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中高生からの人文学 その11

5-3. 0と1の狭間で

5-3-1. 白か黒かで考えること

 令和は既にデジタルの時代で、0と1の二進法で情報が伝わっていきます。因果関係はわかりませんが、それと並行して白黒をつけたがる人が増えたような印象を受けます。誰かが悪い、自分は正しい、このように善悪や敵味方など分かりやすく自分の内側か外側かを区別する手段を誰もが求めているかのようです。

確かに「白黒はっきりさせる」という言葉があるように、物事が進めやすくなることは間違いありません。ですがその流れの中で0と1の間に埋もれていき見えてなくなってしまう何者かがあることを私たちは覚えておかなければなりません。

男女という枠組みの中に埋もれてしまうさまざまなSOGIの人々。0や1にはっきりと区別することで得をするのは、自分のことを0か1かだと思っている人、つまりこの社会において有意な立場にある人なのです。

その狭間で0.1や0.7の人たちはどちらにもつくことができずに困ったり、時にはどちらかに所属せざるを得ないことも起こってしまいます。そして何より本来私たちは全てにおいて0と1のどちらかにはっきりと属しているわけではありません。人に向けた剣の返す刀でやられるのは自分自身かもしれません。

そんなインターネットやSNS上で知らず知らずのうちに敵味方のレッテルを貼って見えない敵を攻撃している時代の中で、人文学は本来0と1の間にある絶妙なグラデーションをゆっくりと解き明かしていく役目を担っているはずなのです。

この次の節で紹介するように、人文学を「する」には本を読んだり人と話をしたりするのが一番です。そうした本の中には「どっちつかずだなぁ」と思うような意見が書かれていることもしばしばあります。何だかんだ言ったあげく、うまいこと濁して終わってしまうように一見思える本も少なくないかもしれません。

ですが0と1の間に存在するグラデーションは本来「どっちつかず」であるべきなのです。むしろAはBで、BはCだから、Aがあった場所にはCがあった、といったような分かりやすい論理でストレートに打ち込んでくるような本は本来疑ってしかるべきなのです。特にその主張が誰かを攻撃しているように見える時は注意が必要です。

私たちが利用する世界が0と1で動いていることと、生きているこの世界がそうであることとは区別して考えなければいけません。試験のために覚える知識はまさに0か1かの世界かもしれません。合っているか間違っているか、合格か不合格か。そうした知識は私たちの世界を部分的に捉えたものですが、この世界を動かしていくのは0と1の間を丁寧に紡いでいく言葉だと私は思っています。

何だかふわふわしたことを言っているように聞こえるので具体的に言えば、何事も鵜呑みにせず考えながら理解していくことが求められています。今すぐに実現するには難しいことを言っているとは思いますが、私たちの生活において、少しだけ立ち止まって考えてみる、そして自分の感じたことを素直に表現してみることから、人文学を「する」ことは始められるのではないでしょうか。その結果0と1のどちらかに自分がいると理解したのであればそれはそれで尊重されるべき意見です。

重要なのは敵か味方か、好きか嫌いか、良いか悪いかといった0と1との間にも物事の核心が潜んでいることを理解し、核心に少しずつ近づいていく努力を行うことです。それは試験で解答によって答案の正解・不正解をはっきりさせることとは真反対のこととなります。

5-3-2. 0でも1でもない人文学

 人文学は言葉でその全てを伝える必要があり、非常に脆弱なコミュニケーションを求められます。なぜなら言葉は数式と異なり複数の解釈が可能であり、自分の考えが100相手に伝わることは望みようがないからです。

ですがそんな人文学を支えるのは、0と1のグラデーションを、完璧とは言わないまでも少しずつうまく表現するみなさんの言葉の力です。ここで「みなさんの」と言った理由は既に分かっていることと思いますが、人文学は大学や研究機関の枠を飛び越えて広がっていくもので、その理解やさらなる議論のためには、研究者だけなく私たちもジンブン的な態度を身につけていく必要があるからです。

