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戦史 久保正彰 6
「戦史」の記述が示す、緊張にみちた二元性もこの点から説明されるべきであろう。「戦史」は二十一年間の出来事を夏冬の順に記した叙述部分と、折々の危機や決断に迫られた各国の政治家たちが述べる演説の部分から主として成りたっている。叙述部分はすでに幾度も言われているように、あくまでも正確な記録たることを第一義としている。文章は簡潔明快で、ここにわれわれはまったく現代的な意味での歴史家の姿を認めることができる。これにたいして、演説部分の文体は極端な対置文形式を駆使し、雄渾かぎりないが、必ずしも平明とはいいがたい。
しかしこめられた内容は人間性を深くほりさげ、社会的動物としての習性をえぐって白日にさらけだす感がある。演説を通じてうかがわれるトゥーキディデースは、歴史家というよりも政治哲学者であり、社会分析に長じた詩人であるかのような印象さえ与える。この文章と態度の二元性はどのように説明されればよいだろうか。これらを全く別個の二つの要素がたまたま共存していると見るか、あるいは、一つの有機的な構想を表わすための必要かくべからざる表裏と見るか、そのいずれかによってわれわれの「戦史」の理解はいちじるしく変ってくる。
トゥーキュディデース以前にすでに幾つかの歴史や伝承記、地誌の類は一般に知られており、ヘーロドトスの「ペルシア戦史」はそれらの中でも代表的な傑作とされている。トゥーキュディデースがこれらを読み知っていたことは「戦史」の文面にも現れている。またかれが、これらの歴史家の非実証的な態度や年代の不正確なこと、また虚飾を装って読者に媚びることを非とし、自分の記述からはそれらの要素を意識的にとりのぞいたことも、さきに引いた「戦史」の方法叙説のくだりで述べられている。このようにかれが先輩史家たちとはわざと違った方法によろうとしたのは、たんに実証性ただそのものに固執し、その奴隷たることに甘んじようとしたためではない。
先にものべたようにかれの歴史の構想が終始、正確さを徹底的に要求したためである。政治的予断に資する原理を発見するためであったにせよ、予断と結果的事実の食違いを科学的に分析するためであったにせよ、全知全能をかたむけた「戦史」の構想は、過去の事実をただ忠実に記録することにあったわけではなく、未知の領域に光明を投ずることを目的としていた。
この態度を端的に表しているのが、かれの年代表記の方法である。この全ギリシアの大争乱をすべての人にわからせるためには、どのような時間の座標を立てればよいか。これは今ではほとんど自明の問題であるが、当時としてはまったく新しい問いであり、解決はけっして簡単ではなかった。アテーナイー国だけを見ても、ある官職や公務によっては月暦と太陽暦をべつべつに使っている現状であったし、各都市ではまた各々個別の暦をもちいていた。歴史記述にはアテーナイの執政官表、アルゴスのへーラ神殿神職表、オリュムピア勝利者表、スパルタの監督官表、など比較的によく知れた地方的な年代表記が用いられたが、一国を中心とする事件の展開を記述するならまだしも、多数国が同時に参加する国際的事件をすべての人にわからせるようにするには、地方暦による時間的統一は不可能ではないにせよ、きわめて煩瑣であった。
たとえば、ぺロポネーソス戦争開幕の事件を時間的に固定するために、トゥーキュディデースは二巻一一章で、「アルゴスではクリューシスの神職在任四十八年目、スパルタではアイネーシアースが監督官であったとき、アテーナイではピュートドーロスが執政官の任期を終る四ヶ月前、ボディダイアの会戦後十一ヶ月目」という表わしかたを用いている。じじつ、絶対年を示すにはこれ以外の方法はなく、煩瑣であるがこのようにして示すことができた。しかし、時日の長さを表わすことはこれではとうてい不可能である。ことに一年以上の時間の経過を衣わそうとすれば、はなはだしい場合には二年ちかくの誤差が生じうるからである。トゥーキュディデースはこのような不便を最初から打開しなくてはならなかった。
かれの歴史の構想からすれば、同じ出来ごとでも三ヶ月、五ヶ月、一年のそのいずれの時間的な長さのうちに計画から実行へ、実行から結果と進展していったか、ということはひじょうに異る政治的な意義をもつ。時間と事件の推移の相関関係は、ヒッポクラテースの「病状診断記」におけると同様、トゥーキュディデースの「戦史」では正確に記述されねばならなかった。かれは一年を夏冬の二期にわけ、戦争開始の年次から季節の順を追って記述をすすめていくことに定めた。この着想が医学方面からの影響によるものか、農事暦をならったものか、独自の思考から生れたものか、実証の限りではないが、メモの第一ページからこの構想のもとに記入されていったことは疑いをいれない。
