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日本中世の村落  清水三男



はしがき

 じっとして居られない気持が私をこのささやかな仕事に駆り立てた。その気持とはいうまでもなく第一線から伝わって来る誰しもが感じているあの気持である。何か仕事をしなければ世間様にすまぬというような義理詰から来る責任感ではなく、もっと一線と一体化した直接的な気持である。生意気な考え方かもしれぬが、日本文化建設の一兵士としての心組である。この事は別に今度の仕事に対する私の個人的な自負や自信の表明ではない。むしろ私はそうした個人の功を誇る打算からは離れたいと思って、無理をしてこの仕事を始めた。

  ほんとうの学問はあてこみや打算があっては成り立たない。特に私たちの学問歴史学においてはそれが著しいと思う。それほど私たちの学問にあっては個人的な才能の占める位置は小さい。先人の長年の達成を正しく受けついで、これを正しく発展させる所にのみ、始めて個人の力が最もよく発揮され、個人以上のものともなるのである。この道を離れてはいかなる天才の研究といえども国民文化の水準を高め、豊かにする事はできないと思う。だから私は自己の菲才を充分知りながらも、この学問においてはなお敢えて一個の力を致し得る事を確信して来たのである。而して自分のささやかな才を弄する事をひたすら抑えて、大道から外れない事を反省して来た。

 言わば過去十余年間の研究生活の反省の成果が本書である。ただ性来の愚鈍と性急が充分この反省を徹底せしめ得なかった事を恥じる。
 思えばこうした自己反省の一つの大きな転機となった三年間の和歌山生活において、共に訓育に携わった若い同僚の中二人までが、既に早今次戦線の花と散ってしまった。空しく故国に生きながらえている私は、果してこれら英霊に対し恥じない一日一時を送り得ているか。せめての御奉公にと仕事の余暇を求めて、あらゆる利欲から離れて心楽しく、しかし遅々として書き廁った。誇張していえば、いつ死んでもよいという覚悟を固めるための私の遺書の一つでもあった。

 年にやっと二十頁そこそこのものしか書き得なかったくらい思想の貧弱な私か、曲りなりにも一冊の書を物し得たという事は誠に夢のようでもある。到底私の力ではない。何物かの加護の賜である。とともに私の如き思考能力の低い者には仕事をしながら自己を磨き、仕事の中で考えるしか、自己を豊かにする道はない事を、つくづく今度の仕事によって悟る事ができた。お恥しい事ではあるが、私の全力はこの書に現れた限りの物である。否それさえ先人の、親友の力添のお蔭によるものであって、私一個の力ではない。

 外にこうして投げ出された自己の貧しい姿を見て今はまた抜殻になったような淋しさを感じるのみである。もし幸いにしてこの貧しい仕事に対し、好意を寄せて下さる同学の士があれば、容赦なき批判を以て、御指導と御鞭撻を暘わらん事を伏してお願いする。 思うに中世村落の研究という題目に対して本書はほんの入口を覗いたものにすぎない。何ら直接現在社会を益するが如き研究にはまだ手が届いていない事勿論である。とにかく今中世史家が問題とし得る問題を正しく提示して、優秀な同学の徒の解決を得る機縁ともなればと希うのみである。

 あとがきにも述べた如く、本書の成るについては、色々の方の御世話になった。特に京都大学の恩師や親友の方々のいつも変わらぬ御指教に心からなる感謝を捧げ、上梓の機を与えて下さった日本評論社の方々の御好意に厚く御礼申し上げたい。最後に私事ながら、亡き父が生前読書を好み、諸書の抄録を幾冊も書き残した事を憶えば、おそらくこの書の上梓がその霊を慰め得るのではないかと信じ、以て不孝の数々の瞶いの万分の一にもなれかしと祈るものである。また父のなき後、私たち七人の兄弟姉妹の教育にすべてを犠牲にして生き抜いて来られた母上に、特に人一倍御心労をかけた私の大罪をこの機会に改めて謝したい。
  昭和十七年夏

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清水三男
第二次世界大戦前の日本中世史研究者。京都に生まれる。1931年(昭和6)京都帝国大学文学部卒業。中世史、とりわけ東寺(とうじ)文書を史料とした東寺領の個別荘園(しょうえん)研究に従事する。『日本中世の村落』(1942)、『上代の土地関係』(1943)などの著書で、それまでの中世史研究で荘園が過大視されていることを批判、国衙(こくが)領の相対的重要性を論じるとともに、日本の荘園が西欧のマナーmanorのように独立した経済体をなさず、経済体としての村落が別に存在することを主張、戦後の中世史研究に大きな影響を与えた。38年、京都の「世界文化」グループへの弾圧事件に連座。その後43年に召集を受け、千島で終戦を迎えたが、抑留中の47年(昭和22)シベリアで病死した。

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