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石牟礼道子さんへの手紙

 

石牟礼道子の世界  渡辺京二


   1
 
 はじめに私的な回想を書きつけておきたい。「あとがき」にもあるように、本書の原型をなす『海と空のあいだに』は、昭和四十年十二月から翌四十ー年いっぱい、私が編集していた雑誌「熊本風土記」に連載された。「熊本風土記」の創刊当時、私はいわゆる「サークル村」の才女たちの一人として、彼女の評判は聞き知っていたけれど、まだつきあいらしいつきあいはなかった。その彼女が、見ず知らずといっていい私の雑誌に連載を書いてくれることになったのは、ひとつは谷川雁氏の紹介と、もうひとつは、三十八年に雑誌「現代の記録」を水俣の仲間たちと創刊して、あとが続かずにいた彼女にとって、ちょうど手頃な発表機関が必要であったからにちがいない。

『海と空のあいだに』は、いってみれば編集者としての私に対する彼女の贈り物であった。第一回の山中九平少年のくだりを受けとったとき、私はこれが容易ならざる作品であることを直感した。時に休載することもあったが、原稿はほぼ順調に一回三~四十枚の分量で送られて来た。すなわち、作品はほぼノートの形ですでに書き上げられていて、彼女は締切りごとにそれに手を加え原稿化しているのだと私は推察した。私は編集者として、この作品の成立に協力するようなことは何ひとつしなかった。私のしたことはせいぜい誤字を訂正するくらいであったが、それでも自分がひとつの作品の誕生に立ち会っているのだという興奮があったのは、人に先んじて「ゆき女聞き書」や「天の魚」の章を原稿の形、ゲラの形で読み、まだ誰も味わっていない感動を味わい知る特権にめぐまれたからだろう。

 当時、彼女はまだ完全にひとりの主婦として暮らしていた。四十年の秋、はじめて水俣の彼女の家を訪れた時、私は彼女の「書斎」なるものに深い印象を受けた。むろん、それは書斎などであるはずがなかった。畳一枚を縦に半分に切ったくらいの広さの、板敷きの出っばりで、貧弱な書棚が窓からの光をほとんどさえぎっていた、それは、いってみれば、年端も行かぬ文章好きの少女が、家の中の使われていない片隅を、家人から許されて自分のささやかな城にしたてて心尉めている、とでもいうような風情だった。座れば体ははみだすにちがいなく、採光の悪さは確実に眼をそこなうにちがいない。しかし、家の立場からみれば、それは、いい年をして文学や詩歌と縁を切ろうとしない主婦に対して許しうる、最大限の譲歩でもあったろう。『苦海浄土』はこのような仕事部屋で書かれたのである。

 私は、苦しい条件のもとで書かれた名作、などといううろんな話をしているのではない。どんな条件で書かれようと駄作は駄作であり、傑作は傑作である。こういう話を書きつけるのは、そのつつましい仕事部屋(部屋ではなく単なる出っばりなのだが、仮にこういっておく)が私にあたえた、ある可憐ともいじらしいともいうべき印象を、私がいまなお忘れかねるからであり、さらにはまた、主婦である彼女に、そうまでして文章を書くことに執しなければならなかった衝動、いいかえれば不幸な意識が存在していたことに注意してほしいからである。

『ゆき女聞き書』と『天の魚』の章を読んだ時、私はすでにこの作品が傑作であることを確信していた。また、絶対にジャーナリズム上で評判をとると予想した。目が開いていれば誰にでもわかることである。はたして、本書が講談社から発行されると、世評はにわかに高く、その年のうちに第一回大宅壮一賞の対象となった。彼女はそれを固辞したが、そのことがまたジャーナリズムの派手な話題となった。しかも、時は折から公害論議の花ざかりである。『苦海浄土』はたちまち、公害企業告発とか、環境汚染反対とか、住民運動とかという社会的な流行語と結びつけられ、あれよあれよという間に彼女は水俣病について社会的な発言を行なう名士のひとりに仕立てられてしまった。『苦海浄土』がジャーナリズムの上で評価されるだろうことを疑わなかった私にしても、こればかりは予想の外に出ることであった。

