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成熟した日本語を創造する翻訳家 芹澤恵

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魔術的な日本語で紡いでいく翻訳家、芹澤恵

掛け値なしに日本一の翻訳家だと私が推奨するのはR・D・ウィングフィールド著のフロスト警部シリーズを翻訳した芹澤恵さんある。芹澤さんはO・ヘンリーの短編集も翻訳しているが、そのあとがきにこう書いている。

「ニューヨークを舞台にした定番の作品は、訳者にとっては憧れの作品と言うべきもので、翻訳に取りかかったときには、わたしなりのO・ヘンリーを訳出するのだという意気込み、肩に力が入りすぎて、にっちもさっちもいかなくなった。そんなとき助けとなったのが、同じ作品を翻訳なさった諸先輩方の訳業だった。陽に灼けて茶色く変色したページに綴られていた日本語は何と豊かでふくよかだったことか。自分の未熟さを思い知らされ、無駄な力が抜けていく気がしたものだ。諸先輩方の訳業を味読し、勉強する機会を与えられたことも、訳者には大きな歓びだった」

このくだりを読んでなるほどと合点したものだ。こうして日本の翻訳の技は引き継がれて成熟していく。この翻訳の伝統を受け継いだ芹澤さんの訳業が、ため息がでるほど見事な作品に結実したのがフロスト警部シリーズである。イギリスの作家R・D・ウィングフィールが書いたフロスト警部シリーズの原文は、時代とともに消えていく三流そこそこの小説だが、芹澤さんはこの三流そこそこの小説を、時代とともに消えていかない一級の小説に日本語訳によって昇華させたのだ。

ちょっとその比較の例が奇抜すぎるが、夏目漱石の「吾輩の猫である」を読んでいるような読書の醍醐味を感じるのだ。つまり芹澤さんは「フロスト警部」シリーズの訳業によって、夏目漱石の「吾輩は猫である」に比肩すべき一級の文芸作品を創造したのである。

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彼女の訳業がどれほど感嘆すべきものか一例をあげてあげてみよう。フロスト警部シリーズのどの本をとっても、どのページを開いてもいいが、ここでは「フロスト気質」の冒頭の部分を取り出してみよう。

A lone sky rocket clawed its way up to the night sky, scrabbled feebly as it started to lose height, then burst into a cluster of green puff-ball.
Pc Mike Packer, twenty years old, barely gave it a glance as he turned the corner into Markham street. This was his first night out on the beat on his own and he had other things on his mind. He patted the radio in his top pocket, reassured he could call for help if help if he needed it.
A clatter of footstep. Two teenage girls, heavily made up and dressed as witches, tottered past on high heels trailing a cloud of musky perfume. They whistled and called to him, blowing wet-lipped kisses. On their way to some Hallowe’en party and already drunk. Someone was going to score tonight. Grinning ruefully, Packer wished it was! But no such luck. He was on duty on this cold and windy night, pounding his lousy beat until six in the morning. He drew his head tighter into the snug warmth of his greatcoat and watched until the girls turned the corner. The wind snatched away the last whisper of their perfume and he was on his own again.

ウィングフィールドが草したこの英文が、芹澤さんの魔術的手腕によってどのような日本語になっていくかを、一行一行さらってみよう。

A lone sky rocket clawed its way up to the night sky, scrabbled feebly as it started to lose height, then burst into a cluster of green puff-ball.
単発で打ち上げられた花火が、夜空に這い登り、一瞬だけ高みにしがみつき、力なく高度を失いかけたところで炸裂し、緑の光の綿毛を勢いよく周囲に飛び散らした。

Pc Mike Packer, twenty years old, barely gave it a glance as he turned the corner into Markham street.
その音にマイク・パッカー巡査──年齢二十歳──は、ちらりと夜空に眼を遣ったが、足を止めることなくそのまま通りを曲がってマーカム・ストリートに入った。

This was his first night out on the beat on his own and he had other things on his mind.
パッカー巡査が単独で警邏に出るのは初めてだったし、気を配るべき事柄ならほかにいくらでもあった。

He patted the radio in his top pocket, reassured he could call for help if help if he needed it.
トップコートのポケットのうえから、携帯無線機をそっと押さえた。必要になった場合にいつでも応援を呼べるというのは、心強いことだった。

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A clatter of footstep. Two teenage girls, heavily made up and dressed as witches, tottered past on high heels trailing a cloud of musky perfume.

