月とともにふくらみ広がり、《日本人が日本の英語を創造する》、その活動の場を茶店の二階に生誕させたのである。そのときから七海は悪魔の思想の伝道者となった。

 荏原中延中学校三年二組には、悪魔の伝道者がもう一人いた。この生徒は高校生になると自宅のガレージで翻訳ソフトの開発に乗り出した。そして東工大に入ると丹沢の山中に五棟ものロッジを建て、そこで何十台ものコンピューターを駆動させて革命的翻訳ソフト「オデッセイ」を誕生させた。七海はこの同級生を「英語の広場」に引きずり込む。したがって「英語の広場」は二人の悪魔の伝道者が、その悪魔の思想──三百年かけて英語を話せる民族にする──を広げるための苗床であったということになる。

「英語の広場」にさまざまな人々がやってきた。昼間は向学心にあふれる定年退職者や主婦たちが、午後になると中学生や高校生や大学生たちが、夜は勤務を終えたさまざまな職種の人々がその広場にやってきた。その広場は口コミでどんどん広がっていって、都内全域からその広場にやってくるようになった。文法英語や受験英語ではない、НHKの語学番組ではない、駅前にある語学教室ではない、英語を話したい、英語で自己を表現したいと熱望する人は世に溢れていたのだ。荏原中延商店街に日本英語で話すという文化が生まれていった。

 そのとき七海が立ち向かっていたことがもう一つあった。荏原中延商店街は三百四十メールほどのアーケードをもつちょっとした規模の商店街だった。しかしどの商店も売り上げは下降する一方で、五十年六十年とつづいた店が相次いでシャッターをおろしていく。空になったその建物に新しい店舗が入ってくるが、これがまた一年足らずで去っていく。かつてはそのアーケードには百四十、百五十もの店舗があったがいまでは百を切るばかりになっていた。

 商店街組合では、毎月のようにイベントが打たれていた。ご入学ご卒業おめでとうセール、母の日プレゼントセール、父の日プレゼントセール、七夕サマーセール、歳末大売り出し、もちつき大会、激安セール、駅弁大会と。そんなイベントづくりにもっとも若い組合員である七海は果敢に取り組んでいった。つまみ食いウォークだとか、荏原中延寄席とか、ジャズフェスティバルといったイベントは七海が企画して実現させたものだった。しかしそんなイベントをいくら繰り出しても、じり貧状態にストップはかからない。沈滞どころかなにやら時代に沈没していくような商店街を救い出すには、もはや小手先のイベントづくりではなく、なにかもっと根底から変革すべきではないのか。

 商店街を支える半径八百メートル内の住民の四割が高齢者だった。この商店街で実際に買い物する客層も七割が高齢者だった。そんなことで商店街のターゲットは高齢者に設定されていた。高齢者に愛される商店街、高齢者が入りやすい店舗づくり、高齢者が欲する品揃えである。商店街はその地域の人々によって成り立っている。地域の人々を失ったら商店街は存続できない。これがそのときの中延荏原商店街のコンセプトだった。七海はこのコンセプトこそじり貧状態にさせていると考えた。

 これは落日の光景ではないか。これでは少子高齢化という時代の波に、やがてわが商店街は消されていく。このコンセプトを打ち破らなければこの商店街は生き残れない。彼女はそのコンセプトを打ち倒す革命的プランを育てていたのである。茶屋の二階に生まれた「英語の広場」は、しばしばマスコミで報じられたりしたこともあって、都内全域からやってくる。「英語の広場」はすでに商店街は半径八百メート圏内の住民によって成り立っているというコンセプトを打ち破っていたのである。

 七海のプランはそこからスタートするのだが、しかし彼女は一挙にその展望を全地球的規模に広げていったのだ。東は太平洋を越えてカナダやアメリカやメキシコに、西は韓国や中国やモンゴルに、南は台湾やフィリッピンやタイやミャンマーやインドネシアやオーストラリアやニュージランドに。さらに地球の裏側にまでひろげていって、イギリスやドイツやフランスやイタリアやスペインに、さらに中東へ、さらにアフリカ大陸へと地球的規模に広げていく。

 日本を訪れる観光客は三千万人にものぼる。それこそ全世界からやってくる。その全世界からやってくる観光客をターゲットにした商店街に変革していくというプランだった。多くの外国人観光客が四季を問わず東京にやってくる。彼らの足は銀座に、浅草に、秋葉原に、原宿に、新宿に、渋谷にと向かう。そこにもう一か所、荏原中延商店街を参入させる。全世界からやってくる三千万の観光客の一パーセントでもいい、彼らが荏原中延商店街を訪れてくれたら、閑古鳥が鳴く商店街は日中から賑わう。