 彼女は、自分でもどうにもならぬ義務感から、本書の第七章にあるように、昭和四十三年はじめに水俣病対策市民会議を結成し、その後運動が拡がるにつれ、彼女なりの責任を果たそうとしてきた。本書が発行された四十四年一月以降の経過について略述すれば、この年四月、厚生省の補償斡旋をめぐって、患者互助会は一任派と訴訟派に分裂、六月には二十九世帯が熊本地裁にチッソをあいてどって総額十五億九千万円余の損害賠償を提起した。それにともなって全国各地に「水俣病を告発する会」が生まれ、厚生省補償処理阻止、東京―水俣巡礼団、株主総会のりこみなどが行なわれ、また四十六年夏から、いわゆる新認定規準によって、これまで放置されていた濳在患者が続々と認定されはじめ、その年の未には新認定患者はチッソに対する自主交渉を開始した。この自主交渉は一年後の現在なおえんえんと続けられており、一方、裁判はこの秋やっと結審をむかえ、来年の春には判決言い渡されるものと予想されている。

 石牟礼氏はこのような事態の展開に、つとめてよくつき合って来たといってよい。それは彼女の責任であったわけであるが、そういう経過の中で、彼女はある運動のイメージがまわりつき、彼女の著作自体、公害告発とか被害者の怨念とかいう観念で色づけして受けとられるようになったのは、やむをえない結果であった。

 しかし、それは著者にとってもこの本にとっても不幸なことであった。そういう社会的風潮や運動とたまたま時間的に合致したために、このすぐれた作品は、粗忽な人びとから公害の悲惨を描破したルボルタージュであるとか、患者を代弁して企業を告発した怨念の書であるとか、見当検討ちがいな賞讃を受けるようになった。告発とか怨念とかいう言葉を多用できるのは、むろん文学的に粗雑きわまる感性である。それは文句なしにいやな言葉であり、そういう評語がこの作品について口にされるのを見るとき、その誕生に立ち合ったものとして、私はやりきれない思いにかられる。本書が文庫という形で新しい読者に接するこの機会に、私は、本書がまず何よりも作品として、粗雑な観念で要約されることを拒む自律的な文学作品として読まれるべきであることを強調しておきたい、
 
  2
 
 実をいえば『苦海浄土』は聞き書なぞではないし、ルポルタージュですらない。ジャンルのことをいっているのではない。作品成立の本質的な内囚をいっているのであって、それでは何かといえば、石牟礼道子の私小説である。磯川光一氏はある対談の中で、『苦海浄土』を一応いい作品だと認めた上で、自分がもし患者だったら、変な女が聞き書などをとりに来たら家に入れずに追い返すだろうという趣旨の発言をしていた。私もまったく同感なのであるが、『苦海浄土』がそういうプロセスで出来上った聞き書でないことは、磯川氏の能力をもってすれば読みとることは困難ではないはずである。
 
 私のたしかめたところでは、石牟礼氏はこの作品を書くために、患者の家にしげしげと通うことなどしていない。これが聞き書だと信じこんでいる人にはおどろくべきことかも知れないが、彼女は一度か二度しかそれぞれの家を訪れなかったそうである。「そんなに行けるものじゃありません」と彼女はいう。むろん、ノートとかテープコーダーなぞは持って行くわけがない。彼女が患者たちとどのようにして接触して行ったかということは、汀津野杢太郎家を訪なうくだりを読んでみるとわかる。彼女は「あねさん」として、彼らと接しているのである。これは何も取材のテクニックの話ではない。存在としての彼女がそういうものであって、そういうふれあいの中で、書くべきものがおのずと彼女の中にふくらんで来たことをいうのである。

 彼女は最終列車に乗りそこねて、駅の待合室で夜明しすることがよくあるらしいが、そういう時ともすれば浮浪者然とした男が寄って来て「ねえさん、独りな?」と声をかけるそうである。「きっと精薄か何かに見えるのにね」と彼女は嘆いてみせるが、彼女にはそういう独自なパースナリティがある。「死旗」のなかの仙助老人と村のかみさんたちの対話を読んでみるとよい。

