ときどき目を閉じて観たら2倍おもしろかった。映画「さとにきたらええやん」。
目をとじて映画を観たこと、ありますか。
「さとにきたらええやん」という映画を観ました。
ときどき、そっと目をとじて。
もちろん、寝るためではありません。
(映画館でのうたた寝ほど甘美なものはありませんが)
東京・田端にあるシネマ・チュプキ・タバタという映画館の
音声ガイド(ユニバーサル上映)が、素晴らしいという噂を耳にしまして。
それを体験してみたかったのです。
しかも。心待ちにしていた「さとにきたらええやん」の再上映。
これは行くしかない!の一択。
結果、この鑑賞体験は私にとってまったく新しく、想像以上に素晴らしいものでした。
なぜなら。
ドキュメンタリーという映画のスタイル。ユニバーサルシアターという映画館のあり方。
それらの新しい可能性を感じることができたから。映画というものが、もっと楽しみになったから。
そんな記憶を、ここにとどめておきたいと思います。
映画「さとにきたらええやん」について
本作は、100分のドキュメンタリーです。
なにかと偏見の目で見られがちな大阪・釜ヶ崎。
この地で1977年から(キャリア45年!)活動している認定NPO法人「こどもの里」の日常を、リアルかつ丁寧に追います。
こどもの里は、放課後の児童館としてだけでなく、食事から宿泊まで子どもたちを受け入れるすべてを提供しています。もちろん、障害の有無や国籍など一切の区別なく。
今や、少なくとも6,000箇所以上あると言われている子ども食堂。
こどもの里はその先駆けかつ巨人、とでも言えるでしょうか。あの年季と迫力を伝えきるには、私の文章力が足りません。
休息の場としてすべての子どもたちに開かれたこの場所には、実にいろいろな子がやってきます。
学校帰りに遊びにくる子、障害のある子、親の事情で夜遅くまで預けられてる子。あるいは里子としてここに住んでいる子、などなど。
もちろん、親御さんの休息の場としても、とても大切な役割を果たしています(これ、とても大事。親の疲労は子どもに伝染ります)。
いわば本作は、しんどさを抱える人もそうじゃない人も、多様な人がひっきりなしに入っては出て、また入ってくる群像劇。
そこに映される剥き出しの悲喜交々に、観客は心のあちこちを刺激され続けます。
共感、社会意識、笑い、涙、希望、あるいは名前のつかない感情が、登場人物の数だけわいてくるのです。しかも、100分間ずっと。
なので、基本的な舞台はこどもの里が中心なのですが、決して地味じゃない。展開に続く展開。テンポ良く、とてもダイナミックに、観客を”現場”に招き入れてくれます。
そして、ここが大切だと思うのですが、説教臭くない。暗くない。
重いテーマでありながら、とても観やすいのです。
こう言ってはなんですが、面白いのです。笑顔になれるのです。とっても。
子どもに関する社会問題・課題の多くは、家や学校の中、つまり閉じた空間で起きやすいものです。
そこに漂うのは、密室感。ドン詰まり感。誰も手を差し出せない予感。
しかし本作では、諸問題をなんとかしようと四苦八苦としている大人たちの”風通しの良さ”を描き出すことに成功しています。
それはおそらく、釜ヶ崎という”地域”まで視座を上げ、地域と人々とのつながりを丹念に描いているから。
子どもたちを地域の人が見守り、子どもたちもまた地域を見つめる。そんなうらやましい交流がそこにあります。
だから「なんとかなるかも」という希望を感じるのです。
釜ヶ崎という地に流れる、笑ってタフに生きようとするチカラでしょうか。
作品全体が足取り軽く、明るいトーンが貫かれているのです。
「ここにいるみんなに幸あれ!」
そんな読後感がありました。クセになります。
実際、2016年6月に本作を観ていた私は、今回で2回目の鑑賞。
そういう人は私だけではなかったようで、上映後のトークセッションでは
「今回は子どもも連れてきました!」
というママさんリピーターも。それくらい惹かれる映画であることは間違いありません。
目をつぶると見えてくる、子どもたちの声。ドキュメンタリーならではの世界線。
群像劇と言いつつ、私は三人の登場人物に注目して観て(そして聴いて)いました。
おそらく映画の構造としても、そういう見せ方を意識していたのでは、と。
まず、高3(当時)のマユミ。シングルマザーのおうちの子。母親に問題があり、こどもの里に住んでいる。おそらく館長である荘保さんの里子として。
