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戦う歴史学 1
須藤啓司は東京大学に通っていた。東大生ともなれば家庭教師の口なんて掃いて捨てるほどある。家庭教師稼業で生計が立ち、十分に快適な学生生活がおくれるのに、どうして新聞配達などしているのか、東大生が新聞配達してるなんて聞いたことがないと半ば嘲笑されたりしたが、そんなときも彼は断固として、これがぼくの生きるスタイルなんだ、毎朝、日が昇る前に起きて一軒一軒に新聞を配って回る、その一歩一歩によって自分が確立されていく。ガキども相手に生計をたてる家庭教師稼業など、自己を滅ぼしていくだけだといった。彼もまた生涯の友人石和彦と同じように中学生のときから新聞配達をはじめているから、新聞配達には筋金入りというところだった。
須藤が新聞配達をはじめたのは中学三年生のときからだった。三年生になるとだれもが受験受験と大騒ぎするが、彼はそんな騒ぎに背を向けて新聞配達をはじめている。なにやらそこにただならぬ事情といったものがあったとだれにも思わせるが、事実そのとき彼は一つの精神的事件に見舞われたのだ。母から捨てられたのだから。
彼は東京生まれだが、保育園に通っているときに父が家を出て、母子家庭になった。なにもかも問題は彼の母にあったことが、須藤には幼いなりにわかっていた。彼女はなるほどちょっとした才能を持っていた。だから作家になりたという野望をもって生きていた。何やら虹をつかむように生きているような人間は、結婚はともかく子供などつくらない方がいいのだ。というよりは子供を産む資格などないのだ。しかし小説など全く読まない車のセールスマンと恋に落ち、妊娠して、それで結婚した。その結婚生活が六年間続いたのは車のセールスマン、つまり彼の父親がよく耐えることのできた包容力をもった人間だったからだと、須藤はそのときもまたいまでもそう振り返るのだ。二人が破局にいたったとき、彼は父親のほうについていきたかったほどだった。父もまたそう望んでいた。
車のセールスマンと別れた二年後に、今度は建築会社の営業マンと恋愛に落ち、またもや妊娠して、結婚するというパターンだった。その年に彼の妹が生まれた。しかしその家庭は三年も続かなかった。営業マンとの生活が破局を迎えると、母は二人の子供を引き連れて高知の実家にもどってきた。地方公務員の職を律儀につとめる祖父の家庭は、なにか崩れたような生活を引きずる母と違って堅実で健全だった。祖父母との平穏な生活がしばらく続いたが、彼が中学三年生になったとき、この母は再び東京に旅立つのだ。二人の子供を捨てて。実家に残してとか、祖父母に預けてとではなく、決然として二人の子供を捨てて。彼女が東京に旅立つ前日、母は彼にそう告げたのだ。
「母は、母の人生を歩いていく。母の才能を東京は必要としている。社会が母の文学を認めるようになってきた。ようやく時代が母の文学に追いついてきたというわけね。母は東京にいかなければならない。今度こそあの東京で、人生をかけて激しく戦わなければならない。この戦いにあなたたちを巻き込みたくない、はっきりいってあなたたちは母の文学には邪魔なの。だからあなたたちをここできっぱりと捨てることにした。だからあなたも、もう母をあてにすることなく、あなたはあなたの人生をつくりなさい」と。
祖父も祖母も二人の孫を愛していた。彼も二人に愛されていることはわかっていた。市役所に勤務する祖父はまだ定年前だったし、祖父母の生活は健全だった。祖父は最後は助役にまで昇進している。いわば地域社会のエリートだった。どこにも中学三年生になった孫が、新聞配達をしなければならないような理由はなかった。しかし彼のなかになにか火山のように吹き上げてくる溶岩が、彼をしきりに駆り立てるのだ。立て、立て、自立せよ、と。クラスに新聞販売店を経営している家庭の子がいた。彼はその子にたのんで新聞配達をはじめるのだ。祖父母は猛烈に反対したが、彼の内部に吹き上げてくる怒りのエネルギーを、そんなことでもしていなければ解消できなかったのだ。毎朝四時に起きて新聞を配って歩く。その一歩一歩が彼の精神を自立させていく。ぼくは捨てられたのでない。ぼくの方からあんたのような馬鹿な親を捨てるのだと。
