ボードゲームの紹介はなぜ分かりにくいのか
はじめに:ゲームの選別
最近もっぱらボードゲームにハマっている。ボードゲームカフェに行くのではなく、なるべく自分の家に友人を集めてプレイしたい。人が多いところを避けたいという時勢的なものもあるが、ものに囲まれるのが好きなので、なるべく買いたいというのが主な理由だ。
しかしここで早速問題が発生する。それはどうしてもプレイしたことのないボードゲームを購入しなければならないということだ。最近でこそ、たまにボドゲカフェにソロで凸して初対面の人と相席で未プレイのゲームを試すことが増えたものの、なかなか効率が悪いしどうしたって試せる数に限界がある。
安くても1000円程度、高いと10000円前後するものをポンポン買えるほど財力もないので、毎月大量に新作が世に放たれているどころか数えきれないほどの名作で既に溢れてかえっているボードゲームの海を、私は何らかの方法を使って泳いでいく必要がある。
そこで最近はボードゲームの紹介ブログやYouTubeチャンネルをよく利用しているのだが、いかんせん読んだり観たりしても満足な結論が得られず、結局はえいやで購入を決めてしまっている。
どうして私のプレイしたボードゲームの数よりも1桁程度多くプレイしてきたような百戦錬磨の彼らが、いざ説明するとなると私の満足する内容を提供できないのかを考えていきたい。
ただし特定のレビューサイトや動画などを貶める意図はない、あくまでもどうしても自分が満足できないかを確認したいだけだ。
なお金目当ての雑な紹介をしているキュレーションサイトのような存在は無視するものとする。
なぜ見るのか
そもそも何を目的としてそうしたサイト・ブログや動画を閲覧しているのかを確認しなければ始まらない。
もちろん購入するボードゲームを決定するためだ。
すると「何に基づいてそのボードゲームを買う買わないの選択が行われているのか」を検討しなければならない。
上述の通り、家に友人を招いてボドゲをプレイすることが多いため、自分一人が楽しめるかどうかよりも、イツメンでプレイした時に全体の満足度が高いかどうか、を重視している。
つまりイツメンがプレイしたときに盛り上がる姿を私が想像できるかが大切であり、これは非常に主観的な問題となる。
またイツメンに加えて、普段ボドゲを頻繁に遊ぶことが少ない友人や知人を招くことも多いので、彼らが楽しめるかももう一つの選定基準である。
しかしいずれにしろ盛り上がる姿・楽しめる姿を何に基づいて想像するのかについては、非常に明瞭である。過去に盛り上がったゲームからの類推である。
過去からの類推
例えばライナークニツィアの『インフェルノ』というゲームがある。赤カードの罰点が極めて高いトリックテイキングゲームだ。
先日プレイした際に盛り上がったゲームの一つだが、ラウンドごとに必ず大量の赤カードが一気に放出される山場がある。その山場がいつくるのか、誰が引き金を引くかのチキンレースがたまらなく楽しい。
すると私は、ラウンド制のゲームで目立った山場がラウンドごとに一つ訪れるようなゲームは盛り上がるだろうということを学習する。
したがって、そうした類推が効かないような説明がなされているものは不適切だという中継点となる解答が得られた。
ではどんなときにイツメンは盛り上がるのだろうか。言い換えれば、イツメンは何を楽しみにゲームをプレイするのだろうか。その前座としてプレイヤーの区分について話を進めたい。
ティミー・ジョニー・スパイク
少し所は変わるようだが、MTGの界隈では主にカード開発のためにプレイヤーを三通りに分類することが行われている。
この中でボドゲ初心者はティミーに分類されることが多く、最近はジョニー向けのゲームが人気な印象を受ける(『ito』『はぁ、っていうゲーム』『ボブジテン』など)ため、ジョニーも少なからずいるのだろう。
逆に上級者はスパイクとの親和性が高い。よく知られたことだが、そこだけを目指したゲームは一時的に盛り上がることこそあれ、格闘ゲームしかり次第にプレイ人口を減らす傾向が強い。したがって普段ゲームをしない人がスパイクである確率は低いだろう。
もちろん参照先のページにも記載があるように、これら三種類に全てのプレイヤーが完全に分類されるわけではない。常に二種類の性質をもつこともあるだろうし、プレイ中に新しい性質が得られることもあるだろう。
しかし今回の試論を進める上では、まずプレイヤーがなぜゲームをするのかについて簡単な分類が既に行われていることが重要だ。そして当然私を含めたイツメンもどれか一つ以上に当てはまる。
イツメンの分類
