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歴史小説論争            成吉思汗の秘密 大岡昇平

 新年号(『群像』一九六一年)の私の「『荅き狼』は歴史小説か]に対し、井上靖氏が二月号に『自作「蒼き狼」について』を書いたため、「論争」として文壇的事件となった。諸家が意見を発表し、結果が期待されているらしいので、井上氏が「作品に対し責任を持たねばならぬ作者として、自分の作品を護る」ために提出した諸点について、私の意見を言う番である。
 私が『蒼き狼』を非難したのは大体二つの点についてであった。
一、成吉思汗が出生の秘密を持ち、モンゴル伝承の「蒼き狼」から霊感を受け、狼を理想として、あの大征服を行った痕跡は全くないこと。従ってこれが歴史小説と言えるかどうか疑問だということ。
二、歴史小説と称しながら、諸人物の描き方、戦闘の描写その他、アメリカのスペクタクル映画なみのいい加減なもので、大衆の口に合うように料理されたものにすぎないこと。

 このうち井上氏が問題にしたのは、一の方だけであって、「二」については自分の作品は未熟なものである、という謙遜なポーズで逃げている。作者は作品を提供するだけであり、評価は見る人の自由であるという立場である。
 しかし私の『蒼き狼』が歴史小説かどうかという問題は、当然「二」の評価と切り離せないので、井上氏の反論に答えながら、私はやはりそこに立ち戻らざるを得ないであろう。
 なお井上氏は、自作を護るに急であって、失礼にあたる言辞があったことを「深くお詫びする」とその文章を結んでおられるが、この過度の礼儀正しさは私には少し迷惑である。
 失礼といえば、氏の力作にケチをつけた私は、十倍も百倍も失礼をしているので、お詫びを言われる筋はない。私の批評が間違っているなら、氏は当然それを論破して自作を護る権利がある。また氏の防禦が間違っているなら、私はそれを論破して、私の批評を守らねばならぬ。お詫びはいずれ会ででもお会いした時申し上げることにして、以下私は礼儀は抜きにして、議論を進めるつ心りである。

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 氏の反論はほぼ次の四つに要約される。
 A、歴史小説は歴史そのものを書くのではないから、歴史を離れていいのではないか。歴史小説がどういうものであるべきかは。誰によってもきめられたものではなく、作者がそれぞれ勝手に考えているだけである。
 B.大岡は『元朝秘史』を歴史と思い違いしている。史書というよりは「叙事詩」であり、「文学書」だから、その中にどんな「狼」の記述があろうとも、無視するのは作者の自由である。
 C.私はいかなる理由でも歴史を改変していない。
 D.大岡は成吉思汗はレアリストだというが、熱情家の一面もあるのではないか。
 論旨を進める便宜上、「B」からお答えする。
 『元朝秘史』の記述が史実だとは、私はどこにも書いていない。「原文」と書いただけで、それが「古事記と同じ目的で成立した王家の歴史」と論文の初めの方に断ってある。『古事記』が語部によって語り継がれた伝承を書きとめたものであることは、今日中学生でも知ってることである。従ってここに私の「思い違い」を空想するのは、氏が私の言うことを理解していないか、私を誹謗することによって、自作を護ろうとしているか、どっちかである。

 私は『元朝秘史』中二カ所の狼の記述が、井上氏の描く如き猛獣を示していないから、「狼は敵を持たねばならぬ。敵を持たぬ狼は狼でなくなる」の如き思想を、成吉思汗に持たせるのは、無理ではないかと言ったまでである。
 そして井上氏が私の指摘する二カ所のうち一カ所を原文のまま作中に取り入れながら、「狼」を「山犬」と書き替えたのは。はっきり言えば、インチキではないか、と言ったまでである。
 これに対する氏の弁明は次の通りである。
「なるほど原文は”赤那”であるが、それを那珂博士は”狼″と訳している。私の作品では″山犬″となっている。私自身、恐らく狼と書くより、”山犬”と書いた方が、混乱を防ぎ得るという考えから”山犬”と書いたに違いない」
 いくら忙しいとは言え、一年前に自分でしたことを「恐らく」「相違ない」という租度しか憶えていないのは奇妙であるが、「混乱」とはいったいなんの混乱か。語るに落ちるとはこのことで、やはり私の指摘したように、ここにある「頭口を害ふ狼」が、「蒼き狼」の幻想と、一致しないからではないか。

それほど自作について漠然たる記憶しかない氏が、「狼」の蒙古語が「赤那」であることを億えておられるのは不思議だが、許し難いのは那珂博士がそれを「狼」と訳したのが、一つの訳し方であり、「山犬」と訳すのも別の訳し方だという口吻があることである。
 これは『元朝秘史』を「座右に置いた人」の言葉とは思えないごまかしである。周知のように『元朝秘史』は明初の漢字音訳でしか伝わらない蒙古文の文献だが、漢字音訳を主文とし、明初の口語文で漠字の傍訓をほどこしてある。

「蒼き狼」は即ち「孛児帖赤那」であり、傍訓は「蒼色狼」である。「頭囗を害う山犬」と訳したいのなら、「蒼き狼」は「蒼き山犬」としてもなんら差支えないので、ついでに「蒼き狼」全文中の「狼」を「山犬」に変えてしまっても、「混乱を避けられる」であろう。
 しかも「山犬」は「野性化した犬」或いは日本の或る地方の日本狼の呼称で、蒙古狼たる「赤那」とは別物なのだから、この辺井上氏が原文に加えた改竄は弁護の余地なきものである。『元朝秘史』の叙事詩調をそのまま「私の表現として借り」ながら、都合の悪いところだけ、いい加減な字に替えたということなのである。