〈爺やん、爺やん、さあ起きなっせ、こげな道ばたにつっこけて、あんた病院行て診てもらわんば、つまらんようになるばい。百までも生きる命が八十までも保てんが、二十年も損するが。
なんばいうか、水俣病のなんの、そげんした病気は先祖代々きいたこともなか。俺が体は、今どきの軍隊のごつ、ゴミもクズもと兵隊にとるときとちごうた頃に、えらばれていくさに行って、善行功賞もろうてきた体ぞ。医者どんのなんの見苦しゅうしてかからるるか。〉

 といったふうに続けられる対話が、まさか現実の対話の記録であるとは誰も思うまい、これは明らかに、彼女が自分の見たわずかの事実から自由に幻想をふくらませたものである。しかし、それならば、坂上ユキ女の、そして江津野老人の独白は、それとはちがって聞きとりノートにもとづいて再構成されたものなのだろうか。つまり文飾は当然あるにせよ、この二人はいずれもこれに近いような独白を実際彼女に語り聞かせたのであろうか。

 以前は私はそうだと考えていた。ところがあることから私はおそるべき事実に気づいた。仮にE家としておくが、その家のことを書いた彼女の短文について私はいくつか質問をした。事実を知りたかったからであるが、例によってあいまいきわまる彼女の答をつきつめて行くと、そのE家の老婆は彼女が書いているような言葉を語ってはいないということが明らかになった。瞬間的にひらめいた疑惑は私をほとんど驚愕させた。「じゃあ、あなたは『苦海浄土』でも……」すると彼女はいたずらを見つけられた女の子みたいな顔になった。しかし、すぐこう言った。「だって、あの人が心の中で言っていることを文字にすると、ああなるんだもの」。

 この言葉に『苦海浄土』の方法的秘密のすべてが語られている。それにしても何という強烈な自信であろう。誤解のないように願いたいが、私は何も「苦海浄土」が事実にもとづかず、頭の中ででっちあげられた空想的な作品だなどといっているのではない。それがどのように膨大な事実のデテイルをふまえて書かれた作品であるかは、一読してみれば明らかである。ただ私は、それが一般に考えられているように、患者たちが実際に語ったことをもとにして、それに文飾なりアクセントなりをほどこして文章化するという、いわゆる聞き書の手法で書かれた作品ではないということを、はっきりさせておきたいのにすぎない。本書発刊の直後、彼女は「みんな私の本のことを聞き書だと思ってるのね」と笑っていたが、その時私は彼女の言葉の意味がよくわかっていなかったわけである。

 患者の言い表わしていない思いを言葉として書く資格を持っているというのは、実におそるべき自信である。石牟礼道子巫女説などはこういうところから出て来るのかも知れない。この自信というより彼らの沈黙へかぎりなく近づきたいという使命感なのかも知れないが、それはどこから生れるのであろう。彼女は水俣市立病院に坂上ユキを見舞った時、半開きの個室のドアから、死にかけている老漁師釜鶴松の姿をかいま見、深い印象を受ける。「彼はいかにもいとわしく恐しいものをみるように、見えない目でわたくしを見た」と彼女は感じた。

〈この日はことにわたくしは自分が人間であることの嫌悪感に、耐えがたかった。釜鶴松のかなしげな山羊のような、魚のような瞳と流木じみた姿態と、決して往生できない魂魄は、この日から全部わたくしの中に移り住んだ。〉

 こういう文章はふつうわが国の批評界では、ヒューマニズムの表明というふうに理解される。この世界に一人でも餓えている者がいるあいだは自分は幸福にはなれない、というリゴリズムである。この文をそういうふうに読むかぎり、つまり悲惨な患者の絶望を忘れ去ることはできないという良心の発動と読むかぎり、『苦海浄土』の世界を理解する途はひらけない。そうではなくて、彼女はこの時、釜鶴松に文字どおり乗り移られたのである。彼女は釜鶴松になったのである。なぜそういうことが起りうるのか。そこに彼女の属している世界と彼女自身の資質がある。

 彼女には簽鶴松の苦痛はわからない。彼の末期の眼に世界がどんなふうに映っているかということもわからない。ただ彼女は自分が釜鶴松とおなじ世界の住人であり、この世の森羅万象に対してかつてひらかれていた感覚は、彼のものも自分のものも同質だということを知っている。ここに彼女が彼から乗り移られる根拠がある。それはどういう世界、どういう感覚であろうか。いうまでもなく坂上ユキや江津野の爺さまや仙助老人たちが住んでいた世界であり、持っていた感覚である。