「お味噌汁熱いので気をつけてください。お体の具合はどうですか?」
路上生活者の方の安否確認のために夜回りをした時の彼女の言葉です。いい子なんです。泣けちゃうほど。
次に、中3(当時)のジョウ。知的障害(今で言う学習障害でしょうか)の診断をひた隠しにしている。父親のDVで今はシングルマザーのおうちの子。しかもお母さん、日本語得意じゃないかも。さらに兄弟が4〜5人。
「言いたいけど、言える自信がなくて。どうすればいいんかって」
自身の知的障害を周囲に打ち明けられない。そんな悩みを持っていました。
そして、館長である荘保さんその人。こどもの里のビッグママ。あだなはデメキン。あだなに反して、かつての写真は映画女優さんみたい。釜ヶ崎のオードリー・ヘップバーンとして、ブイブイ言わせてた可能性あり。知らんけど。
「私の生き方を作ってくれたのは、ここの子どもたち」
作中のデメキンの言葉はすべてパンチライン。イカツイほどの説得力です。
他にもほんとにいろんな人がこどもの里を利用しているのですが、私はこの三人から目が(そして耳が)離せませんでした。
なぜなら、みんな少しずつ、私だったから。あるいは、私だったかもしれないから。
たとえば。
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※以下ネタバレを含みます。もしこれから観るという人は飛ばしてください。でもこれを読んだからと言って、本作の面白さは微塵も損なわれません。そんなヤワな映画じゃない。そもそも彼らの生活や人生はネタじゃない。
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子どもの里では、さとに住む子たちにお小遣いをあげているようです。そして通帳できちんと管理している。
なのですが
「・・・」
マユミはその通帳をデメキンほかスタッフに見せるのを躊躇します。
だって。先月のお小遣い、まるっとお母さんにとられちゃったから。
しかも、お小遣いもらった翌日に。
子どもの通帳にたかる親。それがマユミの母親でした。
作中では、その母親にもインタビューを行っています。そのコメントが、不自然なくらいにうすっぺらくて。率直に言って、子どもへの愛情を疑いました。
私には、おそらく母親も自分ではどうしようもない精神的な問題を抱えているように見えました。なんらかの障害をおっている可能性もあるんじゃないかな。
ジョウは、親由来の問題を多く抱えていて。いつもは年下の子どもたちと遊んであげる優しい青年。
でも、ときどき爆発してしまうどうにもならない感情は、誰とも共有できない。理解してもらうことを諦めているような。基本的に、とても孤独に見えました。
それをSHINGO★西成の曲によって、救われたり、鼓舞されたり、背中を押してもらっている。ハイテンションなくらい明るく振る舞ってはいますが、心が息継ぎを必要としているのは明らかでした。
彼のかたわらに音楽があってよかった。
これ、ぜんぶわかるんですよね。私もそうだったので。
後々になって気づくしんどさって、あるんです。
あれ、しんどい状況だったんだな、と。
しんどさに気づく、つまり自覚症状を認識するには、客観的な知識と経験が必要なんです。その点、慢性疾患に似ているところがあります。
だから、それらがない子どもは犠牲になりやすい。リアルタイムでしんどさに気づけないまま、SOSも出せずに大人の犠牲になっていく。
そうなると、屈託や困難をひきずって生きることになります。
長じて自分で自分をなんとかするのは、かなり手こずります。
人間関係に悪影響を及ぼし、経済的・精神的自立を妨げかねない。
(新卒時に「え?みんな、海外旅行いったことあるの?」と口走り、同期を凍り付かせたのは私です)
それを回避するためには、第三者が「それは、しんどいな。逃げろ」と気づかせてくれることが必要になります。
でも本人は自覚がないんです。マヒしちゃって。登場する子たちみたいに、明るく振る舞っているならなおさら。だから他人はそうそう気づけない。
気づくためには、親でも、なんなら学校でもない、バイアスのかかっていない立場にいる大人が、理解と経験をもってしっかり見つめ続ける必要があるのです。社会関係資本なんて言われますが。
でもこれが容易なことじゃない。とっても難しい。
でも。それをやってのけてるのが、デメキンをはじめとしたこどもの里スタッフのみなさんでした。
では、どうやって実現しているんだろう?