 この革命的プランを組合に投じると、たちまち二十人をこえる賛同者たちが集まってきた。商店主たちだけでなく、銀行の支店長、会計士、医師、教師、整体師、ジャズバーを経営しているミュージシャンと多様な顔ぶれがそろって、「世界の荏原中延商店街にする会」と名づけられた研究会ができた。その最初の会合で七海は英語でスピーチをして、これからの会議は英語でおこなうので会員全員が英語のトレーニングをしてほしいと要望した。世界の商店街にするには、まず商店主たちが英語を話せるようにならねばならぬというわけだった。

 商店街組合の会長は、組合員の投票によって決められるというルールになっていたが、実際はこれまでほとんどが禅譲で、ときたま禅譲に反対する商店主があらわれて選挙になるがその候補はいつも大差で敗れ、敗れると半年後にはその店も消えていく。そんな風潮が支配する組合の会長選挙に、七海は革命的プランを掲げて立候補した。彼女の勝利だった。組合員の大半が二十八歳の若き女性に投票したのは、荏原中延商店街は沈没の危機感に包まれていたということでもあったが、それ以上になにか新世界の風が吹き込んでくるような彼女が掲げた革命的プランに魅了されたのだ。

 改革がはじまった。店舗の改築ブームがおこり、一店舗一店舗が劇的に変化していった。肉屋がミートショップに、魚屋がフィッシュマーケットに、八百屋がグリーングロスリーに、理髪店がバーバーに、靴屋がシューズショップに、帽子屋がハッターに、おでん屋がODENYAに、蕎麦屋がSOBAYAにと、店舗の構えから店内のレイアウトまで変革され、なにやら異国的な雰囲気をただよわせるのだ。何年もシャッターを閉じていた店舗に、若い世代が企画したショップが入ってきて、そこからもまた商店街に刺激と活気をあたえた。

 宣伝広報活動もなかなか巧妙だった。英語のパンフレットを大量に印刷して、日本に観光客を送りだす全世界の旅行代理店に配布した。外国のマスコミにもたびたび登場させた。そんな宣伝工作が功を奏して、閑古鳥通りとささやかれていた通りは、平日も休日も人波であふれる通りになった。こうして商店街に改革をもたらした七海は、商店街を取り巻く地域社会、すなわち品川という地に新しい活力を注ぎ込もうと、三十四歳のとき四つの選挙公約を掲げて、区議会議員選挙に立った。

 その四つの公約とは、まず「高齢者よ、社会から引退するのではなく、再び社会の最前線に立て」だった。高齢者は民族の宝庫である、高齢者はエネルギーの貯蔵庫である、高齢者は社会を開拓していく情熱の根源である、さあ、高齢者よ、もう一度社会の前線に立って開拓の鍬を打ち下ろそう。品川区の住民のなんと四割が六十歳以上の高齢者だった。豊かな経験をもち、知識があり、技術をもち、叡智に溢れている高齢者のリタイアは社会の大きな損失だった。この大量の高齢者たちが社会のあらゆる領域で働けるシステムをつくりだすという公約だった。

 二つ目は品川区に居住する芸術家に芸術家証明書を発行するという公約である。芸術家は貧しい。芸術で食べていける人間などほとんどいない。そんな彼らを援護するシステムが芸術家証明書の発行だった。この証明書が交付されるとさまざまな特典が与えられる。住居や工房やスタジオが貸与される。彼らの創造に補助金がつく。美術館が、劇場が、スタジアムが、大小のホールが無料で使える。日本ではじめてその証明書を発行することによって、品川区にたくさんの芸術家たちが住むようになる。この地から新しい文芸の波が起こっていく。品川を芸術の生誕地にするという公約だった。

 三つ目は英語の授業の改革だった。彼女が区議選に立とうとしたもっとも大きな動機はこの英語だった。いまだに日本の学校の英語教育は文法英語と受験英語の授業だった。生徒たちはこのまったく無駄な授業に膨大な時間を費やしている。なんという損失なのだろう。「英語の広場」には大勢の中学生や高校生がやってくる。そこで行われるメソッドによって彼らは自由に英語を話す若者になっていくのだ。なぜ日本の英語教育は改革できなのか、彼女が区議選に立った直接の動機はこの怒りにあった。彼女の選挙公約の一番の柱は、品川区の英語教育を全面的改革することだった。文法英語と受験英語の授業から「草の葉メソッド」に全面的に切り替えるべきだと。