 もう一カ所はナイマンとの合戦の場面である。「多き羊を狼の迫ひて圏に到るまで追ひて来るが如きは」云々。
「それを狼がさっそうとしていないから採用していないとする。これも私には理解に苦しむ指摘である。『元朝秘史』に書かれていることを採用していないといえば、六百頁に余る書物の中で、その大部分を採用していないのである。もともと私にとって『蒼き狼』という全く別種の象徴された狼だけが作品の主題に関係あるものとして必要なのであって、蒼くない狼について『元朝秘史』にどのような記述があろうとも、たいして関心のないことである」
 蒼き狼が「別種の象徴された狼である」とは、なんの意味か。それは改めて検討するとして、私の言うことを「理解に苦しむ」なら、井上氏がナイマンとの合戦の場面の原文を、もう一度度思い出してくれればいいのである。
「ああ、四頤の狼が行く」これが原文では「狗」なのだが、「象徴された蒼き狼」に関係ありとして、氏は「狗」を「狼」と書き替えた。
「鑿の嘴、錐の舌、環刀の鞭、露をのみて、(井上「露をはらい、草を薙ぎ」)風に乗りて行く」これらすべて蒙古人が、彼等の忠実な飼育動物「犬」につけた形容を、氏はそのまま「狼」にくっつけた。

 ところが前記の「羊を追って来る狼」は、その二行前にある。
 作者が種本をひろげる時は、それからなにかを借りようとする時である。氏はナイマンとの合戦の場面にふさわしい狼描写がほしかった。その欲望は「狗」を「狼」に替え、さらに「馬」も「狼」にして、「朝、解き放たれた狼」なんてナンセンスに陥るほど強かったにも拘らず、二行前の「狼」を無視したのは。なんといっても変なのである。そして「狼」を「山犬」と書き替えた行為と睨み合わせると、極めて疑わしい状況になるわけである。
 井上氏が蒼くない狼には関心がないにしても、とにかくこれは狼である。狗よりは「蒼き狼」に近く、まして「馬」よりはずっと「蒼き狼」に近い。なぜそれを無視するか。
『元朝秘史』は歴史でないにしても、その中に真実がないとは言えない。成吉思汗が死後昇天したのは偽りにしても、狼についての記述は真実である。それは『古事記』の神武東征が史実でないにしても、八咫鳥が先導したという記事は、古代日本人が鳥をどういう鳥と考えていたかを示す、民俗学上の真実であるのと同断である。『古事記』中の歌に出る「猪」「千鳥」「蟹」の如き動物についての記述は、古代人の認識と感情を示しているわけだ。

『元朝秘史』冒頭の「蒼き狼」は上天の蒼に染みた神話的狼だろうが、前記二カ所の狼は、共に遊牧人種の財産たる家畜の敵として、表象された狼である。「風雪に靠り頭口を害ふ」とは、冬、野が雪に蔽われて、食物がなくなると、牛馬を襲う狼であり、中世のフランスの詩人ヴィヨンの「冬は風よりくらふものなき狼」とも一致している。
 これは中世の蒙古人の生活に密着した狼の映像であり、いくら井上氏の空想する成吉思汗が「狼は敵を持たねばならぬ」とけしかけても、蒙古人は狼の真似をするよりは、彼等の味方たる「狗」や「馬」になりたかったにちがいない。だから四人の将は「狗」にたとえられ、或いは「駿馬」と呼ばれたのである。

 この辺の井上氏の原文のゆがめた引用自体に問題があろう。「ああ、四頭の狗が行く」「風に乗りて行く」これら原文の構文はそのままにして、「狗」だけ「狼」に変えるのでは、これは引用ではなく、失礼ながら、「剽窃」ではなかろうか。機械的にかっぱらっているから、「朝早く放たれた狼」(前述のように原文は「馬」)ととんちんかんな文章が出来上るのである。
 私はこういう「切り張り細工」または剽窃を「小説家がしばしば行うもの」として許容したが、「蒙古人の心をありのまま伝えたものではない」と言ったまでである。
『元朝秘史』冒頭の「蒼き狼」によって氏が霊感を受けるのは自由だが、読み進んで「頭口を害ふ狼」の記述にぷつかれば、一応考えなおしてもいいではないか、というのが私の意見である。ところが氏は「象徴された狼」のほかは関心はないと言う。史料に対するこういう態度は、当然「A」の歴史と小説の問題にからんで来る。

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 井上氏は昨年六月『蒼き狼』の連載を終った直後、『文藝春秋』別冊七十二号に「『蒼き狼』の周囲」という文章を書いていた。私は「『蒼き狼』は歴史小説か」を書いた時、その文章の存在を知らなかった。批評する以上まず作者の言い分を聞くべきは論を俟たないので、これは私の重大な手落ちであって、読者にも井上氏にも申訳ないことであった。
 まったくその論文を見ていれば、批評家のいう「叙事詩性」などにこだわる必要もなく、元朝興亡史にしたらどうだろう、などと的はずれの勧告を行わずにすんだのであった。

 井上氏の文章によれば、氏が「蒼き狼」の構想を得だのは、昭和二十五、六年頃、那珂通世訳註『成吉思汗実録』を二度目に手に入れた時のことで、「蒙古民族生々発展の叙事詩風の記述と、その高い調子にすっかり魅了されてしまった」。
那珂博士の本に対する感歎では、私はまったく同感で、この本の存在を教えてくれたことだけでも、『蒼き狼』に感謝している。そして私が井上氏の小説に対して苛酷なのは、那珂博士の訳業とそこに示された中世蒙古人のこころを、氏が勝手に作りかえてしまっていることに対する憤懣も手伝っていることも、ついでに言っておく。