このくだりの英文を今もっとも進化しているグーグルの翻訳ソフトで日本語に転換させてみると、「足音のガタガタ。 魔女に扮した2人の10代の少女が、麝香の香水の雲を追いながらハイヒールでよろめきました」である。つまりこのくだりの英文はこの程度のことしか書かれていないのだ。しかし芹澤訳はこうなるのだ。

背後から騒々しい足音が近づいてきた。化粧品を総動員したとおぼしき顔に魔女の扮装をした、どう見てもまだ十代の少女がふたり、靴の高い踵に足を取られながらよたよたと通り過ぎていった。麝香に似た香水の濃厚な匂いを棚引きながら。

「背後から騒々しい足音が近づいてきた」なんてことは英文のどこにも書かれていない。「化粧品を総動員したとおぼしき顔に魔女の扮装をした」なんてことも英文のどこにも書かれていない。「どう見てもまだ十代の少女がふたり、靴の高い踵に足を取られながらよたよたと通り過ぎていった」なんてことも、また英文のどこにも書かれていない。日本語を熟知した翻訳家だけができる魔術的な訳業である。

They whistled and called to him, blowing wet-lipped kisses.
追い越しざま、ふたりは口笛を吹いてパッカー巡査の注意を惹くと、湿った唇の音をさせながら派手に投げキスを送って寄越した。

On their way to some Hallowe’en party and already drunk.
ハロウィーンのパーティに向かう途中と思われた。なのに、早くもへべれけの一歩手前までできあがっている。

Someone was going to score tonight.
この分では今夜のうちに、どこかの誰かが男冥利に尽きる饗応にあずかることになりそうだった。

Grinning ruefully, Packer wished it was! But no such luck.
それが自分ではないことを思って、パッカーは憂いに満ちた笑みを浮かべた。世の中はそれほど甘くない。

He was on duty on this cold and windy night, pounding his lousy beat until six in the morning.
身を切るような冷たい風の吹く今夜、マイク・パッカー巡査はなんともくそありがたくないことに、翌朝午前六時まで担当区域を警邏してまわらなくてはならないのである。

He drew his head tighter into the snug warmth of his greatcoat and watched until the girls turned the corner.
首をすくめるようにしてトップコートの心地よいぬくもりに顎を埋めると、彼はふたりの少女が通りの角を曲がるまで見送った。

The wind snatched away the last whisper of their perfume and he was on his own again.
吹きつけてきた風が、少女たちの香水の名残を奪い去ってしまうと、パッカーはまた独りぼっちになった。

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 単発で打ち上げられた花火が、夜空に這い登り、一瞬だけ高みにしがみつき、力なく高度を失いかけたところで炸裂し、緑の光の綿毛を勢いよく周囲に飛び散らした。
 その音にマイク・パッカー巡査──年齢二十歳──は、ちらりと夜空に眼を遣ったが、足を止めることなくそのまま通りを曲がってマーカム・ストリートに入った。パッカー巡査が単独で警邏に出るのは初めてだったし、気を配るべき事柄ならほかにいくらでもあった。トップコートのポケットのうえから、携帯無線機をそっと押さえた。必要になった場合にいつでも応援を呼べるというのは、心強いことだった。
 背後から騒々しい足音が近づいてきた。化粧品を総動員したとおぼしき顔に魔女の扮装をした、どう見てもまた十代の少女がふたり、靴の高い踵に足を取られながらよたよたと通り過ぎていった。麝香に似た香水の濃厚な匂いを棚引きながら。追い越しざま、ふたりは口笛を吹いてパッカー巡査の注意を惹くと、湿った唇の音をさせながら派手に投げキスを送って寄越した。ハロウィーンのパーティに向かう途中と思われた。なのに、早くもへべれけの一歩手前までできあがっている。この分では今夜のうちに、どこかの誰かが男冥利に尽きる饗応にあずかることになりそうだった。それが自分ではないことを思って、パッカーは憂いに満ちた笑みを浮かべた。世の中はそれほど甘くない。身を切るような冷たい風の吹く今夜、マイク・パッカー巡査はなんともくそありがたくないことに、翌朝午前六時まで担当区域を警邏してまわらなくてはならないのである。首をすくめるようにしてトップコートの心地よいぬくもりに顎を埋めると、彼はふたりの少女が通りの角を曲がるまで見送った。吹きつけてきた風が、少女たちの香水の名残を奪い去ってしまうと、パッカーはまた独りぼっちになった。

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