ただこの一事だけをもってしても、若きトゥーキュディデースの非凡さを充分にはかり知ることができる。これによってかれは、たとえば正確に十年という時間的長さを、十冬と十夏という具合に表記する。またかれは、夏冬をさらに細分して、「春とともに」、「穀物の穂が出るころ」、「夏の終り」、などという表わし方も使っているが、正確に夏と冬のわかれ目がどこにあるか、ということは示していない。もっとも四季の推移は、南部ペロポネーソスとマケドニア、トラーキアなどの北部ギリシアとでは二、三週間のずれを生じる不便もあった。しかし、このために史家が払った犠牲もけっして少くない。数年の期間にわたる一つの連続的事件の記述は、季節によって輪切りにされて他地域の事件と混在するために、記事としての連続性を失う場合が生じているからである。話を面白く読ませるよりも、事実の正確な記述をもとめた史家の態度がくっきりと現れている一断面といわれよう。
これにたいして、「戦史」のべつの一面、つまり記述の各所に述べられている政治演説についてはどう考えるべきであろうか。史中で報告される演説は、すくなくとも出来ごとの記述と同じ意味での、事実性はもっていない。トゥーキュディデースは、人を介して聞き知った演説はむろんのこと、自分がその場で聞いた演説でさえ、正確に一字一句を記憶からよみがえらせることはできなかった、とことわっているからである。かれはさらに詳しく説明してこう言う、「実際に話された政見の全体としての主旨をできるだけ忠実に、筆者の眼でたどりながら、各々の発言者がその場で直面した事態について、必要かつ妥当と判断して述べたにちがいないと思われる論旨をもって各々の政見をつづった」と。
「戦史」のなかではそのような大小の演説が四十余回おこなわれているが、史家自身がその場に在席しえたと思われるのは八、九回であり、じじつはさらに少なかったにちがいない。とすれば、大多数の演説は多かれすくなかれ、トゥーキュディデース自身の作文であり意見である、という極端な意見が唱えられるのも、あるいは当然であろう。このような見方にたって、諸演説の非事実性を指摘することはむつかしくない。
演壇に立つ政治家は、出身地の方言如何にかかわらずアッティカ方言をもちい、アテーナイ以外の地でおこなわれたか否かさえ疑わしい複雑な、対置的な論法をくりひろげる。四三四年の演説も、四一五年の討論も、論旨こそ異れ、スタイルは全く同一であることも演説体の歴史的事実に反すると思われる。これらは形式的な問題であるが、さらに内容に入ると、遠隔の諸地でなされたはずの別々の演説が、それぞれの話者がことこまかく互いの言分を知っているはずもないのに、おのおのの内容が細部にわたる対照を示している場合すらある。ことに第一巻の演説ではそれが甚だしい。もっとも甚だしい例は、はたして実際にそのような演説がなされたかどうかさえ疑わしいものがある。
四巻のゲラにおけるヘルモクラテースのシケリア和合論、五巻のメーロス島の密室におけるアテーナイ代表とメーロス人との陰惨な対話などは、純粋な創作であるとさえ思われている。そして、信憑性の多少いかんにかかわらず、これらの諸演説はいずれもみな、事件の記述が固まってから、必要な時と場所に挿人された、と考えられている。というのは、事件の記述がまだ完結状態にたっしていないと思われる五巻の過半部と八巻には、演説が書きこまれていないからである。
これほどに事実に反することを、なぜトゥーキュディデースは敢てなしたのであろうか。この疑問は、事実についてあくまでも正確を期するかれの態度を知るものにとって、ほとんど不可解であるとさえ思われよう。史家は、ホメーロスの叙事詩やヘーロドトスの歴史に見られる文学的な常套手段を、そのまま無批判に踏襲して、登場人物を生き生きと見せるために名論卓説を吐かせているのであろうか。旧来の歴史記述の形式に甘んじているのであろうか。しかしながら比べてみるまでもなく、ヘーロドトスの歴史人物の残している金言と、「戦史」における政見演説との違いははなはだ大きい。
たんに方言、措辞、スタイル、長短など外面的な違いだけではない。金言がなんらかの普遍的意味をこめているに対して、政見演説はあくまでも、現実との対応から生 ずる相対的な価値しか持ちえない、という明白な事実からも察せられるように、のべられた言葉そのものの機能についての評価が根本的に追っているのである。ヘーロドトスは、クロイソスにせよツローツにせよ、またダーマーレトスにせよクセルクセースにせよ、かれらが事実言ったと信じられる不朽の名句を、文字どおりに伝えようとしている。
つまり、言われたという事実が真実であるかどうかは問わず、「言葉」と「出来ごと」は同じ意味での真実性をもっていることが想定されている。じじつまた、名句は史上人物のものであっても、それが言われた状況は事実無根の場合すらありえた。これにたいしてトゥーキュディデースは、行動的事実と、政見演説とをはっきりと対置させ、おのおのに違った次元における真実性をあたえようとしているのである。ここにかれが、厳密な実証史家として現代史家に比べても遜色ない地位を占めながら、後者とはまったく異なる記述方法をえらんだ史家であることがわかる。