「蒼き狼」という題が出来ていたのは、その時からだそうだが、その後文献を集めているうちに、主題を、蒙古民族興隆の跡よりも「成省思汗の一生にしぼってしまったのは、蒙古民族の興隆が全く成吉思汗という一人の英雄にその総てを負うているということが判ったからである。成吉思汗が出現しなかったら、亜細亜の歴史は全く違ったものになっていたはずである」。
 こういう子供らしい夢の膨脹にも別に文句を言うつもりはない。私の常識ではあの時期に草原の遊牧民族のエネルギーが溢れ出る条件が揃ったというところなのだが、たしかに成吉思汗の軍事的天才がなければ、大帝国はああ早くは実現しなかったであろう。私に重要なのは次の句から始まる。

「併し、私が一番書きたいと思ったことは、成吉思汗のあの底知れぬ程大きい征服欲が、一体どこから来たかという秘密である。(中略)それ(ロシャまで派兵したこと)も全く彼一人の意志から出ていることである。一人の人間が性格として持って生れて来た支配欲といったようなものでは片づきそうもない問題である。こうしたことは勿論。私にも判らない。判らないから、その判らないところを書いて行くことで埋められるかも知れないと思ったのである」

 これは一人の作家の意図を書いたものとして、かなり素朴なものである。「判らないから、判るところまで書く」とは、志賀直哉風の私小説の伝統が、井上氏のような作家にもいかに根強く残っているかを示していて興味深いが、私の問題になるのは、井上氏が秘密を探りたいと思ったと言っていることである。
「秘密」とは無論事実に関する概念である。そして征服慾は個性的原理で、秘密は心理的なものである。もし氏の『蒼き狼』執筆直後の告白が真実のものならば、ほんとはどうしてそれを、「出生の秘密を超越するために狼たらん」というところに見出したかが、語られるはずである。しかしそれには全く触れられていないのである。
 無論小説家として、著書の内容をあらかじめ知らせる必要はない。「秘密」とか「探求」とかは、日本の読者や批評家のよろこびそうな言葉であるから、その辺の計算もされていたにちがいない。

 これらの文章は本誌二月号の氏の反論に引用されている。そして氏は続けてこう書く。
「私は成吉思汗を史上に現れた他の幾多の侵略者たちと区別しているものは、彼が持ったどこまで行っても已むことない征服欲ではないかと思う。氏族連合体を専制君主制による軍事国家に編成替えしたことに成吉思汗の大業が負うているとするのは、どの歴史教科書にも記されていることであり、それはまさにその通りであるが、それだけの常識では成吉思汗を小説化することもできないし。私自身創作の筆を執る気にはならなかったと思う」
 私のまずい要約が「どの歴史教科書にも記されている」と保証されたことは光栄の至りであるが、それだけで小説化することは出来ないとは不思議な言葉である。部族長がどう社会の組織を替えたかということは。それ自身立派な主題と思われるのだが。それでは小説にならないとは、氏の考える「小説」の概念に合わないと言うにすぎない。そして無論氏が「小説」をどう考えているかは明らかにされない。

「氏は『蒼き狼の原理の発明』と、私には余り有難くない言い方をしておられるが。その言い方を借用すれば、蒼き狼の原理を発明したことで、私は初めて成吉思汗を書きたいと思ったし、書くことができるという気持を持ったのである」
 これは一見理窟が通っている如くであるが、蒼き狼の原理が成吉思汗の征服の秘密とどう関連すると思ったかが明らかにされない限り、実質のない空疎な言明である。
「こうした主題を設定するそのことに於て、作品が歴史小説たるの資務を失ってしまうという意味のことが、氏の論評からは受け取れるのであるが、そうなると歴史そのものでなく、歴史上の人物や事件を取り扱う歴史小説の成立する地盤はどこにあるということになるのであろうか」

 私の言っているのは、一つの主題を立てて歴史小説を書くのがどうのこうのではなく、「蒼き狼の原理」が成吉思汗と一致しないということである。この点を離れていくら歴史小説諭をぶとうと、それは古来幾多の歴史小説諭がある、その数だけぶてるのであって、成吉思汗が蒼き狼かどうかということとは、なんの関係もないことである。
 こういう空疎な考え方は、少しあとの方だが、氏が鴎外の『歴史其盡と歴史離れ』を引用している個所にも現われている。
「『楼蘭』は歴史そのままの作品であり、『敦煌』はある意味で歴史離れの作品である。『蒼き狼』はそれらの中間にある作品である」
 しかし鴎外が『歴史其憮と歴史離れ』を書いたのは大正四年の『山椒大夫』についてであり、これは周知のように、伝説を小説にしたもので、鴎外はそれを歴史小説と呼ぼうとはしていない。鴎外の文章は歴史を離れようとしても離れられない苦衷に満ちていて、そのまま後に彼が史伝に深入りして行ったのも、周知の通りである。
  
『楼闌』が歴史そのままだなんて、まったくお笑い草だが、いわぱ「歴史的感覚」が欠けているから、『敦煌』が「歴史離れのした歴史小説」だなんて、ナンセンスが平気で言えるわけである。歴史がジュースみたいに、量的に加減出来るものとして考えられているのは、異とするに足りる。
「少し気負い立った言い方を許して戴くとすると、私はどの歴史書の説明でも説き得ない成吉思汗という人間の持っているある面を、それを小説化することに於て解決したかったのである。小説家の歴史に対する対し方は、歴史学者の解釈だけでは説明出来ないところへはいって行き、表面に見えない歴史の一番奥庭の流れのようなものに触れることではないか」
 