 そして四つ目は日本英語を品川区の公用語にするという公約だった。彼女は日本人を日本語と英語を話す民族にするという悪魔の思想の伝道者だった。すでに荏原中延商店街でその思想が根を下ろしている。毎日大勢の外国人に応対する商店街の店主たちは英語を話す人になっている。組合の会議だって英語が行われる。そして「英語の広場」にやってくる小学生も、中学生も、高校生も、大学生も、主婦も、会社員も、退職者も、次々に英語を話す人になっていく。品川は英語を公用語にする最もふさわしい場所だった。

 彼女は第二位の候補に大差をつけてのトップ当選だった。そして一か月後、早くも区議会議場で質問に立った。そのスピーチを彼女は日本英語で行ったのだ。議場は騒然となった。ここは日本の議会だ、日本語で話せ、議会法違反だ、懲罰にかけろ、と猛烈なヤジが飛んで議場はちょっと騒然となった。議員たちが議長席に駆け寄り猛烈な抗議をすると、議長は彼女に英語でのスピーチにストップをかけた。彼女はそこで日本語に切り替え、さらにスピーチをつづけたが、しかししばしばその合間に英語をはさみ込み、また非難の声が湧き立つ。そこでまた日本語に切り替えてのスピーチだった。

 それはなかなか鮮やかなデビューだった。日本英語を品川区の公用語にするという選挙公約の実現に向けての最初の一歩だった。その後、何度も議会で質問に立ったが、日本語のなかに英語をはさみ込むというスピーチに非難の声が飛ぶこともなく、議長からストップをかけられることもなくなった。七海が荏原中延商店街で実践している活動で品川は世界中から人々が訪れる町になった。そんな深い実践から生み出されている七海の英語のスピーチをだれも攻撃しなくなっていた。

 彼女がさらに熱く公約した英語教育の改革は、区議議員になった一期目にはやくも実現していた。品川区の公立中学校から文法英語や受験英語が消え去った。英語の授業が「草の葉メソッド」方式に全面的に切り替えられたのだ。こんなにはやいスピードで改革されたのは、文科省の内部で繰り広げられていた権力闘争に一つの決着がついたからだった。

 その権力闘争とは守旧派と改革派の争闘と呼んでもいい、旧文部省出身の官僚と旧科学技術庁出身の官僚との争闘と呼んでもいい、東大出身の官僚と東工大・地方国立大学・私立大学出身の官僚との争闘と呼んでもいいし、あるいは地方に左遷された官僚が本省に戻り、彼を監獄に送り込もうとした官僚を一人また一人と打ち倒して新たな潮流をつくり出した闘争だったといってもいいのだろう。その潮流とは五十年に一度の大改革といわれる「学習指導要領」の全面的な改革だった。その潮流が品川区の英語教育の改革をバックボーンになっていた。

 日本英語を品川区の公用語にするという公約は、いくつもの越えなければならないハードルがあった。まず条例案に賛同する区民の署名が必要だった。その数も区内の有権者の五十分の一と設定されていたから、品川区の有権者三十万人の五十分の一、すなわち六千人の賛同者が必要だった。その六千人の署名が集まると、その条例案は区議会へ提出されて、区議会で可決されれば住民投票の実施となる。しかし住民投票が実施されても、投票率が有権者の五十パーセントを越えなければ、その投票そのものが無効になる。無効になればその票は開票もされずに破棄されるという厳しいルールが設定されていた。

 七海が議員になった一期目に、その公約「日本英語を品川区の公用語にする条例案」を区議会に提出している。彼女はさかんに政党に働きかけたが、どの政党からも賛同を得られなかった。しかし二期目になると彼女と同じ公約を掲げる候補が四人も区議選に当選するのだ。そんな彼らと政党の枠を取り払って「日本英語を品川区の公用語にする区議会議員の会」というグループを結成された。そして果敢な活動を展開していくと、自由党と民社党が賛同する側に立ち、その条例案が区議会で可決されるのだ。つまり住民投票を行うことが可決されたのである。

