『推し、燃ゆ』読みました。
宇佐見りん作の『推し、燃ゆ』読みました。
作者の宇佐見りんさんは現在23歳と筆者と同い年でありまして、私が無為に日々を過ごす一方で、芥川賞を受賞されるというまさに推しとの距離くらい離れた実績でとても感心します。
本作の主人公はアイドルの追っかけをしている女子高生です。
たしか大塚英志の『ストーリーメーカー』とかだったと思いますが、物語の推進力は主人公の欠落にあると聞いたことがあります。推しがいる人は自身の欠落を埋めるための行為として、アイドルを推しているのかもしれません。
そうした仮定として、本作の主人公が抱える欠落とは何でしょうか。
主人公は推しを背骨に例え、推しが炎上し人気が減っていくに応じて、主人公自身も落ちていきます。もともと勉強も習い事も上手くなりませんでしたが、推しのためと続けていたアルバイトを辞め、高校を中退し、就職活動もろくにせずに”推しごと”に熱中していきます。
しかしながら、主人公が推しと出会ったのはずいぶん子供の頃であり、高校生となって改めて推しと出会ったときから推しに熱中するようになります。つまりは、主人公の抱える欠落が生じたのは、少なくとも初めて推しと出会ったとき以降、高校生以前と思われます。
そして、主人公は推しと出会う以前から精神科に通院している様子があります。しかし、なぜ精神科に通院することになったのか、その描写はされていません。つまりは、主人公の欠落が明確に説明されることはないのです。
物語の推進力たる欠落は、欠落を埋めるという行為によって主人公を動機付けします。主人公の行動指針を分かりやすくするためです。しかしながら、欠落が説明されないということはそのような動機付けを目的としているわけではなく、そもそも本作は欠落を埋めるための物語ではないといえます。
それでも主人公には推しがおり、そして欠落を抱えていることは間違いありません。欠落を抱え、それを埋める行為として推す。ただそれだけの内容では当然、芥川賞なぞ受賞できないでしょう。
本作の特徴は、欠落を埋める行為としての推しごとのその後、欠落を埋める行為の欠落について描かれている点です。
そもそも欠落を埋める行為自体は代替行為であり、根本的な治療ではないでしょう。あくまで穴なそのままであり、それを別のもので栓しているだけです。ところが、その栓すらも、自らの背骨とまで感じていた推しすらも欠落し、残るは欠落のみになります。
主人公がそれを強烈に実感する場面が、まさにラストのクライマックスである、推しが芸能界を引退したのちに主人公が推しの家を見に行く場面です。そこで見られる未練がましさと、欠落を自らの骨を拾うかのように扱う決意に切実さを感じました。大切なものは一度失ってからでないと気づかないとはいいますが、一度失った後に再び失うことになった主人公の痛みには、推しというキーワードにとらわれない普遍性があります。
しかしながら、一方で目新しさを感じる作品かといわれるとあまりそのようには感じませんでした。というより、結局、欠落としての欠落を認める過程までの道具としてでの推しであり、推しというキーワードにとらわれない普遍性と述べましたが、逆を言えば、時代性や社会性は薄いように思います。
推しに熱中する人の家族関係や友人関係等が想像通りでしかなく、予想外の展開はあまりなかったため、良く言えば読みやすく、悪く言えば不十分でした。
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