その片鱗が窺える印象的なシーンがあります。
この子↑がマユミなんですが。
彼女、高校卒業後の就職先が決まりまして(めでたい!もう身内の気分)。
毎朝お弁当を自分で作って、ちゃんと通い始めていることを、デメキンに報告するシーンがあります。
なのですが、報告したのは病室。デメキン、クモ膜下出血で入院中でした。
デメキンはうんうんとマユミの報告を聞きます。
そして、痛みを堪えて、右手を差し出します。
握手です。
無言でスッと出して、グッと握るタイプの。
ブンブン振らない、ナデナデしない。甘くない握手。
たぶん、彼女たちは戦友だったんじゃないかな。
子どもを上から保護するのではなく、ともに難局を乗り切る一人の個人としてみている。その視点の対等さ。
こどもの里の懐の深さ、というか強靭さはこれか!と一人で合点していました。勝手な思い込みなのでしょうが。
そんなデメキンに見守られたマユミやジョウが、それぞれの卒業後、どんな決断をして、歩み始めるのか。
それはこの作品の大きな見どころの一つ。
終盤だけでも、子育てしている人には強くお勧めしたい映画です。
見どころといえば、本作には他にももうホントにたくさんの見どころがあります。
地域の運動会、集会ライブ、路上生活者への夜回り、親御さんたち向けのトラウマセミナー、クリスマス会などなど。どんだけ長いこと取材してきたんだっつー。
そしてそれらは、目をとじると、より味わい深いものに感じられました。
怒鳴り散らす父親(悪気はないが柄は悪い。彼のいる家には帰りたくない)。
泣きながら出ていく母親(ママ一人では抱えきれないこと多いですよね)。
スタッフのみなさんのインタビュー(親しみの中に光るプロ意識)。
その中で際立つ、子どもたちの笑い声。駆ける音。飛び跳ねる音。
きゃっきゃっきゃ。あはははは!ドドドドド。バン!ガン!ボン!
カメラが捉えていない場所にいる子どもたちの声や音が、大人たちの声の間をすり抜けて、バンバン耳に飛び込んでくるのです。
これは、初回の鑑賞では気づかなかった点。
私が育児中ということもあり、子どもの声(とくに笑い声と泣き声)には敏感だから、というのもあるかもしれません。
監督が言う、子どものチカラ。それが力強く、そして鮮明に伝わってきました。
もうね。みんなお元気で何より〜〜〜ですよ。多幸感。
逆に言えば、声を飲み込んでいる子どもたちにも想像力を働かせることができた、ということでもあります。
本当に耳を澄ませなくちゃいけないのは、そういう子たち。なのではと。
これはドキュメンタリーが得意とするところ、かもしれません。
その場をまるごと切り取ることで、意図しないものまで伝えられる。
つまり、遭遇があるのです。
それが画だけでなく、音声でも達成できている。
ドキュメンタリーならではの世界線というものがあるとしたら、それを楽しむ可能性が広がる体験でした。
助走0秒で涙腺決壊。この映画のもう一つの主役、SHINGO★西成のリリック
目を閉じてみたからこそできた、想像超越体験。
それは音楽のチカラ。いやラップのチカラ。いやいや、ラッパー・SHINGO★西成のチカラ、でした。
SHINGO★西成。
ヒップホップ好きな方には紹介不要でしょう。いわずとしれたレペゼン西成のラッパー。
西成でのリアルライフから時事問題まで幅広く、シリアスに、ときにユーモラスに、そしてかっこよくラップしています。
とくに西成を舞台にした楽曲は、苦い日々、辛い気持ちを人情味の糖衣で包んだようなものばかりです。
楽曲のみならず、その人柄や生き方まで含めて、全国のラッパーから一目置かれ、ヘッズからは多大な支持を得ています。
ヒップホップの本分である「Peace,Love,Unity and Having fun」を地で行く人。地域活動にも精力的に取り組み、作中でも炊き出しなど随所に登場します(氏の100人サンタプロジェクトはほんとにセンスのいい企画)。
SHINGO★西成をもしご存知でない方は、ぜひこちらをご覧ください。笑えます。
あまりTVには出ない人なのですが、ABCテレビの「なるみ・岡村の過ぎるTV」に出てました。TVerで観れます。きっと好きになるはずです。関連してこんな記事も。
このSHINGO★西成の曲が、要所要所で流れてきます。
しかも、ここしかない!と言いたくなるほど効果的に(もうね。監督はスケベといってもいいレベル)。
そりゃね。泣きますよ。
正直、映画見た感想が「泣けた」というのは、なんだか作品の個性を矮小化しているようで嫌なのですが、本当に泣けちゃったんだからしょうがない。
だって。笑ってなければ泣けてくる。そんなタフな明るさが、彼の曲には通底しているから。
それがそのまま、映画の登場人物たちと響き合っているのです。
泣くなっつー方が無理ってもんです。
その点この「さとにきたらええやん」は、観客をしっかり心地よく手玉に取ってくれる。
エンターテイメントとしてもバッチリな作品と言えます。
私が注目していたジョウも、彼のファンの一人です。
ライブでは目をキラキラ(というかギラギラさせて)最前列に陣取り、SHINGO★西成のパフォーマンスに、拳を上げて応えます。
私もその場を共にしたかった。そんないいバイブスが鼓膜を震わせてきます。
音楽はしょせん、衣食住の次。それは間違いない。