 まったく「気負い立った言い方」で、「歴史学者」に笑われなければ倖せである。氏の知っている歴史学者がどんな学者か知らないが、今日の歴史家は氏の考えるような「解釈」に終始してはいない。歴史の奥底の流れを捉えようというのが、ランケ以来歴史家の絶えざる研究の目標であり。珍妙な「解釈」を自慢して、実はお話を売っているのが、歴史小説家なのである。
 恐らく氏の脳裡にあるのは『戦争と平和』で、当時の歴史学者を追い越したトルストイだろうと思うが、それは決して氏のしたような貧弱な原理から、歴史を演繹したものではない。 彼の出発は史料をあさった結果、一八一二年のナポレオンのロシヤ侵入が、教科書にあるように、ロシヤ軍の予定の退却と冬将軍による勝利ではないという結諭に達したことにあった。

 アレクサンドルは始終戦いたがっていたし、総司令官クトソフもボロジノで立ち止る予定ではなかった。彼はボロジノで戦って、兵力の四分の一を失うことが、モスクワの失墜を意味するのをよく知っていた。ナポレオンもここで兵力を消耗するのは、決定的勝利の希望を棄てることを十分承知していた。しかも両軍はまったく適当でない戦場で相対し、やみくもに大砲を撃ち合ったのである。
 戦闘は司令官の作戦通り行われなかった。命令は行き届かず、届いた時は目標の中隊が全滅しているようなことが始終あった。こうして戦闘は事実上相打ちで、ナポレオン軍には退くところがなかったが。ロシヤ軍にはモスクワがあったので、ずるずるとそっちへ移動したにすぎない。モスクワの炎上もクトソフの計画ではなく。フランス軍の退却は、冬将軍の到着前に終っていた。コザックに追撃命令は全然出ていなかりた。

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 私はこの要約を本多秋五の見事な「『戦争と平和』諭」(『トルストイ諭』一九六〇年)に従って書いているのだが。トルストイは歴史が個人の想像を超えることを始終嘆いている。そして結局「戦争」が中隊長の偶然の判断によって決まるという「人間的結論」に満足するのだが、トルストイがここで押し出しているのは、人間の原理であり、会戦において一兵卒が果す役割の重要性である。
 鴎外の『戦争と平和』評は次の通りである。
「Kutusow将軍が、深入をした拿破侖一世に対して取って居る大方鉞といふものは、有名なClasewitzの戦争論に書いてある純抵抗といふものの活きた註脚だ。(中略)小説家に本当の兵家が有るといふことは誰も認めぬか知らん」
 トルストイはクラウゼタイツを知らなかったが、苦心の結果が同じ結論に達したのが、小説家の光栄であり書き甲斐というものであろう。

『戦争と平和』と比ぺられては、かなう者はないだろうが、井上氏の「気負い立った言い方」に対して、たとえ話として引いたまでである。
 トルストイは『戦争と平和』が歴史である、と言っているのである。小説家が歴史的人物の「秘密」というようなことを口にする揚合は、その成果が真実である、これこそ歴史であると言えなくてはならない。私の批評にあえば、たちまち「主題が融け込んでいなかったんだろう」と逃げ腰になるような根性で、成吉思汗のような征服者に近づくべきではないのだ。
「大岡氏は史実だけを取り扱った史実小説しか歴史小説として認めていないものの如くであるが」とか「私は氏の歴史小説というものに対する考え方を、ひどく窮屈なものに感ずる」とか「鴎外のいう”歴史そのまま″より、もっときびしい規定を歴史小説に与えている」などと、いや味めいたことを言っているが、これは無論氏の安直な歴史小説観から、そんな風に見えるだけである。私は氏の『楼蘭』をほめたが、「遺跡だけで史実はなく」とはっきり書いている。『洪水』のファンタスチックな物語が現実的だから.氏の傑作と認めているのである.

 井上氏はこれらの作品の執筆の時期が違うのに、私が同列に見るのが不服で、そこまで引き返せと言ったのが気に入らないらしいが.私は氏の作品の解説者ではないから、それらが時間的且論理的順序で生産されたなんて思ってはいない。『楼蘭』と『洪水』は共にヘディン『彷徨う湖』から生れたものであり、前者がヘディンのミイラの王女発見の引用文がなくては、つまり小国の埋没と一千年後における発見という歴史的ムードがなければ成り立たぬのは、作者自身承知しているはずである。ただ私は氏の想像力が、『蒼き狼』のように歴史に反してではなく、乏しい史実に添って動いているらしいのを認めただけである。
 
 『洪水』はヘディンの実証した砂漠の河の流路の変更に、漢の一武将を立ち会わせたものであろう。河に矢を射込んだ人間が史実にあるかどうか、私は問題にしていない、「あくことを知らぬ征服慾」は、自然と戦って、最後まで洪水に立ち向う将軍のうちに、歴史小説『蒼き狼』よりは体現されていると私は考える。
 事実と想像は両立しない。歴史小説において両立しないだけではなく、現代小説でも両立しないのだ。むかしウォルター・ローリイは、ロンドンの街角の喧嘩について、目撃者の意見があまり喰い違っているのを見て、世界史の筆を投じたと伝えられている。これはまあ史料がいかにあてにならないかを示すたとえ話にすぎないが、なにも路上の出来事に限らない。恋愛においても性交においても友情においても、これこそまぎれもない事実だ、なんてものは、どこにもありやしないのである。あるのは事実の残骸たる証拠と物語だけである。