 即物的にいえば、それは「こそばゆいまぶたのようなさざ波の上に、小さな舟や鰯籠などを浮かべ」と湯堂湾であり、「ゴリが、椿の花や、舟釘の形をして累々と沈んでいる」井戸をひっそりと抱いた村であり、「みしみしと無数の泡のように虫や貝たちのめざめる音が重なりあって拡ってゆく」渚であり、「茫々とともったように暮れ」て行く南国の冬の空である。山には山の精が、野には野の精がいるような自然世界である。この世界は誰の目にもおなじように見えているはずだというのは、平均化されて異質なものへの触知感を火ってしまった近代人の錯覚で、ここに露われているような自然の感覚へは、近代の日本の作家や詩人たちがもうもつことができなくなった種頬に属する。

〈海の中にも名所のあっとばい。「茶碗が鼻」に「はだか瀬」に「くろの瀬戸」「ししの島」。
ぐるっとまわればうちたちのなれた卵でも、夏に入りかけの海は磯の香りのむんむんする。会社の匂いとはちがうばい。
 海の水も流れよる。ふじ壺じゃの、いそぎんちゃくじゃの、海松じゃの、水のそろそろと流れてゆく先ざきに、いっぱい花をつけてゆれよるるよ。
 わけても魚どんがうつくしか。いそぎんちゃくは菊の花の満開のごたる。海松は海の中の崖のとっかかりに、枝ぶりのよかとの段々をつくっとる。
 ひじきは雪やなぎの花の枝のごとしとる。藻は竹の林のごたる。
 海の底の景色も陸(おか)の上とおんなじに、春も秋も夏も冬もあっとばい。うちや、きっと海の底には龍宮のあるとおもうとる。〉
 
 こういう表現はおそらく日本の近代文学の上にはじめて現れた性質のものである。というのは、海の中の景色を花にたとえるという単純な比喩をこれまでのわが国の詩人が思いつかなかったなどという意味ではもちろんなく、ここでとらえられているようなある存在感は、近代的な文学的感性では触知できないものであり、ひたすら近代への上昇をめざして来た知識人の所産であるわが近代文学が、うち捨ててかえりみなかったものだという意味である。この数行はもちろん石牟礼氏の個的な才能と感受性が産んだものにはちがいないけれども、その彼女の個的な感性にはあるたしかな共同的な基礎があって、そのような共同的な基礎はこれまでわが国の文学の歴史でほとんど詩的表現をあたえられることもなかったし、さらには、近代市民社会の諸個人、すなわちわれわれにはとっくに忘れ去られていた。

 その世界は生きとし生けるものが照応し交感していた世界であって、そこでは人間は他の生命といりまじったひとつの作在にすぎなかった。むろん人は狩をし漁をする。しかし、狩るものと狩られるもの、漁るものと漁られるものとの関係は次のようであった。
 
〈タコ奴はほんにもぞかとばい。
 壺ば揚ぐるでしょうが。足ばちゃんと壺の底に踏んばって上目使うて、いつまでも出てこん。こら、おまや、舟にあがったら出ておるもんじゃ、早う出てけえ。出てこんかい、ちゅうてもなかなか出てこん。……出たが最後、その逃げ足の早さ早さ……やっと籠におさめてまた舟をやりおる。また籠を出てきょって籠の屋根にかしこまって坐っとる。こら、おまやもううち家の舟にあがってからはうち家の者じゃけん、ちゃあんと入っとれちゅうと、よそむくような目つきして、すねてあまえるとじゃけん。
 わが食う魚にも海のものには煩悩のわく。〉
 
 その世界で人びとはどのように暮らしていたかといえば、それは、江津野老人の酔い語りの中でいわれているような、「魚は天のくれらすもんでござす。天のくれらすもんをただで、わが要ると思うしことってその日を暮す。これより上の栄華のどけにゆけばあろうかい」といったありようの生活であった。

 このような世界、いわば近代以前の自然と意識が統一された世界は、石牟礼氏が作家として外からのぞきこんだ世界ではなく、彼女自身生れた時から属している世界、いいかえれば彼女の存在そのものであった。釜鶴松が彼女の中に移り住むことができたのは、彼女が彼とこういう存在感と官能とを共有していたからである。