前述した通り、ボドゲを選ぶ基準はイツメンが盛り上がるかどうかであり、彼らがなぜゲームをするのかは、彼らのプレイヤーとして性質に関わっている。そして私から見ると以下の通り分類されるように思える。
誰がどのような性質かはここでは重要ではない。むしろ多種多様な性質の人たちが一堂に介してゲームをプレイするという事実が非常に重要である。わざわざ種類分けしたのに、その結論かい!というお叱りを受けそうだが、仕方あるまい。
加えて普段からボドゲに触れない友人とプレイすることを考えると、ティミー・ジョニーが多いシチュエーションが多いのではないだろうか。
さて、プレイヤーは三種類に大きく分けられ、彼らが混じり合う状況が私の家で開催されるボドゲ会では多いことが分かった。
では彼らはどのようにしてゲームをそれぞれ楽しんでいるのか、そして彼らが混じり合う場所ではどのように楽しめるかを確認していこう。
ピーク・エンドの法則
また話は少し変わるようだが、心理的経験則としてピーク・エンドの法則(英:Peak-end rule)というものがある。以下Wikipediaからの抜粋である。
この法則はUXの分野で私は知ったのだが、おそらくボドゲのプレイなどでも適用できるのではないかと考えている。
つまりゲームが楽しいかどうかは、その盛り上がりのピークもしくは、プレイ後の感触に基づいて判断されるということだ。
例えば以前ニムトをプレイした時の話だが、一通りルール説明をしてプレイが終わった後にあまり楽しくなかったと参加者の一人に言われたことがある。
ピーク・エンドの法則を当てはめて考えると、その人にはピークもエンドも満足のいくものではなかったのではないだろうか。つまり、ニムトを進めていくなかで何が楽しいのかも分からず、ゲームが終了して負けが確定してもそれがどうしてなのか全く理解できないと、その体験は惨憺たるものとなってしまうだろう。
では一般的にゲームプレイのピークはどこに来るのだろうか。混じり合っている私のボドゲ会のメンツだが、先ほどの三分類それぞれのピークについて考えてみたい。
ティミーにおけるピーク・エンド
ティミーにおけるピーク・エンドは少々やっかいだ。
まずはティミーの説明をMTGwikiから借用しよう。
いつピークを迎えるかの話をしなければいけない中にあってこの説明はトートロジーになりかねない。またティミーはプレイの目的を設定する必要がないとはいえ、とりあえずやることそのものが楽しければ、どんなボードゲームでも問題ないはずだ。だが自称ティミーな私をしてもそれだけはありえない。
ただし、プレイそのものから得られる興奮や快感がゲームのどこかに存在するということははっきりしている。これが糸口にはなりそうだ。
ジョニーにおけるピーク・エンド
ジョニーにおけるピーク・エンドはゲームを通じた自己表現が達成された瞬間ではないと考える。そうではなく、他の参加者に自己表現が理解された瞬間である。
表現は世に出た瞬間ではなく、それが受け取られ受信者に理解されることで初めて意味をなす。したがってどれだけ独創的なプレイをしようとも、それがゲームの勝利や他の人を楽しませようという目的に基づくものだと受け止められなければただのおかしな人になってしまうだろう。
したがって自己表現を行い、周りがそれを彼・彼女の自己表現だと捉えたことをもってピークを迎える。なのでジョニーにおいてはエンドの影響は少ないように思える。
そうするとジョニーがピークを迎えるためにプレイするゲームにおいては自己表現が可能でなければならず、強いムーブみたいなものが決まっているゲームはハマりづらそうだ。
スパイクにおけるピーク・エンド
スパイクにおけるピーク・エンドは非常にシンプルだろう。相手に打ち勝った瞬間と、そのために綿密な計画を立てているプロセス全てだ。
恐らくスパイクプレイヤーは先を見通す能力が高く、プレイの途中にお互いに勝ち負けの判断がつくだろうから、その判断がなされる瞬間からゲーム終了にかけて体験は上昇していくはずだ。
彼らが混ざり合う場におけるピーク・エンド
ここまでの議論からティミー・ジョニー・スパイクが混じり合うボドゲ会においてプレイするゲームを選ぶために求められる情報は以下のようにまとめられるはずだ。
私はこの情報を求めているのだろう。これが足りないサイトや動画は判断する材料が不足しているため私は満足できないのかもしれない。
しかし、全くもって自分でこの結論に納得していないので、後日議論を深めていきたい。
さいごに
私は誰でも楽しめるかということを重要視している。
誰でも楽しめるかどうかの判断軸は、そのボドゲがゲーム性(後述)以外の部分でどのような面白さをプレイヤーに提供できるかにかかっている。
なぜならゲーム性を楽しめることは万人に共通することではないからだ。