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 歴史とは過ぎ去った事件に対する愛情だと、小林秀雄が一時代前に言ったのは正しいのである。そして多分未来への信頼と言い添えなければならないだろうが、歴史家も小説家もほんとのことを言い、またほんとのことしか言わない気があれば、真実はおのずから姿をあらわすはずである。
 小説家でなくても話のうまい人はいるし、よい歴史の本が物語のように、やさしく面白いのは、高柳光寿氏『山崎の戦』に例がある。やさしいのは使っている史料の調和が取れているからだし、面白いのは歴史に対する愛情があるからである。
 これが史観というもので、むずかしいことを要求してるわけではない。人間と歴史的必然性は矛盾しているが、多分相補的といっておけば、一応調和は保たれるだろう。しかし「人間的なものは、歴史における恥部だ」(ブルクハルト)と言わなければならないほど。矛盾に引き裂かれた人間でないと、支配者における真実の姿は見せないはずである。

「心理を強く抑制して書くか、いっさい心理描写を排する以外、私の経験では、人物を歴史的時間と空間の中へ定着させることは難しいように思われる」
 そんな馬鹿なことはないので、トルストイのようにクトソフの純抵抗がはっきり見えていれば、心理はいくらでもくどく書ける。私自身貧しい心理家なので、口幅ったいことは言えないが、これは現代小説でも同じことである。
「併しそうした作品を書いていると、心の内部から突き上げて来るような烈しさで。作品の中へ自分が入って行きたくなって来る。『歴史離れ』がしたくなりで来るわけである。それでいて歴史離れすると。自分で書いている人物にあいそをつかす結果になることは火を見るより明かなことである」

 誇張されてはいるが、作家の真実の告白として、これを信じようと思う。しかし氏はやはり間違っている。歴史其儘とか、歴史離れとか、鴎外の愚痴を自分の都合のいい解釈するから、こういうことになるので、鴎外は歴史其儘を書いたこともなければ、歴史離れをしたこともないのである。歴史小説は歴史から離れなくては書けたい。しかし、逆説めいて恐縮だが、人は歴史に忠実であることによって、はじめて歴史から離れられるのである。
 さて「C」の問題が最早論ずるに足りないのは、これまで私の書いたことを理解してくれた人には、明らかなはずである。「私は『蒼き狼』の中で、いかなる動機のためにも歴史は改変していない」という井上氏の宜言は、批評家によって、過度に重視されているが、井上氏の文章をよく読めば、これが実質のない空威張りであることは、明瞭である。

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 氏は成吉思汗の成年までは史実として『宋史』の中の数行しかないと言っている。(氏が『宋史』の性質を考えずに、漢文の官撰の歴史だからありがたがるのに問題はある)『元朝秘史』『アルタン・トプチ』も史実として認めていないのだ。史実を認めないところに、歴史を改変するもしないもない。所詮屁は風ということである。
 ところが私は那珂博士と共に『元朝秘史』のある部分を史実と認めるのである。これは井上氏によれば一二四〇年の撰だから、成吉思汗没後わずか十三年ということになる。明末消初の『アルタン・トブチ』や『蒙古源流』とは史料として格が違う。

 井上氏がこれらを一括して、「叙事詩」とか「文学書」と言うのは、史料として価値を落して、氏自身の発明を擁護するためだが、(氏自身の小説の歴史の奥に入る作用を自慢しながら、これら「文学書」に同じ作用を認めない無邪気さは別として)少しあとでは蒙古学者が「その中から歴史的事実の欠片(ルビまで振って苦しいことである)と造り話をより分けている」ことを。不用意にも認めている。

 すると井上氏が改変しなかったのは、氏の軽蔑する歴史学者が歴史的事実の欠片と認めたところだけなのか。それは一体どことどこなのか。意味のない議論になるほかはないではないか。
 蒙古学者がどんな仕事をしているかは、小林高四郎氏の『ジンギスカン』が岩波新書で出ているから、興味のある方に一読をすすめる。

 氏が『元朝秘史』からの引用は「二力所」だけであると言っているのは、真赤な嘘で、まとまって引いたのは二カ所としても、その他いたるところ、『蒼き狼』の中できらっとしているのは、みんな那珂博士の訳文そのままなのである。「眼に火あり、面に光あり」「影より外に伴なく、尾より外に鞭なし」。なおまさかと思っていままで気がつかなかったが、氏は「頭口を害ふ狼」を滑稽にも「頭を害う山犬」と記していた。頭口は明初の俗語で、牲口即ち家畜で「頭」とはなんの関係もない。

 こうかん違いしていては間違って来るのは当然で、文句をつけた私が野暮ということになるが、ここにおいて、氏がここだけ山犬と書き替えた「象微的」な意味がはっきりして来る。ここで頭でなく「頭口」とするのは。現代の読者には意味不明になる。「家畜」と書き替えねばならぬ。すると文章は「家畜を害う狼」となって、成吉思汗が攻撃精神の旗印とした狼が、蒙古人にとって大事に財産たる「家畜を害う狼」として、本文に明らかに、なってしまう。そこで「頭口」を「頭」に、「狼」を日本的な「山犬」と書き替えて、意味不明の「象徴的」な文章にしたのだ。この辺の氏の狡猾な詐術は弁護の余地なきものである。

 その他成吉思汗の一二〇六年の大汗即位までの段取りは、すべて『元朝秘史』のままである。ただ「十三翼の戦」が「狼は政撃にしか向いていなかった」ため、成吉思汗の敗戦となり、即位式で「狼になれ」と演説をぶつところがちがうだけである。
『元朝秘史』の即位式の記述は、多分井上氏も史実と認めてくれるだろうと思う。幕舎の組織、親衛軍の編成その他、『元朝秘史』はくどいくらい細かく書いているが、井上氏はそれを小説に必要な程度に引用した。それは歴史其儘である。「狼演説」は記録にはない。しかししなかったという記録もないではないか。よししなかったという記録があったとしても『元朝秘史』は歴史ではないから、従う必要はない。「狼演説」は私が小説の主題の必要上附け加えただけである。従って私は歴史を改変してはいない。ああ、幸福なる小説家よ。