そしてジンブン的な態度は私たちが人として生きていく上で何よりも重要です。もちろん衣食住のように必須のものではないですが、豊かに生きていくために必要なのです。

私たちはデジタルの時代に生きています。今後もそれが変わることは恐らくないでしょう。話は逸れるようですが、この世界で使われているコンピューターは電子コンピューターと呼ばれるものです。

実は次世代のコンピューターとして未だ実用化に至ってはいませんが、高速で並列計算が可能となる量子コンピューターと呼ばれるものが研究されています。量子とはそもそも何だという細かい説明は関連書籍に譲るとして、その本質は量子力学における「重ね合わせ」を用いることにあります。

言い換えれば複数の状態が同時に存在している状態(シュレディンガーの猫という例えがありますが、あれもまさに猫が生きている状態と死んでいる状態が同時に存在しているということです)を量子コンピューターは利用しているのであり、「どっちつかず」なことが量子コンピューターの発展に寄与していると言えます。

言葉のあやといえばあやなのですが、一見全く関係のない領域において、「どっちつかず」であることが求められているのは本質的なことなのではないかと思っています。

5-4. 人文学を「する」には

5-4-1. 本屋に行こう!

 では人文学を「する」にはどうすればいいでしょうか。私は皆さんにまずは本をたくさん読むことをお勧めします。そう言うと「何から読んでみたらいいか分からない」という声がたくさん聞こえてきそうですね。もちろん分からなくていいんです。だって分からないから「人文学」を始めるわけですよね。といっても、そうやってつっけんどんにしてしまうのも気が引けるので、本を選ぶにあたっていくつかオススメの方法を紹介しましょう。

一番効果的なのは本屋さんに行くことです。最近では大小問わずいろんな書店が見られるようになりました。ショッピングモールに入っている大型の書店から、店主さんが一人で運営しているこだわりの本屋まで、色とりどりです。

本屋さんに入ったら、ざーっと全ての棚を眺めてみましょう。表紙、背表紙、本の帯、POPまで色んな情報に溢れています。その中から何となくでいいので気になった本を手にとってみましょう。表紙を見て、目次をチェックして、ぱらぱらーっと中身を読んでみる。その中で少しでも気になるものがあれば一緒にきている人にお願いして買ってもらいましょう。漫画は中々買ってくれない人でも、文字の本なら進んで買ってくれるかもしれません。

そうして買った本をとりあえず好きなように読んでみましょう。頭から読むもよし、気になるところだけつまみ食いするもよし。本に決められた読み方なんてものは絶対にありません。もしも自分に合わなかったなと思ったら、また本屋さんに行って別の本を探しましょう。本は何万・何十万という数が出版されています。必ずあなたの気になるものが見つかるはずです。

さて、もしその本が気に入ったら、本の最後の方に書いてある「参考文献」や「おすすめの本」をまた本屋さんに行って探して読んでみましょう。あとはそれを繰り返すだけです。そのうち自分が何に興味があって、どういうことを疑問に思っているのかが何となく分かってくるはずです。

そこまでいけば、あとは本だけでなく、新聞や友達やSNSやウェブサイトなど、情報を手に入れる手段はあちらこちらに溢れています。自分の興味を大事にしつつも、是非さまざまなモノに触れて考える時間をつくってみてほしいと思います。

そして繰り返しになりますが、「本当かな?」と疑う態度を忘れないことが非常に重要です。どれだけ優れた研究者でも著作でも、完璧に自分の考えていることと同じだ、ということは滅多にありません。むしろ2章で言ってることは目から鱗だけど、3章で言ってることは少しおかしいと思う、といったように場所ごとに賛成・反対が分かれてしまうことの方が普通です。

もっといえば「古典」と呼ばれるものは、何度読み返したとしても色々な解釈が考えられるからこそ、古代ギリシャから中世・近代を経て令和のこの時代にまで読み継がれているのです。頭からお尻までなるほどなるほどといって読み進められてしまう本は、もしかしたら自分には向いていなかったのかもしれません。

普段の生活の中で・本を読む中で見つけた自分の中の大きな興味とほんの少しの違和感を、人文学を「する」にあたっては大切にしてほしいと思います。例えそれが他の人とどう違おうと、その自分らしさがジブンからジンブンを始めていくきっかけになるのです。既に多くの人がジンブンを始めています。その中には数百年レベルで使われ続けている言葉も少なくありません。