 そして住民投票が行われたが、投票率四十二パーセントだった。区議会議員や区長選挙はいつだって得票率といったら三十パーセント台だから、区民の関心は高い、もう少しだった。三期目に三度目の挑戦をする。今度こそと熱い活動を展開してその日にのぞむと、なんと得票率は四十九パーセントだった。あと一パーセントだった。あと一パーセントが及ばずその投票は破棄されてしまった。しかしそれは敗北というよりも、もう確実に勝利がそこまで迫っていることを告げる得票率だった。

 そして四期目、四度目の挑戦になった。機は熟した。すでにたっぷりとその条例が誕生する土壌はつくられている。七海が経営する茶店がある荏原中延商店街や、戸越銀座商店街から武蔵小山商店街まで二千メートルにも及ぶ日本最大の商店街には、世界各地からやってくる観光客で連日ごったがえしている。これら商店街ではすでに英語は日常の言葉になっていた。

 あるいは品川区は芸術家証明書を発行して、芸術家たちの生活やその活動を支援するシステムをつくりだしていた。だから世界各地からやってくるさまざまなアーティストたちが定住して、いまでは品川はニューヨークのソフォー、あるいはパリのモンパルナスにたとえられたりする。ここでももはや英語は日常語になっていた。

 さらに「草の葉メソッド」で育った若者たちの登場があった。全国に先駆けてスタートさせた「草の葉メソッド」による英語の授業によって、品川の大多数の若者たちは英語を話すことができる。その授業で育った若者たちが、独自の活動を組み立ててこのムーブメントに参戦していた。

「日本英語を品川の公用語にする条例」の住民投票は、今度こそ過半数をこえるに違いない。開票されば確実に賛成票が反対票を圧倒する。二十年も及ぶ戦いがいよいよ結実する。そんな興奮と熱気にあふれていたが、しかし投票日が近づくにつれて品川はちょっと異様な雰囲気になっていった。

 政治団体の街宣車が軍歌を大音量で流しながら品川に入ってきて、庁舎前で、大井町や五反田の駅頭で、商店街で、野獣の叫びのようなアジテーションが響き渡るようになった。
──英語を公用語にしたら日本語が滅びる!
──日本精神を滅ぼす英語公用語の住民投票を絶対に許すな!
──品川は移民たちに乗っ取られる、それでもいいのか!

 それは右翼側からだではなく、左翼勢力の政治団体や労働組合の街宣活動も展開されて、この住民投票にはげしい非難を浴びせる。
──教育要領を大改悪する文科省の手先になった品川!
──肥大化させる英語教育が日本の教育を崩壊させる!
──子供たちを英語帝国主義の奴隷にするな!

 いま文部科学省が教育の大改革に踏み出そうとしているが、英語を公用語にするという品川区におこったムーブメントがその大改革の旗振りをしている、その大改革の先導をしているとして左右の政治勢力の標的にされたのだ。しかしいくら文科省の教育改革に反旗を翻すための闘争とはいえ、日本の一地方に過ぎない品川の住民投票にかくも興奮した左右両翼の政治団体が、街宣車を繰り出して襲撃してくることは異様なことだった。そんな異様な展開になっていくのは、いま東アジアにただならぬ暗雲が湧き立ち、なにやら大動乱が生起する兆しをはらんでいるからだった。

 中国が激動していた。世界一の経済大国になった中国は、内部矛盾がいよいよ先鋭化して危険水域に達していた。共産党による一党独裁の政治体制、成長経済の破綻、富める層と貧しい層の格差の拡大、成熟していく国民、自由と民主主義を求める市民活動のうねり、多発する抗議デモ、各地で起こる暴動。いまや中国は内部から大崩壊する兆しをみせている。国家がこの危機を乗り切る方法が一つあった。それは戦争だった。戦争を勃発させれば一挙に国民を統一することができる。勃発させるその戦争をどこで起こすのか。どこの国と干戈を交えるのか。それは日本だった。

 朝鮮半島も緊迫していた。韓国は北朝鮮に対して友好支援政策をとっていた。経済交流を活発にして北朝鮮の市民の生活のレベルを高めるという政策だった。生活が豊かになると市民の意識が変化して、南北を隔てる壁が北朝鮮の側から崩されていく。そんな平和外交路線をとっていた。ところが北朝鮮の絶対の君主であった金永南総書記が暗殺される。四代続いた世襲政権が崩壊したのだ。その混乱のなか政権を握ったのが玄哲海という第三軍の参謀長だった。超法規によって軍事政権を生誕させると、朝鮮半島の統一を掲げた。南の国家を打ち砕いて朝鮮半島を統一する。核実験が頻繁に行われ、ミサイルが大量に生産されている。朝鮮半島は一触即発の情勢になっていた。

