【短編】蚊遣り器
(10,488文字)
一日目、二日目
「なあ。蚊遣り器、どこにあるか知らないかな?」
私は、居間と続き間の台所から、ソファーに座る娘に助けを求めた。今日、妻が不在なのは分かっていた。だが娘なら、どこに何があるか、私以上にこの家のことは詳しい。
「カヤリ、キ? カヤ、リキ?」
人は知らない言葉に出会うと、自分の持つ語彙の中から何とか似た言葉を選び出そうとするものらしい。変な位置で区切る声に少し違和感を覚えたが、それ以上は気に止めなかった。
「蚊遣り香を焚きたいんだ」
「カヤリコウ? だから、何? それ日本語? ねえ、聞いてる?」
娘じゃない。その時になって私はやっと誤りに気づいた。顔を上げると、怪訝そうに振り向いた亜由美がいた。だが私が間違うのも無理はない。夕べも風呂上がりに母娘して、似たような部屋着だかパジャマだか分からない服装でうろついていたのだ。てっきり娘が起きがけにくつろいでいるのだと思いこんでいた。
どうやら娘も出掛けたらしい。そういえば昨夜そんなことを言っていたような気もする。
亜由美は、夏休みということもあり、所用で帰省した娘と一緒に昨日から来ている。亜由美は中学二年生になって、めっきり女性らしくなっていた。
つい数年前までは――私の中ではまだ昨日のことのようだが――ホットパンツとTシャツから真っ黒に焼けた手足を伸ばして裸足で走り回り、私が両手を広げて迎えると一目散に腕の中に飛び込んできてくれたものだ。そんなおちびさんが、母親に並ぶほどに背が伸びて、色も白くなり、淑やかな姿で玄関に現れた時には、とっさに亜由美だとは分からなかった。薄く紅を――後で指摘したら、リップクリームだと口を尖らせた――差していたことも大きい。いつの間にか毛虫が蝶になった。将にそういう命の輝きに満ち溢れている。尤もそんなことを亜由美にうっかり漏らそうものなら、かんかんに怒るだろうが。
昨日は勝手が違っていて、お互い気恥ずかしさが先に立ち、会話が少しも弾まなかった。聞きたいことは山ほどあるのだが、話し掛けても短い単語が返ってくるばかりで、なかなか話の穂を接げずにいた。
それが私の早とちりによって、くしくもその障壁を超えられたわけだ。もちろん亜由美には、娘と間違えたことを悟らせるようなへまはしない。
「蚊取り線香のことだよ」
「もう。じゃあ、最初からそう言ってよ。カヤリキとかカヤリコウとか格好つけてないで」
亜由美は、ちらっと私を見て、唇を尖らせる。こういう仕草や言い回しまで母親そっくりになってきた。ひとたび口を開けば成長はあまり感じられないが、黙っていればたまに大人の女の顔をする瞬間があり、孫と分かっていてもちょっとどぎまぎする瞬間もある。
「別に格好つけているわけじゃない。昔は普通にそう言ったんだ。お前、覚えていないか。ほら、豚の形をした焼き物の中に蚊取り線香を入れて焚いただろう、あれだよ蚊遣り器って」
「ああ、それなら知ってる」
「そうか。それならよかった。少し安心したよ。でもお前達の世代にとって、蚊遣り器とか蚊遣り香という言葉は、とっくに死語なんだろうな」
「シゴって?」
「それもダメか。死ぬに国語の語で死語だ。もう使われなくなった言葉のことだよ」
「そうか。そうかもね。実際うちでも電子式の蚊取り器ならあるけど、蚊取り線香なんか使ってるとこ見たことないし」
亜由美は、この受け答え中もずっとスマートフォンとやらを操作している。私にはそれが無性に気になる。こんな物の何がこの子をそんなに夢中にさせるのか、私にはさっぱりわからない。昨日も「それのどこが面白いんだ」と聞いたら、「おじいちゃんには分からないよ」と一蹴された。
「そうか。でもな、蚊取り線香には蚊を避ける以外にも凄い使い道があるんだぞ。あまり知られていないようだがな」
「凄い使い道って、何?」
少しは興味を覚えたらしい。亜由美は画面から顔を上げた。
「実はな、あれを焚いていると、熊やスズメバチ避けになるらしい。山歩きする人の必需品だそうだ。尤も効果があるのは、そいつらが自分の風下にいる場合だけだそうだがな」
「ふーん。でも私、そんなところ行かないからいいもん」
亜由美は再び画面に目を戻す。それを見て、私はいたずらを思いついた。
「そうでも無いぞ。この頃は、熊が食べ物を求めて人家の近くまで下りて来ることもあるんだ。去年の冷夏の影響で、今年は餌が不足しているらしい。よくニュース番組で流れているだろう」