しかしその面白さが何かはまだ分からない。別稿で考えることとしたい。
そして別の視点として、この国には批評という文化があまり根付いていない。もちろん映画や書籍に関しては娯楽として唯一無二のポジションを担っていた時間が長いこともあってか、ある程度の批評文化は根付いているが、まぁどうもここ最近の批評については勢いがないように思う。
ボドゲの批評などいわんをやだ。
批評について私は語る言葉をあまり多くもたない。ボドゲの批評の目的はゲームに対して新しい視座を読み手に与えるものではないだろうか。
この程度のことしか言えない自分が悲しいが、批評についてはもう少し勉強が必要なので、またその時に戻ってきたい。
いつか「ぼくがかんがえたさいきょうのひひょうさいと」を作ってみたい。
補論
思考なき勝利に価値はあるのか
考えない人間に価値はあるのか、という悪役もびっくりな発言をしたいわけではない。ゲームに勝利したが、何かよく分からなかったという体験は果たして良いゲーム体験だったと言えるのか、ということだ。
例えばラブレターのようなゲームでは、何かよく分からないうちに勝てたということはまま起きる。だが、それは果たして当の本人にとっては楽しいものなのだろうか。
私はそうは考えない。なぜならゲームにおいて勝つということはそれだけで価値のあるものではないからだ。
何もしていないのに突然1億円が手に入ることは人によっては価値があるものかもしれないが(それでも多くの人は不審がって手放すだろう)、たいていの人はリソースを割くもしくはコストを支払うことで結果が得られることが自然だと考えている。
例えばサイコロの目が4以上で勝利というシーンを考えてみる。この場面において割かれているリソースは自分の心理的負担だ。3以下であれば負けてしまうという心理的負担を差し出すからこそ、得られる勝利に価値があるのだ。
これは大乱闘シリーズのディレクターである桜井さんが主張されているゲーム性につながるところである。
私たちは差し出すからこそ、得られた時に喜べるに違いない。したがって思考なき勝利に意味がない、わけではないが、犠牲なき勝利には意味がない。
失敗の危険
全く別の文脈で読んでいた『傾聴の基本』(総合法令出版)にも以下のような記述があった。
ここにいたる文脈として、人には自己実現を求める衝動が生得的に備わっている、という話がなされている。
つまり「ゲーム性」とは人が自己実現をする上で必要な要素であり、それをより少ない「リスク」で得られるようにしてくれるものがゲームなのではないだろうか。
誰もが社会的に成功できるわけではない、自己実現できるわけでもない。だがゲームではそれを部分的に肩代わりできるのだ。すると自己実現の場としてゲームは没入感を求められる。リアルとフィクションの境を溶解させればさせるほど、ゲーム内での自己実現がリアルの自己実現と一致していく。
しかしボードゲームにおいて没入感は必要なのだろうか。この話については論を改めることとしたい。
リスクから考える未プレイゲームの情報
イツメンはゲーム慣れしているのでハイリスクハイリターンのゲームでもなんら問題はない。
だが、家に招いてプレイする人の多くは普段ボドゲに触れることがないので、なるべくリスクの少ない手が簡単に打てるようなゲームを多く取り揃えたい。
すると自分でリスクの幅を調整できるようなゲームを自分は望んでいるのかもしれない。しかもリスクの中でも思考に直接結びついてしまうと、結局思考に対するリスクを負いたくない人にとっては非常に不利なゲームとなってしまう。
例えば相手の行動が自分の行動に対するリアクションとして完璧に跳ね返ってくる場合は、それなりに考える時間を設ければ最善手が浮かび上がってくるが、それに必要な思考力はかなり大きいだろう。
ゲームが好きな人からしたら、考えることが好きな人からしたら、そんな思考など朝飯前かもしれない。でもある程度いろんな人とボドゲをプレイする中で感じていることがある。
つまりゲームは楽しむものなんだから、考えるなんて難しいことをせずに直感的にやってしまおうよ、というものだ。
そこで重要になってくるのが、運である。ダイスを振る、カードを引くなどは全て運が掌握する範疇として考えられる。運におけるリスクは非常に考えやすい。求める事象が発生する確率が低ければ低いほどリスクは大きい、それだけだ。
このように「考えること」と「運に身を任せること」が上手い具合に混じり合ってゲーム性となる。もしかしたらこのあたりが面白さの秘訣なのかもしれない。
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