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「史実にないといえば、忽蘭のことも、その子ガウランのことも、チンベ、チラウンのことも、なべて『蒼き狼』の登場人物の行動は史実にはその痕跡すらないのである。たまたま『元朝秘史』にその名を出しているので、その記述を拠りどころとして、その性格も、年齢も勝手に決めて、自由に作品の中に生かしているのである」
 この文章は昭和三十年代の歴史小説家が、どんなに非歴史的な粗雑心頭の持主だったかの記録として、後世に残るであろう。
 それらの人物は「たまたま」『元朝秘史』に名を出しているわけでは決してないが、名を出していることは「痕跡」があることである。「拠りどころとする」記述があるなら、それは名を出しているだけではない。
 
 成吉思汗が、井上氏によれば、奇想天外にも名を秘して庶民の間に捨てた王子ガウランは、『元朝秘史』に名を出してはいない。ドーソン『蒙古史』に果魯干Goulgan (グーラン)として「歴史に名を出すのみ」と記されているだけである。そして不思議にも、成吉思汗が死ぬと、のこのこどこからか出て来たと見えて、兵四千人の遺産を相続している。さらに那珂博士の考証によれば。抜都の西征に従軍して、ロシヤで戦死している。
 ただし私がこの種の取るに足らない副人物については、或いは続篇の主人公となる可能性ありとして、その史実に反することを迫及していないことを、思い出して貰いたい。
 忽蘭については、成吉思汗の寵愛があったらしいのは、後代の詩歌類に「痕跡」がある。妃として皇后ボルテに次ぐ地位にあった。彼女をヒフフヤ山中で死なせてしまったのは、井上氏の発明だが、これは無諭歴史を改変してはいない。彼女がいつどこで死んだかについては、史料がないからである。

 ところが彼女を殺した結果は、奇妙な歴史の改変を井上氏に強いる。成吉思汗の数ある后妃の中で『元史』に皇后と呼ばれているのが四人いて、帝国の各地に幕舎を持っていたことには史料がある。即ちボルテ、忽蘭、イェスイ、イェスゲイである。ブルガン嶽の麓に帰った成吉思汗の遺骸が、四つの幕舎に持ち廻られる記述が『蒼き狼』にある。

 ところが井上氏は忽蘭を殺しちまってるから、一つの幕舎は主なしになった。しかし彼のオルドが四つであったことはあまりにも明らかだったので、井上氏は異民族である金の公主を皇后に昇格させちまったのである。
 これは明らかな歴史の改変だが、私はこんな下らぬことを取りたててさわぐ気はない。ただ史料に従わずに、歴史小説を書くのが、いかにむずかしいかの一例として、あげたまでである。

 忽蘭が『元朝秘史』に出て来るのは二カ所だが、その一は無論お目見得の場面である。ここの『元朝秘史』の「記述」はかなり興味深いし、読者も井上氏と私を魅了した那珂博士の『成吉思汗実録』の原文を知りたいかもしれないから、少し引用してみよう。
 メルキト族二度目の討伐の時、ダイルウスンの娘忽蘭か献上された。彼女を受け取った成吉思汗の廷臣ナヤアは、乱軍の中で兵士に犯されるのをおそれ、三日手許においておいてから、成吉思汗の幕舎に連れて行った。成古思汗はナヤアがお為ごかしに忽蘭を犯したと思いこみ、罰しようとした時、忽蘭は言った。
  
「『この納牙阿に遇ひたるは、我等へ幸となれり。今納牙阿を問ひ給ふに、合罕恩寵せば、上帝の命にて父母の生みたる皮膚を問ひ給はぱ』と奏さしめけり。納牙阿は、問はるゝ時『合罕より外に我が面は「向ふこと」無くあるぞ。外国の民の腮美しき女子妃、臀節好きせん馬に遇えば、「大君のものそれも」と云ひて居りしぞ、我。これより外に我が心あらば死なん、我』と云ひき。成吉思合罕は、忽蘭合敦の言上を善しとして、その日に便ち審べ試みれば、忽闌合敦の奏したるに違はずして、成吉思合罕は、忽間合敦を恩賞して、愛しみたり」

『成吉思汗実録』は蒙古史学の先達那珂通世博士が明治四十一年に訳註出版したものである。ごらんの通り、ことさらに蒙古語の主格。目的格の位置をそのまま写してあって、『元朝秘史』の内容もさることながら。博士の訳文はその古拙な味をよく生かして、けだし一個の立派な文学作品である。   なお余談だが外国語のシンタクスをそのまま写した翻訳は、ほかに大正二年岩野泡鳴『表象派の文学運動』(新潮社)がある。これもまたなかなか影響の大きかった本だが、その翻訳法を泡鳴は自分の発明のように威張っている。どうも彼にしては出来すぎたと思っていたら、那珂博士の真似だったのである。

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 閑話休題。引用文の内容は、現代の読者にも意味は明瞭だと思う。納牙阿の弁明は即位式で貴族達のした宣誓の繰り返しで、これはそのまま井上氏の表現として『蒼き狼』に取られている。
 この一段の眼目は忽闌が成吉思汗の疑いに対して、自分の身体を調べてくれと言い、成吉思汗がその場で調べたら処女だったということである。これは或いは献上が三日おくれた納牙阿が罰されずにすんだことを説明するため、また忽蘭の名誉のための後世の発明かも知れないが、メルキト族の一員がその娘を献上し、娘も別に不服なく成吉思汗の幕舎に行ったということだけは。かなり「史実」に近いとして。いいのではないかと思う。