ですが、そうした誰かが作った言葉(=既製品)を使うことで分かった気になってしまうことは非常に危険なことですし(学生や研究者にも多いですし、悲しいかな勉強すればするほどその傾向は強くなっていきます)、皆さんが気になった新しい世界を記述することは難しいです。

安易に人の考え方や既製品の言葉に頼らずに、最初はよちよち歩きだったとしても自分の「足で」しっかりと考え、自分だけの言葉で世界を見つめることができれば、この社会を生きていく上でそれ以上に強い武器はないと思います。

5-4-2. 旅行と日常と

 ただ、一つそれには大きな壁が存在します。それは「誰もがなるべく考えないようにして毎日を過ごしている」ということです。もちろん私も例外ではありませんし、研究者やバリバリ働いている人もそうなのです。特殊な例から考えてみましょう。旅行で一度も訪れたことのない場所に足を運んだときのことを想像してください。

駅に到着し、プラットフォームから見える駅前の景色、駅の看板など目に映るものが全て新鮮な体験です。電車から宿泊するホテルにたどり着くにはどちら側の出口から出ればいいのか、どのバス停に並べばいいのか必死になって情報を集めて考えようとするはずです。そしてバスに乗ってもどの駅で降りるのか、気を張り続けてしまい気が気でありません。ようやく宿にたどり着いてホッと一息つくことができます。これは引っ越しでも同じことです。

新しい家の最寄り駅はどこか、お隣さんはどんな人か、スーパーや薬局がどこにあるのか変化した環境に対してなるべく早く適応しようとします。適応した結果得られるものがフィルターと考えることもできるでしょう。

ですが、その「刺激的な生活」はいつまでも続きません。長旅を続けているとその地に降り立った瞬間の感動は薄れていき、段々その環境に慣れていきます。引っ越しも1ヶ月もすると朝起きてから夜帰ってくるまでの生活に真新しさはなくなってきます。いつものルートを通って通学・通勤し、用があったらスーパーや薬局で済ませてくる。

つまり私たちは慣れていくと「考えなく」なっていくのです。これは決して悪いことではなく、できるだけ負担をかけないように日常を過ごしていくための人の体の工夫(=フィルター)です。ただそうした人が長い時間をかけて獲得してきたであろうフィルターも、繰り返しになりますが一長一短だと考えなければいけません。なるべく新しい刺激を受け取らないようにすることは、普段の生活を変化させてくれるような刺激に対して鈍感になることに簡単に結びついてしまいます。

ある日朝家を出てから駅につくまでの間に新しいお店がオープンしているかもしれません。いつも通っている道路が工事中かもしれません。ですが普通はそうした変化をなるべく気に留めないようにして、駅に足を運ぶはずです。工事中だから誘導員の指示に従って仮の歩道を進んで、電車やバスに乗る頃には新しいお店のことは忘れてしまっているでしょう。

それは深く考えずにルーティンとして日々の行動をこなすことが最も自分にとって負担が軽いからです。一方で工事中だから回り道をして普段は使わない道を歩いてみる、新しいお店にちょっと立ち寄ってみることは大きなエネルギーを必要とすることで、先ほどの「考えること」に該当します。

このように「考えること」は日常生活における変化を何かしらの形で自分の中に受け入れることであり、踏み込んで言えば刺激を受け入れて自分が変化することです。回り道したことで安い自動販売機に出くわすこと、お店に立ち寄ったことで人と出会うなどポジティブな変化だけでなく、新しい道を選んだことで事故にあうことや、立ち寄りしたことで遅刻してしまうことなど、全てひっくるめて変化と考えてもらえればと思います。

5-4-3. 無理して考えることは不安定だ

 と、このように文字にすれば「考えること」は簡単に見えますが、これがなかなか難しいのはお分かりいただけると思います。

例えば物理学では位置エネルギーという考え方があります。動いているボールがエネルギーを持っているということは物理で勉強することですし、まだ勉強したことのない人でも理解することは難しくないでしょう。このエネルギーを運動エネルギーと言います。

