入浴シーン
草冠はこのiPhoneが防水機能を有していることに感謝した。凹凸のある風呂釜の蓋と、その上にある洗面器にiPhoneを立て掛けて再度思う。
やはり入浴中に聴くにはクラシックに限る。
物理的にも、精神的にも、あらゆるものを洗い流した後だ。よく知らない男のよく分からぬ歌詞が身体に貼り付きそうな気がしてしまう。
草冠はカヴァレリアルスティカーナを聴いている。
何度聞いても、最後の4連符に心が痺れてしまう。
例えば大切な人と再会し抱き合っているシーン、あるいは最愛の人に永遠の別れを告げるシーン。
なんなら一人で湯につかりながら歯磨きをしている31歳女性の日常。
そんな場面すら、あの4連符が響き渡れば「こうなるしかなかったのだ」と強い説得力をもって、たちまち劇的でドラマティックなワンシーンとなり、草冠はうっとりしてしまうのだ。
同じ音階の音が、4つ並んでいるだけである。
たかだか4つの音が、なぜこんなにも強い力を持っているのであろうか。
草冠は考える。同じ言葉を4回繰り返せばどうか。
いや 軽い否定
いやいや 軽く勢いのある否定、もしくは謙遜
いやいやいや 焦燥感のある否定、もしくは謙遜
いやいやいやいや 決定的な否定、謙遜
(床に転がるイヤイヤ期の息子の姿を思い浮かべる)
ありがとう 感謝の意
ありがとう、ありがとう 口先で生きている人間
ありがとう、ありがとう、ありがとう 強迫観念
ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう
溢れんばかりの感謝の気持ちが言葉に表れてしまったように感じる
なるほど、4回繰り返すことには何らかの魔力がありそうだ。なるほど、なるほど、なるほど、なるほど!
草冠は、もし近々自分の葬式を開くようなことがあれば、このカヴァレリアルスティカーナを流し続けたいと考えた。
鐘をたたくように繰り返される4連符。
さらばだ、さらばだ、さらばだ、さらばだ!
潔く今生に別れを告げられる、そのくらい悔いなく生き切った方だったのですね草冠さんはーーーーーー
繊細な感性を持つ参列者にはそう思ってもらえるのかもしれない。
草冠は今日、仕事中に他者への説明がたどたどしく、同僚に見限られた可能性があった。
草冠は今日、タラのムニエルを焼く際にバターが足りず、ひっくり返したら身がボロボロに千切れてしまった。
草冠は今日、入浴を満喫できたことが幸福であり、何の抵抗もなく口腔内から頬骨下のツボを刺激している。
iPhoneから流れる何度目かのカヴァレリアルスティカーナ。肯定してゆく4連符。何もかもが流れていく。
入浴万歳!入浴万歳!入浴万歳!入浴万歳!
浴槽から上がり、タオルで身体をぬぐい脱衣所に出る。身体が温まっているおかげで全裸でも全く寒さを感じない。ボディークリームも余裕である。
ふと洗濯機が目に入る。フタが開いている。
洗剤を入れ、漂白剤を入れ、柔軟剤を入れ、あとはスイッチを押されるのを待つばかりの洗濯機である。
どういうことか。
風呂上がりに洗濯物を干す算段であったのに。
草冠はまたも自分を信頼できなくなった。
時計は23時を指している。
まだ手遅れではないが、草冠の胸の内は嵐である。
やっちまった!やっちまった!やっちまった!
やっちまった!!!!!!(こうなるしかなかった)