 風雲急を告げる東アジアに日本もまた緊迫していくのだ。憲法改正、自衛隊を軍隊に、軍事費膨張、徴兵制と急激に右傾化が進行していく。そしてそんな時流に抵抗する平和運動や憲法改正反対運動や徴兵制反対の運動もまた過激に攻撃的になっていた。

 そんなさなか日本中震撼させるテロ事件が三つも連続して起こるのだ。六か月前、ニューヨークの中心マジソン街に立つビルの中に、世界制覇の快進撃を続ける日本の衣料品販売メーカー「クニクラ」が大規模な店舗を開設した。その開店セレモニーにあらわれた「クニクラ」のCEO近藤仁が狙撃された。その狙撃したのが十七歳の若者だった。その二か月後に、和食の全国チェーン店を成功させ、さらに養老介護事業に乗り出して全国に二千もの養老介護施設を擁する一大帝国をつくりだし奥田正義が、お台場に立つ「オクダ・ホールディング」本社ビルの会長室で刺殺された。犯行者は高校三年生の女生徒だった。さらにその一か月後に、憲法擁護の街頭デモの先頭を歩いていたノーベル文学賞作家の野村崇がやはり刺殺される。犯行者は十七歳の若者だった。未成年者によるこの一連の事件は、《テンチュウ(天誅)レンジャー》というコンピューターゲームから影響を受けた模倣犯的テロ事件だと報道されていたが、このような事件が連続して発生するのは、太平だった日本の社会が急激に緊張し緊迫していることを語っていた。

 この《テンチュウレンジャー》に煽られた事件が、品川にも出現した。品川区の英語を公用語にする市民活動の拠点を荏原中延商店街のビルにおいていたのだが、そこにテンチュウレンジャーの隊員と名乗る男に襲撃されるのだ。鉄パイプを手にした襲撃者は、室内にあったものを片っ端から打ち砕いていった。この男の目的はこの活動を先導する七海を襲撃することだった。その翌日から警視庁は七海を警護するSPを配置した。この活動のスタッフたちは、彼女に街頭に立っことを禁じたが、しかし彼女はそんなスタッフの説得を振りきって、その日もまた大井町の駅頭で区民に訴えた。

──投票日まで三日となりました。この住民投票は日本中から熱い注目を浴びています。注目だけではなく、激しい攻撃も浴びています。この住民投票を粉砕しようと、さまざまな政治団体が何台もの街宣車を連ねて品川に入ってきて、庁舎前で、大井町や五反田や武蔵小山の駅頭で、さらに商店街などで住民投票に激しい攻撃を浴びせています。いまこの駅前広場にも連日何台もの街宣車が入れ代わり立ち代わりあらわれ、品川区民を威嚇し、住民投票を叩き潰そうとしています。

 彼らの攻撃はこうです。日本語が滅びる、日本精神を滅ぼす、品川は日本の魂を失った町になる、品川は移民たちに乗っ取られる、英語を公用語にするな、まず日本語を守れという攻撃です。攻撃は右翼団体からだけでありません。左翼団体の攻撃も激しく、文科省はいま日本の教育を大改革しようとしている、この改革は英語中心の大改悪であって、日本の教育を根底から破壊しようとしている、品川区は文科省が推進している教育要領の大改悪の旗振りをしていると。あるいは英語を公用語にするとは、英語帝国主義の植民地にするということであり、英語帝国主義アメリカの基地になって風雲急を告げるアジアの戦乱に巻き込まれると。

 これらの非難や攻撃はいずれも間違っています。かつて日本は鎖国政策をとっていました。そこに英語が攻め寄せ、英語が上陸してきました。そのとき日本語はどうなったでしょうか。日本語は英語に駆逐されたでしょうか、日本語が淘汰されたでしょうか、日本語がそのとき滅んでいったでしょうか。そんなことはありませんでした。そのときまったく逆のことが起こったのです。日本語は英語の襲撃によって限りなく豊かな言葉になり、近代国家を打ち立てる強靭な言葉に成長していったのです。