「あの人が心の中で言っていることを文字にすると、ああなるんだ」という彼女の、一見不逞ともみえる確信の根はここにある。彼女は対象を何度もよく観察し、それになじんでいるからこういえるのではない。それが自分のなかから充ちあふれてくるものであるから、そういえるのである。彼女は彼らに成り変ることができる。なぜならばそこにはたしかな共同的な感性の根があるからだ。彼女は自称「とんとん村」に住みついた一詩人として、いつかはこのような人間の官能の共同的なありかたと、そのような官能でとらえられた未分化な世界とを描いてみたいという野心を持っていたにちがいない。

 ところが、彼女がそれを描くときは、それが、チッッ資本が不知火海に排出した有機水銀によって、徹底的に破壌されつくされる、まさにその時に当っていた。いや、この破壊がなければ、彼女の詩人の魂は内部からはじけなかったのかも知れない。自分が本質的に所属し、心から愛惜しているものが、このように醜悪で劇的な形相をとって崩壊して行くのを見るのは、おそろしいことであった。

 彼女の表現に一種凄惨の色がただようのは当然である。使われぬままに港で朽ちて行く漁船の群とか、夜カリリ、カリリと釣糸や網を喰い切る鼠たちなどという、不気味な形象が、彼女の文章のあいまに現れる。手をこまねき息を詰めるはかない崩壊感である。この作品で描かれる崩壊以前の世界があまりにも美しくあまりにも牧歌的であるのは、これが崩壊するひとつの世界へのパセティックな挽歌だからである。

 しかし、もともとそれは、有機水銀汚染が起らなくても、遠からず崩壊すべき世界だったのではなかろうか。石牟礼氏は近代主義的な知性と近代産業文明を本能的に嫌悪する。しかし、それはたんに嫌悪してもどうにもならないものであり、それへの反措定として「自然に還れ」みたいな単純な反近代主義を対置してみてもしようのないことである。彼女はそういうふうにとれる不用意な言葉をエッセイなどに書きつけているけれども、世上流行のエコロジー的反文明論や感傷的な土着主義・辺境主義などが、そういう彼女の言葉にとびついて、「水俣よいとこ」みたいなことを言い出すと、彼女か描いている水俣の風土が美しいだけに、どうしようもなくなるわけである。

 いったい、前近代的な部落社会がそれほど牧歌的なものであるかどうか。彼女自身ちゃんと書いている。「隣で夕餉の鰯をどのくらい焼いたか、豆腐を何丁買うたか、死者の家に葬式の旗や花輪が何本立ったか、互いの段当割はいくらか、などといったことが、地域社会を結びつけているわが農漁村共同体」と、それは部落に代々きまったキツネモチの家柄があり、その家のものがよくできた畑の前を通って「ああよく出来ているな」と羨望を起しただけで、その当人は意識もせぬのに、その家のキッネは相手の家の者にとりついて、とりつかれたほうでは、病人をうち叩いて時には死に至らしめるような、そういう暗部を抱えた社会である。

 生きとし生けるもののあいだに交感が存在する美しい世界は、また同時にそのような魑魅魍魎の跋扈する世界ででもある。そのことを石牟礼氏は誰よりもよく知っている。それなのに、彼女の描く前近代的な世界は、なぜかくも美しいのか。それは、彼女が記録作家ではなく、一個の幻想的詩人だからである。
 
   3
 
 私は先にこの作品は石牟礼道子の私小説であり、それを生んだのは彼女の不幸な意識だと書いた。それはどういう意味だろうか。彼女には「愛情論」という自伝風なエッセイがあり、それに書かれた幼時の追憶は「わが不知火」などでも繰り返し語られている。これらのエッセイで、彼女は幼い時に見てしまった、ひき裂けたこの世の形相を何とかして読むものに伝えようとし、それがけっして伝るはずもないことに絶望しているかのようである。
  
〈気狂いのばばしゃんの守りは私がやっていました。そのばばしゃんは私の守りだったのです。ふたりはたいがい一緒で、祖母はわたしを膝に抱いて髪のしらみの卵を、手さぐりで(めくらでしたから)とってふつふつ噛んでつぶすのです。こんどはわたしが後にまわり、白髪のまげを作って、ペンベン草などたくさんさしてやるといったぐあいでした。〉