 ところがこの挿話が井上氏の手によって「自由に作品の中に生かされる」と、驚くべき変貌を遂げる。まず忽蘭は父に成吉思汗の陣屋へ行けと言われると、現代娘みたいに憤然として、家を飛び出してしまう。強姦ずきのモンゴルの兵士の間で、『十日』間奇蹟的に「生命を賭けて身体の清浄を守った後」やっと成吉思汗の前へ連れ出される。
 成吉思汗が部屋へ入ろうとすると。忽蘭はすぐ寝台から降りて、身構えるようにして、
「はいってはならぬ。部屋ヘー歩でも入ったら、わたしは自分の生命を断つだろう」と強く言う。
「いかなる方法で死を選ぶか」と訊くと、
「自分の歯で自分の舌を咬み切れば、死は容易にわたしのところへやりて来る」と答えた。
 
 これがつまり彼女が十日間兵士の間を彷徨しながら、「身体の清浄を守った」秘密であると、われわれは信じなければならない。無論忽蘭は成吉思汗にはそのうち身を任せるのだが、その時言うことがまたふるってる。
「若し、汝が汝の妻に対するよりも更に強く、更に大きく私に愛情を持つならば、汝はわたしの躰を奪うがよい。若しそうでないならば、どんな手段を用いようと、わたしは汝のものにはならないだろう。私の前にはいつで亀死が用意されている」

 雌が交接の前に拒絶のふりをするのは動物にも見られることであり、男に逆うことによって一層愛されたいという願望は、特にアメリカ映画に出て来る娘役に強いようである。現代の日本娘がそんな願望を持っているかどうか疑問だが、「汝の妻よりも更に強く私を愛するならば」は少し「歴史離れ」がひどすぎるように思う。一夫多妻は少なくとも成吉思汗の父の代から、蒙古の貴族の間に行きわたった風習であったことは、『蒼き狼』にも記されている。たとえ女達の間に、多少の競争があったにしても、自分を高く売りつけようとする現代の娼婦の台詞を中世の蒙古娘が操ることが出来た、と信じなけれぱならないのでは、歴史小説を読むのも楽ではない。

 ついでにいえば、舌をかんで死ぬはとにかくこうして成吉思汗は蒙古民族にも自分に反抗する人間がいることを知り、幾夜も通った後許されてみると、果して処女だったので、すっかり打ち込んでしまう。
 忽蘭は当然政治的発言力を持つに到り、金国征伐も実に彼女の使嗾によったという「大秘密」をわれわれは知らされる。閨房秘語は当然史料にならないから、これも或いはあり得ないことでもないかもしれないが、長城を越える前後、二人の間に生れた王子グウラン或いはガウランを、「庶民」の間に捨てさせる理由は、私にはどうしても納得が行かない。
「若しここで、妻ボルテの産んだ四人の子供たち総てが戦死するようなことになった場合、そうしたことは充分考えられることであったが、あとに残った自分と忽蘭との間に出来た子、ガウランは如何なる立場にあるか。(中略)成吉思汗はポルテを怖れているわけではなかった。それでいて。眼の前からボルテの映像を追い払うことは出来なかった」

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 要するに、本妻の子が死に。妾の子が家を継ぐのでは、本妻が怒るだろうということである。そで臆病なる夫は子供を里子に出したあとで妾に言う。
「ガウランに若し人に優れたところがあれば、必ずや長じてモンゴルの狼となり。衆にぬきん出て身を立てるであろう。余は汝をモンゴルの妃たるべく迎え入れたのではない。ガウラッもまたモンゴルの皇子たるべく育てたのではない。忽蘭よ、汝は余のよき従卒として永久に余と共にあれ。而してガウランをしてモンゴルの庶民の子として、自らの力で育たしめよ」
 これは妾の子の認知を避ける昔の実業家かなんかが言いそうな台詞だが、私は井上氏がなぜ成吉思汗をこんな小心翼々たる利己主義者にしたのか、よくわからぬ。出生に疑問があるジュチを危地に迫いやるのは、「ためし」として納得が行くが、明らかにモンゴルのしかも大成吉思汗の血を引き、四人の子が戦死した場合、唯一の相読者となるべき子供を捨てさせるのか、私にはわからない。ここにあるのは成吉思汗の秘密ではなく、銀座のバーにばかり通っている文士の秘密である。
 彼が大汗に即いた年の暮、シャアマンのテングリが「一次は帖木真弟の国を取れと宜へり。一次は合撒児をと宜へり」とお告げがあったと言いに来た。これはやがて弟のカサルが大汗になるだろうという意味である。成吉思汗は直ちにカサルを捕えたが、母ホエルンに「両の乳を出して、両の膝の上にのせて怒られて」殺すのを思い止る。そのかわりテングリを殺し。死体を隠して、天に召されたと言わしめた。
 