でもね。じゃぁなくても生きていられるか?不要不急か?となったら、断固NO。
この一曲があったから、今日で終わってしまおうと思わなかった。
とりあえず、明日一日だけ生きてみようかと思た。
そんなこと、誰にだってあるはずです。
逃げ場のない子どもなら、なおさらですよ。
人によっては、音楽は心のごはんになりえます。
SHINGO★西成のリリックは、ぬくもりがあるのです。それこそ、粉もんのような。
本作の終盤で、作品を締めくくるように、彼の歌が流れます。
『ブレない』というアルバムに入っている「心とフトコロが寒いときこそ胸をはれ」という曲です。
その一節をご紹介します。
”負けない一心でやってきた
でも上には上がいるんやね
でも続けることから始めよう
気付いてくれる人いるんやね
要らないもんは捨てましょう
軽くなったらまた会いましょう
やるべきことをやってたらな
なるようになるいつか春になる”
ちなみに。この原稿の冒頭に出てきた、映画館に子ども連れてきたリピーターのママさん。
彼女も、この映画を観てSHINGO★西成の大ファンになった、とのことでした。
ママさんのハートまでロックできるラッパーはモノホン。必聴です。
目を閉じて鑑賞。それができたのは、シネマ・チュプキ・タバタの音声ガイド(ユニバーサル上映)があったから
ここまで折に触れて「目を閉じて観てみた」と書いてきました。
それでも映画を楽しめた理由は、映画好きの気持ちを理解している、特別な音声ガイドがあったからです。
私が本作を観た映画館は、東京・田端の「シネマ・チュプキ・タバタ」というところ。
ここはユニバーサル上映と称して、障害のある人でも観やすいように、あらゆる工夫に取り組んでいます。
取り組むなんて生やさしいもんじゃないですね。実践されています。
で。音声ガイドもその一つ。
受付で「イヤホン貸してください」と申し出ると、貸してくれます。
こんな感じです↓
すべての席には、腕かけにイヤホンジャックが取り付けられていて、そこに借りたイヤホンを差し込む、と、映画開始と同時に音声ガイドが流れます。
なのですが。この音声ガイドが、すごい。
いわゆる、TVでよくある視覚障害者向けの副音声とはかなり違います。
何が起こっているかを通りいっぺんに説明するだけ、ではないのです。
何を伝えるか。それを、どう伝えるか。
そして、何を伝えないか。
つまりこの作品の魅力をどう伝え、没入してもらうかを、大変に繊細な工夫が施されていました。
たとえば。
この音声ガイドでは、路上生活者の人を「おっちゃん」と呼びます。のみならず、他の働く男性たちのことも「おっちゃん」と呼びます。
釜ヶ崎という地の映画であるかぎり「〜〜する年配男性」などと、型通りな呼び方をしていたら、興醒めなわけですよ。
だれでも気軽に「おっちゃん」と呼べる。そんな人々の関係を描いているのが、本作なのですから。
まさに「わかってらっしゃる」な音声ガイドだったのです。
しかし。私は視覚に障害があるわけではありません。
なので、視覚障害者の方の評価は、きっとまったく異なる観点からになるのでしょう。
それでも、私にとっては価値のある体験でした。
なぜなら、この音声ガイドがなければ、目の見えない人になって映画を観てみる、という発想そのものが生まれえなかったから。
俺から見えている世界が、世界のすべてじゃない。自分という受像機を疑う試みでした。そしてその試みから感じることが多くありました。
シネマ・チュプキ・タバタは、また訪れたい映画館になりました。
もらったフライヤーには、この9月で6周年と。干支半周ですね。
お近くに立ち寄った際には、訪れることをぜひお勧めします。
あ。でも、人気なので、予約はしていったほうがいいです。
最後に
本作は、目あるいは耳で観て、大変に楽しめる映画でした。
楽しめるだけではなく、ずっと味わいが持続する。
そんな、社会を見る目を豊かにしてくれる(なってるといいな)映画でした。
でも。本作が作られたのは2015年。
かなりの月日が経っており、コロナという社会変化もありました。
登場人物や西成、釜が崎の今を映しとっているわけではない点に注意が必要です。
まして地域の個性を考えると、外野がどーのこーのと言うのは行儀が悪いというものです。
とはいえ、星野リゾートほんとにできたんだ、とか。
西成という街が、大きく変わりつつあるという話は耳にしていました。
なので上映後、トークセッションに登壇された監督に、勇気を出して質問してみました。
「西成という街は変わりましたか?」
と。
監督は
「それ話し出すと2時間くらいかかります(笑)。変わったところもあり、変わらないところもあり。いろんな意見がありますね」
街が明るくなって、あるいは漂白されることで、生きづらくなってしまう人もいるのでは、などと考えていました。
そういう大人たちを、私も見てきました。
だから、この映画に登場した子どもたちの今や将来と同じくらい、西成や釜ヶ崎という地のこれからが気になってしかたないのです。
だってなんだかその視点は、人間が生きやすい街とは?関係とは?という問いに、直接つながっている気がするからです。
あいつら今でも、達者にやってるかな。
おわり。最後まで読んでいただきありがとうございました。