 こういう数行を読むと彼女がいかにすさまじい文章上の技巧家であるかわかるが、私がいいたいのはそのことではない。読者はこの構図を本書のどこかで読まれたはずである。そうである。「山中九平少年」の章の冒頭、朽ちかけた公民館の中で、孫をあてがわれて、うつろな意識のなかで耳をほら貝のように不知火に向けながら、股の間にはってきた舟虫を杖の先でつぶしそこねている老人の姿である。少なくとも私には、この老人と孫の構図は、ばばしゃんと「私」の構図のひき写しのように見える。
 父の酒乱が始って、母は弟を抱いて外に逃げる。父はまだ幼い娘に盃をつきつけて「お前、このおとっちゃんに、つきあうか」と目をむく。

〈「フン」、と私は盃を両手でとりました。酔っているので手許のおぼつかない父が、うまく注げなくてこぼし、へっへっと泣いています、
「もったいなかばい、おとっちゃん」
「なにお、生意気いうな」
 奇妙な父娘の盃のやりとりがはじまり、身体に火がついていました。男と女、ぽんたさん、逃げている母と弟、憎くて、ぐらしかおとっちゃん、地ごく極楽はおとろしか〉

 気狂いの祖母は冬の夜、ひとりで遠出をする。彼女が探しに出ると、祖母は降りやんだ雪の中に立っている。「世界の暗い隅々と照応して、雪をかぶった髪が青白く炎立っていて、私はおごそかな気持になり、その手にすがりつきました」。祖母はミッチンかいと言いながら彼女を抱きしめる。「じぶんの体があんまり小さくて、ばばしゃんぜんぶの気持ちが、冷たい町の外がわにはみ出すのが申わけない気がしました」。

 これはひとつのひき裂かれ崩壌する世界である。石牟礼氏が「苦海浄土」で、崩壊しひき裂かれる患者とその家族たちの意識を忠実な聞き書きなどによらずとも、自分の想像力の射程内にとらえることができるという方法論を示しえたのは、その分裂と崩壊が彼女の幼時に休験したそれとまったく相似であったからである。

 『愛情論』で語られているような家庭的な不幸は、近代資本主義がわが国をとらえた明治以来、幾千万というわが国の下層民たちが経験して来たことであった。だが「愛情論」の筆者が語ろうとしているのは、家庭の経済的な没落や父の酒乱や祖母の狂気という現象的な悲惨ではなく、そういう悲惨な現象の底でひきさかれている人びとの魂であった。一人の人間の魂がぜったいに相手の魂と出会うことはないようにつくられているこの世、言葉という言葉が自分の何ものをも表現せず、相手に何ものも伝えずに消えて行くこの世、自分がどこかでそれと剥離していて、とうていその中にふさわしい居場所などありそうもないこの世、幼女の眼に映ったのはそういう世界だった。

 『愛情論』のテーマは男と女が永遠に出会わない切なさであるが、それは近代的な自覚にうながされたノラの嘆きなどとはまったくちがったもので、その根底には人と人とが出会うことができない原罪感がくろぐろとわだかまっている。わが国の近代批評の世界では、人と人が通じ合わぬのはあたりまえであり、そういうことを今さららしく嘆くのは甘っちょろい素人で、人の世とはそういうものと手軽に覚悟をきめることが深刻な認識だというふうに相場がきまっているが、彼女がそういうふうに落着くことができないのは、その原罪感があまりにも深く、その飢えがあまりにも激しいからである。
 
〈荒けずりな山道を萩のうねりがつつみ、うねりの奥まる泉には野ぶどうのつるがたれ、野ぶどうでうすく染った唇と舌をひらいて、ひとりの童女が泉をのぞいていました。泉の中の肩の後は夕陽がひかり、ひかりの線は眉をつつみ、肩の上はやわらかく重く、心の一番奥の奥までさするように降りてくる身ぶるいでした〉
 