 これは歴史でないと言うかも知れないが、王弟とシャアマンの間になにか結合が生じ、次にそれが破れて讒せられたという順序はわかるような気がする。ところが「蒼き狼」は謀反ぐらいにはびくともしないが、カサルが忽蘭を口説いていると聞くと腰を上げる。
 要するに歴史は一切改変されない。常に忽蘭が附加されるだけである。
 一二一九年のホラズ厶遠征に忽闌が随行したのは『元朝秘史』にあり、井上氏もそれに従っている。
 ここから『蒼き狼』の調子がかわり、遠征の「史実を並べるだけ」と批評されたところだが、それは『元朝秘史』にここから先は記事がほとんどないからである。つまり引用すべき「文学書」がなくなったので、史実の平板な叙述にならざるを得なかったわけだ。
 それがドーソン『蒙古史』とどうちがっているか。「二本の矢のように」行き、[勝った、殺した、強姦した]と大本営発表の連続のジュベ、スプタイのロシヤ遠征軍が。実際はどう戦っていたかについても面白い話があるのだが、もう紙数がなくなった。軍略家の成吉思汗を紹介出来ないのは残念だが、一二一二四年、インドからチベッ卜を廻りて蒙古に帰ろうという大作戦が、病篤き忽闌の煽助によったという大秘密だけは。書き落とすわけに行かない。

「私は苦難と共にある可汗と共にいたいのだ。(中略)いまや可汗に難事というものはない。モンゴルの兵達はこの世界を自由自在に馳け廻っているのだ。若し、可汗に難事があるとすれば、それはヒマラヤを越え、インダスを渡り.地表を埋め、大地をどよもして来る象の大群と.それを御する見知らぬ兵と戦うことであろう」
「成吉思汗をして忽蘭の言葉に従わせたものは.忽蘭が最早長くない己が生命を、彼の覇業の途上成において、棄てようと望んでいることを、知ったからであった。忽蘭はブルガン嶽を見たいとも、そこに凱旋しようとも望んでいないのであった。そうしたものは、ボルテや、彼女の生んだ何人かの後継者のものであった。忽蘭は自分の妃として生涯の意味を全く別のところに置こうとしていた」

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 かくして忽闌は予定通りヒマラヤの山中で、「氷の下に」といって、微かな笑いを浮べ、手を成吉思汗の方へ差し延べながら、いともスペクタクル的に死んじまったから、もう作戦の意味はない。夢にみた奇獣の瞳の「光」が、忽蘭の眼の「輝き」に似ているように思えたので、成吉思汗はサマルカンドに引き返す。この奇獣とは一角獣のことだが、これは一角獣が女性として象徴された世界唯一の文献として、後世に残るであろう。
 モンゴル高原に帰ってからの彼は鬱々たるやもめ生活を送るが、狼の後継者ジュチの死を聞き、悲歎をまぎらわすために、タングート征討の軍を起す。(『元朝秘史』によれば随行したのはイエスイだが無論忽闌亡きあと、ほかの女と交わるなんて汚らわしいことである)そして床にちらばる宝石が、「人骨に見えた」と形式的に後悔した後で、ジュチと忽蘭の名を呼びつつ息絶える。

 これが「歴史を改変することかく」井上氏が、われわれに明かしてくれた成吉思汗の征服慾の秘密だが、歴史なんてもう問題ではないだろう。氏がここで愛読者に与えようとしているのは。或るコンプレックスを持った男の成功譚であり、永遠の妾、忽閨情話であり、しかし部分的に妻に忠実な夫の家庭美談であり、わが子に自分の分身しか見られない感傷的な父親の哀話であり、西域のエキゾティスムであり、いい加減なだけに刺戟的な戦争残酷物語であるのは明瞭だろうと思う。
 いいところ伝奇小説、スペクタクル映画の台本みたいなものである。「歴史のギャップを埋める」とか「征服慾の秘密を探る」なんてのは表向きの話なのだが、種本を知らない批評家は「規模雄大の歴史小説」「現代の英雄叙事詩」と絶讃し、作者は「私の四番目の歴史小説です」と懐手し、解説者は古都ローマなるティベレ河畔で訂正の筆をお擱き遊ばしたと随喜の涙を流した。隆んなるかなや、戦後十五年日本文学の実相、鏡にかけて見る如しではないか。

 井上氏の四番目の反論「D」はしかし理由のあるものである。いかにも私が成吉思汗をレアリストとだけ規定したのは、氏の狼の面をかぶった成吉思汗に対抗するため、早まった。彼が普通の蒙古人並みに信義あつく、また危険な熱情家であったのは、『元朝秘史』に明らかであった。『長春真人西遊記』は面白そうな本であるが、しかしそれを読んでも私の成吉思汗観は「大きくは違わ」ないだろうと思う。諸書に引用されたところから推察すると、この本はどうやら世祖以後、門人によって献上されたものらしく、宮廷における宗教家の勢力争いと関係がありそうである。『アルタン・トプチ』の或るものが、宮廷における喇嘛僧の影響を蒙って、ゆがめられているのは御存じの通りである。(つまり『蒼き狼』がチベッ卜から来たことになっているのだ)

 門弟達は太祖が長春真人に帰依していたと、売り込む理由があったと見做してよく、その記述の全部を漢文だからといって、信じるのは危険である。少なくとも「絶対の探求者」などという空念仏を信用するのは文献に欺かれるものと思う。征服者にとって、文化人を前に文化人振るのは、いとやすいことだからである。
 最後に成吉思汗のレアリストの面を示すと思える遺訓を二つあげて、私の推測が全然根
根拠のないものでなかったことを示しておく。
「事を成さんとせば。細心なるべし」(ラシード)
「明るい真昼には、雄狼の如く用心深くあれ」(アルタッートプチ)


特集 歴史小説論争
『蒼き狼』は歴史小説か  大岡昇平
『蒼き狼』は叙事詩か   大岡昇平
自作「蒼き狼」について  井上靖
成吉思汗の秘密       大岡昇平
歴史小説と史実      井上靖
『蒼き狼』の同時代評   曽根博義
『蒼き狼』論争一     曽根博義
『蒼き狼』論争二     曽根博義
花過ぎ 井上靖覚え書   白神喜美子 

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