ですがボールは静止して存在してるだけでもエネルギーをもっていて、そのエネルギーを位置エネルギーと言います。位置エネルギーは正確にはその基準によって大きさを変化させるのですが、簡単に上下方向だけを考えればいい空間においてボールは高い位置にあればあるほど大きな位置エネルギーをもちます。

そしてボールは高い位置にあるボールから手を離すと徐々に速度をあげて下に落ちていくのですが、これは位置エネルギーが運動エネルギーに変化していくためです。その速度を求める細かい数式を出すためにこの話を始めたわけではなく、注目してほしいのは支えていた手を離してしまうとボールの位置エネルギーは自然と減っていくということです。

ボールの位置が10cm下がるとその分の位置エネルギーは運動エネルギーになります。古典物理学と呼ばれる範囲内では物体はなるべく安定な状態を好みます。この例で言えば位置エネルギーが少なければ少ないほど、つまり低い位置にいればいるほどボールは安定していると言えるのです。

逆にボールが自ら不安定な状態に近づこうとする、つまり高い位置にあがっていくことはありません。その場合は人がボールを持ち上げたりするなど、「刺激」が外から加えられていると考えるのが自然です。これはボールだけに限らず、山の川の流れなどでも同じことです。どうして川は標高の高い水源から、標高の低い湖や海などの下流に向かって流れていくのか。それは「水は低きに流れる」の言葉どおり、自然の摂理なのです。

5-4-4.位置エネルギー的な私たち

 勘の良い方は既にお気づきかもしれませんが、位置エネルギーはまさに私たちです。私たちはなるべく考えないようにフィルターを身に着けています。これは外部からの刺激を受け取って高い位置エネルギーに移動することがないようにするためです。大きな位置エネルギーはそれだけで不安定なので、安定を求める私たちは刺激を受け取らないようにする他ないのです。

旅行や引っ越しなどで周りの世界が刺激的になるのは、外部からの刺激を自らが受け取ろうと決めたからであって、勝手に周りがそうお膳立てしてくれたわけではないでしょう。つまり位置エネルギーを高くすること、刺激を受け入れること、変化を望むこと、考えることは、自らがそう決めないと絶対に起こらないことであると理解すると同時に、私たちはやもすると楽な方に楽な方に流れていくようにそもそもできているという悲しい事実を受け入れなければなりません。だからといって考えずにただ毎日を何となく過ごしている人を責めているわけではありません。ただ人はそういうものであることを受け止めるところから全てが始まる、ということです。

その刺激を受け入れられるようにする手伝いをしてくれるのがジンブン的な態度です。安定した日々に石を投げ入れて波を打たせるのは自分自身以外にはありえません。刺激を受け入れて考えることは不安定な状態に自分をおくことなので、並大抵の刺激ではそんなことは起こりません。ではどうすれば考えられるでしょうか。どうすれば刺激を受け入れることで自分を不安定な状態に置きながらも、変化を楽しめるでしょうか。

刺激をジブンごとにすること、それがこの文章の結論です。

何となく流れていく昨日と今日とを区別するのはどの刺激を受け入れて、どの刺激を受け入れないかではないでしょうか。気を抜くと何となく昨日と同じことを繰り返してしまう今日だからこそ、昨日とは違う通学路を選んでみる、違う授業の受け方をしてみる、いつもと違うご飯やさんに行ってみる。

それだけで明日が素晴らしく良い日になるわけではないでしょうが、新しい刺激を受けてジブンごとにする。自分の内面が少しだけ変化して、いつの日にか何かの形で外に変化をもたらします。

変化を受け入れて高い位置エネルギーを保存するためには、考え続けるモチベーションが必要です。考えようとするモチベーションは、考える内容が考える主体である自分に関係しているということ、つまりジブンごとであることがスタート地点にあるはずです。

この世界のありとあらゆるものは自分とは無関係に存在しています。何も働きかけなければ私たちは放ったらかされてしまいます。向こう側から迎えに来てもらうのではなく、こちらから積極的に迎えにいくこと。そうした態度を人文学は教えてくれるのではないでしょうか。


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