 こういう文章に筆者の強烈なナルシシズムを見出すことはやさしい。しかし、ここで筆者がキャンバスに塗ろうとした色は、やはり何にもたとえようのない孤独だといってよい。そして、泉をのぞきこむ童女の孤独は、彼女が存在のある原型にふれておののいていることから生れている。この一瞬は彼女に何かを思い出させる。その何かとは、この世の生成以前の姿といってもよく、そういう一種の非存在、存在以前の存在への幻視は、いうまでもなく自分の存在がどこかで欠損しているという感覚の裏返しなのである。「生れる以前に聞いた人語を思い出そうとつとめます。のどまできているもどかしさ」「ずいぶん、わたしはつんぼかもしれぬ」「きれぎれな人語、伝わらない、つながらない……」。こういう嘆きを書きつける時、彼女の眼には、そこでは一切の分裂がありえない原初的な世界がかすかに見えているのにちがいない。

 人語が伝わらないゆえに、人と人がつながるかすかな回路は、狂気の老女と幼女とが雪明りの中で抱きあうという形でしか存在しえない。しかも、その時幼女は「じぶんの体があんまり小さくて、ばばしゃんぜんぶの気持が、冷たい雪の外がわにはみだすのが申しわけないにというふうに感じるのである。こういう原罪感は、石牟礼氏の文学の秘密の核心を語るものである。『愛情論』の中では、ぼんたという娼婦が彼女の同級生の兄に刺殺される挿話が語られているが、彼女はその兄が「ぼんたを刺した瞬間が切ない」のであり、「ぼんたのそのときの気持を味わいたい」と感じる。いうまでもなくこれは変形されたナルシシズムであるけれども、そのナルシシでその底には、まだ見たことのないこの世へのうずくようなかわきが存在しているのである。

 「苦海浄土」は、そのような彼女の生得の欲求が見出した、ひとつの極限的な世界である。彼女は患者とその家族たちに自分の同族を発見したのである。なぜなら、水俣病患者とその家族たちは、たんに病苦や経済的没落だけではなく、人と人とのつながりを切り落されることの苦痛によって苦しんだ人びとであったからである。彼女はこれらの同族をうたうことによって自己表現のつながりをつかんだのであって、私が「苦海浄土」を彼女の不幸な意識が生んだ一種の私小説だというのもそのためにほかならぬ。事実、彼女は「ゆき女聞き書」において、あてどのない彼女自身の愛の行方を語っているのであり、「天の魚」において語られる江津野老人の流浪する意識は、そのまま彼女のものなのである。

 江津野老人の回想には、からゆきさんに売られていく娘に、自分の母が結局は生かされることはありえない教訓をくどくどと説ききかせるくだりがあるが、この哀切きわまりない挿話のたぐいの出来ごとは、それこそ彼女にとって幼時の日常であった。『ゆき女聞き書』では「うちぼんのうの深かけん」と語られ、「天の魚」では「魂の深か子」といわれる、そのぼんのうや魂の深さこそ彼女の一生の主題であり、患者とその家族たちは、そのような「深さ」を強いられる運命にあるために、彼女の同族なのである。

 「ゆき女聞き書」や「天の魚」で描かれる自然や海上生活があまりにも美しいのは、そのためである。この世の苦悩と分裂の深さは。彼らに幻視者の眼をあたえる。苦海が浄土となる逆説はそこに成立する。おそらく彼女はこのふたつの章において、彼らの眼に映る自然がどのように美しくありえ、彼らがいとなむ海上生活がどのような至福でありうるかということ以外は、一切描くまいとしているのだ。

 このような選択が絶望の上にのみ成り立つことができることをいう必要があるだろうか。ところが松原新一氏は、『苦海浄土』と井上光晴氏の『階級』とをくらべ、『苦海浄土』はユマニス卜的なことばで統一された作品で、「崩壊して行く人問」という視点を欠いているために「階級の暗部」に目がとどいておらず、その点で『階級』に及ばぬところがあると批評している。すなわち松原氏は、石牟礼氏が水俣漁民を美しい人格として描いているのに、井上氏は筑豊下層民の人格的崩壊まで見とどけているといいたいので、これは批評家としておどろくべき皮相な観察といってよい。また松原氏は「苦海浄土」にあっては、あの人間の破壊とは、つづめていえば〈肉体〉への加虐としてとらえられている」と評しているが、どう読めばこういう結論が出て来るのか、私はほとんど怪訝の念に包まれずにはいられない。