「えっ、そうなの? だって私、ニュースなんか見ないから」
亜由美はやっとスマートフォンを脇に置いて、私の方に目を向けた。
「だから蚊取り線香を点けるんじゃないか」
「えっ。と言うことは……。まさかそんなこと……ないよね……」
頭の回転はいいようだ。亜由美は私の意図通りに先読みしてくれる。泳いだ目が、自分の不安を全否定してほしいと訴えていた。私は、それを無視して、追い打ちを掛ける。
「数日前、ほらそこを、子牛ぐらいの大きさのが、のそのそ歩いていたらしい。近所の人が見つけて大騒ぎになったんだ」
私はそう言いながら、百メートルほど先の、いかにもそれらしい、奥に灌木が茂った草むらを指さした。
「うそっ……」
亜由美は絶句した。
――ちょっとやり過ぎたかな。
時に生意気な口も利くが、こうしていとも簡単にやり込められる。一丁前に見えてもまだまだ子供、たわいないものだ。だが薬が効きすぎて、今日にも帰ると言い出しでもしたら元も子もない。
「すまん。熊が出たというのはうそだ。お前が、そればっかりいじってるんでな、少し目を休ませてやろうと思ったんだ。どうだ、上手くいっただろう」
私は種を明かした。亜由美は、フーッと大きく息を吐いて、
「でしょう。うん。そんなことだろうと思ったんだ。こんな所に出るはずないもの」
と強がるものの、まだ少し顔が強張っている。
「で、蚊遣り器がどこにあるか、お前、知らないよな?」
「もう、知らないわよ、そんなの。おばあちゃんかお母さんに聞いてよ!」
何とか立ち直った亜由美は、すっかりへそを曲げて、またスマートフォンに戻ってしまった。
三日目
今日も今日とて、亜由美は居間でソファーに寝そべり、スマートフォンをいじっている。
「ところでお前達は、好きな相手に気持ちを打ち明ける時もメールとか使うのか?」
私はこの頃やっと携帯電話のメールだけは使えるようになった。以前会社ではパソコンのを使っていたが、それは業務遂行上やむを得なかったためで、操作に躓くといつも若い部下の手を煩わせたものだ。退職を機にそんな苦行から解放されたとほっとしていたが、メールがことのほか便利なことにも気づいた。写真画像を送ってもらえるのがいい。子どもと離れて住んでいると、たまには孫の顔も見たい。だがまたパソコンを購入してまでいじるのはうんざりだと一旦は諦めたが、携帯電話でもできると知り、それなら何とかなると必死で覚えた次第だ。私のは折り畳み式のもので、亜由美はそんなガラケー、まだ使ってるのと笑う。ガラケーって何だ?と聞いたが、無視された。
「何よ、突然」
確かに、私も会話のきっかけとしてはいかにも唐突すぎたとは思った。でも言ってしまったものは仕方ない。
「いや、ちょっとな」
「おじいちゃんの質問は、自分が知りたいことだけに、ワンポイントで来るのね。いつもそう?」
「そんなことないだろう」
「ううん、そうよ。普通は前置きとかあって、それから本題が始まるの。それでね、途中で話題を変える時に『ところで』なのよ。おじいちゃんのには、そんなところが全くないのよ」
何だか娘に説教されているような気分になった。面白くない。私が口をつぐんでいると、
「うーん。メールよりLINEかな。私の周りも使っている子、多いね」
と案外素直に質問に答えてくれた。
「お前がにらめっこしているのが、そのLINEってやつか。でもそんな告白で嬉しいのか?」
私が画面を覗こうとすると、亜由美はそうはさせまじと、すっと胸元に引き寄せる。
「そんなに重いこと書かないし。だって告って断られたら格好悪いし、それって気まずいじゃない」
「何だ、それ」と私は小馬鹿にするような言い方をした。
「じゃあ逆に聞くけど、電話だったらいいの? それともラブレター?」
亜由美はむっとして食ってかかる。私はやっぱり面と向かって言うのが一番かななどと、昔のことを思い起こしていたら、「おじいちゃんはどうだったの?」と聞いてくる。私は心の中を見透かされたみたいでどきっとしたが、「何がだ」としらばくれる。
「おばあちゃんにはちゃんと告白したの?」
「俺のことはいいよ」
言下にはねつける。
「ずるい、おじいちゃん。自分に都合の悪い時は、いつもそうやって逃げるんだから」
「逃げちゃあいないさ。昔のことだから忘れただけだ」
「そうやって、すぐ年寄りの振りをする!」
「だって年寄りには違いないからな」
「もういい。後でおばあちゃんに教えてもらうから」