 いままさにそのことが品川区で起こっています。品川区ではすでに十年も前から、いま文科省がスタートさせようとしている、英語教育の改革を先取りした先駆的な授業を実施してきました。その結果どうなったか。品川の中学生のたちの日本語の力が落ちたでしようか。まったく逆です。全国の学力調査で、品川の中学生たちの国語の成績は、英語とともに常にダントツのトップです。それは草の葉メソッドによる英語の授業が、国語の力を鍛える授業でもあるからです。テストの成績だけでありません。品川の中学生たちの自己を表現する力もダントツです。しかも品川の中学生たちは、日本語だけでなく英語でも自己を表現することができるのです。近い将来、わが品川区民は確実に、日本語と英語を自由に話すことのできる、バイリンガムの街になっていくことを予感させます。

 日本英語を公用語にすることは、英語帝国主義の植民地にすることだという批判もあたりません。日本英語は、アメリカ英語でもなければ、イギリス英語でもありません。日本英語はガイア・イングリッシュです。ガイア・イングリッシュとは地球をつなぐ言葉、地球語という意味です。いまや全世界にガイア・イングリッシュは生まれています。インド英語が、シンガポール英語が、韓国英語が、中国英語が、ブラジル英語、ペルー英語が、ケニア英語が。今、品川区が日本英語を公用語にするという条例を打ち立てることは、全世界をつなぐハブ空港、ハブターミナルになったということです。

 その日があと三日と迫っています。二十年にも及ぶ戦いがあと三日で結実します。いま東アジアに戦乱の気配を孕んだ雲が重苦しく横たわっています。もしこのアジアに戦争が起きたら、その戦争に日本が巻き込まれたり、あるいは日本がその戦争を主導する国になったりしたら、私たちがつくりあげてきた豊かな街が一挙に崩壊していきます。

 戦争へ、戦争へとなびいていくこのような時代に、地球語である日本英語をわが品川区の公用語にする、その条例を打ち立てるということは、わが品川を世界の平和を希求する拠点にするということです。戦争は絶対に起こしてはならない。戦争を絶対に拒否する。そのことを宣言することでもあります。この宣言を許すまいという勢力がいま品川に襲いかかっています。連日、何十台という街宣車が軍歌を大音量で放って走り回り、駅前では野獣が吠えるように住民投票をつぶせと叫んでいます。

 私たち品川区民は暴力の大音量に少しも屈しません。品川は、私たち住民一人一人が立ち上がって、自治を確立した街です。あと三日と迫った投票日には、「日本英語を品川区の公用語にする」条例案に、反対の票を投じるにせよ、賛成の票を投じるにせよ、自治の精神で投票場に足を運び、あなたの一票を投じて下さい。

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中延商店街 スキップロードに芸術が上陸してきた

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われらの人生の師、96歳になった周藤佐夫郎さんの生命力あふれる絵画は、私たちに勇気と生命エネルギーを注ぎこんでくれます。忙しい毎日、しかしこの日、スキップロードの「ふれあい広場」を訪れて、周藤佐夫郎さんと、これまた生命力あふれる高尾五郎さんの絵画に遭遇してください。「草の葉クラブ」は、新しい地平を切り拓くためにこの芸術展を、これから定期的に開催します。芸術とは私たちの人生を豊かにする魂のパンです。

        7月25日 土曜日
10時から5時
中延商店街・スキップロード「ふれあい広場」

交通アクセス
JR大井町駅で東急大井町線に乗り換え中延駅下車
JR五反田駅で東急池上線に乗り換え荏原中延駅下車
中延商店街スキップロードはいずれの駅からも徒歩二分。
「ふれあい広場」はスキップロードの中ほどにあります。

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「note」からの来訪者には、52ページの冊子「草の葉 夏季特別号」を無料で差し上げます。われらのムーブメントに共鳴し共感しともに参戦したいと熱望する方、新しい地平を切り拓こうと苦闘している方、戦いに敗れていま失意のどん底にある方、「note 」に言葉を書き込むことにむなしさを感じている方、夢に向かって一歩が踏み出せない方、われらの小さな祭典に足を運んでください。わずか十畳ほどの小さな空間です。そこに展示される絵画は、晩年になって絵画に取り組んだ独学独習のまったくのドシロウトの作品でする。しかし二人の絵画には、あなたの想像力と創造力を触発させるでしょう。こんな下手な絵なら俺たちにだって描けると。

当日は「草の葉がクラブ」が生み出した作品の一部を展示販売します。そして今、「誰でも本が作れる。誰でも本を発行できる。誰でも出版社が作れる」というスローガンのもとに展開している一冊「ゲルニカの旗 南の海の島」も展示します。小さな出版革命を起こす手作りの本とはどのようなものなのか。手にとってご覧ください。

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