 なるほど『苦海浄土』は、『階級』のように対象の精神的荒廃を直接描き出す方法をとってはいない。石牟礼氏自身が知悉している患者同志肉親同志の相剋や部落共同体の醜悪を、じかになまなましく描くことをしていない。しかし、地獄は地獄としてしか表現できないというのは、およそ問題にもならぬ初歩的な文学的無知である。「苦海浄土」は忠者とその家族たちが陥ちこんだ奈落──人間の声が聞きとれず、この世とのつながりが切れてしまった無間地獄を描き出しているのであり、そのことを可能にさせたのは、彼女自身が陥ちこんでいる深い奈落であったのである。

 松原氏は『階級』の視点の深さの例として、たとえば「精神病院の患者を相手に白痴の姉に売春させて金を稼ごうとする男」といったふうな、「被抑圧者同士のエゴイズムの衝突」の描写をあげているが、そういうものはそれだけとしては単なる風俗にすぎない。そういうものを事象として描いているから視点が深く、そういうものを捨象しているから視点が浅いというのでは、およそこの世に文芸批評なるものの存在の理由はなくなる。『苦海浄土』を統一する視点は松原氏がいうような分裂を知らぬ「ユマニスト」のそれではなく、この世界からどうしても意識が反りかえってしまう幻視者の眼であり、そこでは独特な方法でわが国の下層民を見舞う意識の内的崩壊が語られており、『階級』と『苦海浄土』とのどちらがよく彼ら下層民の「階級の晦暗」にとどくかは、松原氏のような粗忽な断案を許すわけにはゆかぬのである。
 
 しかし、「苦海浄上」を、水俣病という肉体的な「加虐」に苦しみながら、なおかつ人間としての尊厳と美しさを失わない被害者の物語であるとするような読みかたは、松原氏だけではなく世間には意外に多いのかも知れぬ。それは、彼ら水俣漁民の魂の美しさと、彼らの所有する自然の美しさ以外何ものも描くまいという作者の決心が、どういう精神の暗所から発しているか、考えてみようとせぬからである。石牟礼氏が患者とその家族たちとともに立っている場所は、この世の生存の構造とどうしても適合することのできなくなった人間、いわば人外の境に追放された人間の領域であり、一度そういう位相に置かれた入間は幻想の小島にむけてあてどない船出を試みるしか、ほかにすることもないといってよい。

 人びとはなぜ、「ゆき女聞き書」や「天の魚」における海上生活の描写が、きわめて幻想的であることに気づかぬのであろう。このような美しさは、けっして現実そのものの美しさではなく、現実から拒まれた人間が必然的に幻想せざるをえぬ美しさにほかならない。「わたくしの生きている世界は極限的にせまい」と彼女は書く。「苦海浄土」一篇を支配しているのは、この世から追放されたものの、破滅と滅亡へ向って落下して行く、めくるめくような墜落の感覚といってよい。

 しかし、そういう世界はもともと詩の対象ではありえても、散文の対象にはなりにくい性質をもっている。石牟礼氏にはうたおうとする根強い傾向があり、それが空転する場合、文章はひとりよがりな観念語でみたされ、散文として成立不可能になってしまう。彼女の世界が散文として定着するためには、対象に対する確実な眼と堅固な文体が必要である。「苦海浄土」が感傷的な詩的散文に堕していないのは、その粂件がみたされているからである。昂揚とした部分では彼女の文章はあるリズムを持ち、しばしば詩に近づくが、なおそこには散文として守るべき抑制がかろうじて保たれている。

 彼女の文章家としての才能が十二分に発揮されているのは、いうまでもなくあの絶妙な語りの部分においてであり、そこでは現実の水俣弁は詩的洗練をへて「道子弁」ともいうべき一種の表現に到達している。さらに見逃されてならぬのは、この人のユーモアの才能である。例をひけぬのが残念だが、彼女の民話風なユーモアの感覚は、どれだけこの作品にふくらみをもたらしているか知れない。「天の魚」と「ゆき女聞き書」は、才能と対象とがまれな一致を見出すことのできた幸福な例であり、石牟礼氏にとっても今後ふたたび到達することがかならずしも容易ではない、高い達成を示す作品だと思う。


 
 
 

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