天は彼にちょっと酷な運命を与えるが、同時に飛びぬけた才能をも与えたということかもしれなかった。新聞配達をしながら通った高校は学力一流高校だったが、彼は三年間ぶっちぎりのトップだった。そしてストレートで東大に合格する。そのとき彼の周辺はちょっとした騒ぎになった。地元の新聞がこの快挙を「新聞配達をしながら東大合格」という大見出しをつけて報じたのだ。東大合格では大見出しなどつかないが、新聞配達をしながら東大合格は特ダネ的ニュースであり、さらに読者の心を打ったのは、東大に入っても新聞配達を続けるというくだりだった。
このくだりに胸打たれた読者から、彼のもとに手紙が殺到したのだ。なんでも百通は越えたらしい。その手紙のなかに現金が挟み込まれていたりして、なかには学費の足しにと二十万円も入れた現金書留が送られてきたりした。もちろん彼は即刻その金は送り返した。あるいは封書の中に若い女性の写真が入っていて、東大卒業後にこの娘と結婚してくれれば、あなたの学費と生活費を全額援助すると書かれてあった。あるいはまた私立高校の理事長と校長がつれだって訪ねてきて、特別奨学資金を出すから、卒業したらわが学校の教師になってもらいたいといった話も持ち込まれた。地方の町村では東大とは別格の存在で、そこに新聞配達しながら通う苦学生といったストーリーが加わると、こういう異様な社会現象になるのだろう。そしてそのときわが子を捨てたはずの馬鹿な女もまた東京から戻ってくるのだ。
しかしこの母親の息子の才能は、なみなみならぬものだった。とにかく彼の読書量は半端ではなかった。あらゆる種類の本を読んだが、なかでも一番興味をひかれたのは歴史だった。小学生のときすでに二十数巻にのぼる「日本の歴史」や「世界の歴史」を二度も三度も読み返している。そしてそのシリーズのなかに登場してくる夥しい古典の本を、学校や町の図書館には置かれていないから、県立図書館から借りだしては手あたり次第に読んでいるのだ。中学生になるともう彼の目標はしっかりと定まった。歴史の本を書く歴史学の教授になるのだと。大きな夢をもつのは母譲りなのだろうが、母とちがっていたのは、この息子はその夢を実現していく知恵と力をもっていたのである。彼が睡眠時間を削り取っての猛勉強で東大を目指したのは、その夢を実現させるためだった。彼は新聞販売店で出会ったばかりの生涯の友となる石和彦にそのことを告げている。
「まず取り組みたいのは、今日の歴史教育を逆転させることだね。小学校でも中学でも高校でも、歴史って必ず古代からはじめていくじゃないか。縄文式土器の時代が終わったら弥生式土器の時代とか、平安時代が終わったら鎌倉時代とかさ。しかし歴史の勉強は現代からはじめていくべきなんだよ。だってぼくたちが家系を調べるとき、まず自分の親からはじめていくだろう。それから両親の父母、その父母の父母と、どんどん過去にさかのぼっていく。それが歴史を学んでいく正しい方法なんだ。それが生きた歴史の学び方なんだ。年号を覚えるだけの歴史、知識だけを詰め込む歴史なんてまったく意味がない。こういう無味乾燥な歴史教育を百八十度の転換させる。それもぼくがすべき仕事の一つだな」
ともに大学一年生だった。二人は年齢が同じだった。石ももちろん漠然としていたが将来の進路図を描いていたが、これほど明確な目標を掲げて学業に立ち向かっている須藤に、ホームシックに陥っているような自分の甘さが鞭打たれたように思えた。
彼は三年生のときに原稿百枚になんなんとする論文を書くのだが、その経緯がいかにも彼らしかった。その講義の期末テストはレポート提出で、そのときの課題が「中世荘園の政治的社会的構造を論述せよ」というものだった。その教授は日本中世史の権威と評される人物だったが、その講義に反感が募るばかりだった。何百年も眠っていた資料解釈の講義だから面白くないのは仕方がない。彼のなかから湧きたってくるのは、この教授の歴史に対する態度だった。そこで須藤は与えられたテーマではなく、そのころ耽読していたニーチェの「生に対する歴史の利害について」から借りてきた三つの概念、記念碑的歴史学、骨董的歴史学、批判的歴史学に、彼が思考した権威的歴史学という概念を組み込んで、この教授の講義に痛烈な批判を展開するレポートを書き上げた。いや、この教授だけではない。すべてとはいわないが、東大の歴史学の教授たちが一様にみせる資料の読み方、つまり歴史解釈に対する彼の疑問が噴き出してきたレポートだった。
「戦う歴史学」は《草の葉ライブラリー》刊の「最後の授業」に所収。