それはよせと言いかけて止めた。どうせ亜由美は聞く耳を持たないし、妻の口に戸を立てるのは尚更できるはずもない。おそらく妻は面白おかしく脚色を施すに決まっている。その後の亜由美のわけ知り顔を想像すると面白くない。げんなりしていると、
「でも昔の人は、歌で自分の思いを打ち明けたんでしょう。国語の授業で習ったよ」
と亜由美の方から私に話題を寄せてきた。電子器機は苦手だが、この手の話は好きだ。
「そうだな。万葉集や古今和歌集なんかに多くの恋歌が載っているってことは、かなり一般的だったということなんだろうな」
「ふうん。それだって他に自分の気持ちを届ける手段がなかったから、歌だったり手紙だったりしたわけでしょう。その時代にこんな便利なものがあったら、みんなこれを使うと思うよ」
亜由美はスマートフォンを親指と人差し指で挟んで、これ見よがしに振る。
――ほう、そうきたか。
この子も、いつの間にか理屈を振り回すようになった。
「それじゃ、あまりにも味気ないじゃないか。ボタン一つで、送ったり、消したりできる。そんな言葉が、お前、嬉しいか」
「消えるからいいんじゃない。振られたら、全部消して、それでお終い」
「でもな、世の中には、消えても構わない物と、絶対に消えてほしくないものがあるはずだ。お前だって本当に心から伝えたい思いは、相手にたやすく忘れてほしくないだろう。紙に書くと言うことは、残すということだ。だから一所懸命に考え、言葉を選び、文章を練る。さらに推敲を繰り返す。そうやって手紙や歌に書き起こす。だから手書きの文字には情報だけではなく心が籠もる。もしお前が言うようにあの時代にスマートフォンがあったら、万葉集や古今和歌集などが千年以上の時を経て現在まで残ることはなかったと断言できるよ」
「でも紙は燃せば灰になるよ」
亜由美は食い下がる。
「確かにな。でも、それだけの労力を掛ければ必ず誰かの記憶には残る。ボタン一つ押すのとは大きな違いだろう。そういうことだ」
亜由美はそれきり黙ってしまった。これ以上の議論は諦めたようだ。
「ところで、お前には好意を寄せている人はいないのか?」
亜由美はちらりと私を見て、にいっと笑った。それは肯定か否定か。私が判断を付けかねてていると、亜由美は、
「さっきのこと、おばあちゃんに聞いてこようかな」
と誰に言うとも無く、ソファーから腰を上げた。
「あっ、そうそう。スマートフォンは『ボタン』じゃなくて、『タップ』だからね」
亜由美は、去り際にしっかりと負け惜しみを置いて行った。
四日目
四日目ともなると、遠慮もかなり薄れる。亜由美は朝食を終えるなり、
「ねえ、おじいちゃん、この後、何か予定ある?」と聞く。
「特にないが、ばあさんに頼まれている庭の作業をやらんとな。そろそろ小言が飛んで来る頃だ」
「そう。じゃあ買い物に付き合ってよ」
と強引に私の手を取る。
「俺の言ったこと、聞いてなかったのか。まったく」
私は溜息をつく。人の話を聞かないのは、娘譲り、引いては妻譲りだ。「どこへ行きたいんだ」と問うと、亜由美はどうやって知ったのか三十キロほど離れたY市にある大きな本屋の名を挙げた。
何か嫌みの一つでも言いたそうな妻に「すまん。帰るのは昼過ぎになる」とだけ告げた。
車は一時間程でY市に着いた。
亜由美は、商店街に入ると目当ての店に向かって人並みをかき分けて足早に歩く。スカートの裾が左右に揺れる。私はあっという間に数メートル引き離された。その間に、すれ違った若者が驚いた顔をして振り返り、そのまま亜由美の背中を目で追うという場面を何回か目にした。彼らが判で押したような反応をするのが面白い。亜由美は彼らにとって魅力的に映るらしい。
――ほう。
私は、亜由美を誇らしく思う気持ちと同時に、何だか嫉妬めいたものが胸に湧き上がる。何とも変な感じだ。
「おじいちゃん、早く」
亜由美は周りの目を気にする様子もなく、大きく手を振り私を呼ぶ。小走りに並ぶ私にも視線が集まるのが分かる。面はゆいが、心の片隅でそれを嬉々としている私がいる。
亜由美はさっさと目当ての本屋に入っていく。案内板で文房具売り場を確かめ、エレベータは使わず、さっさと一段飛ばしで階段を上って行った。私はまたもや置いてきぼりを食らう。私がやっと三階の売り場に着いた頃には、亜由美は小さな紙袋を一つ提げていた。私が「何を買ったんだ?」と尋ねても、「内緒」とはぐらかされた。
亜由美は本屋を出た後も、洋服屋や雑貨屋など行き当たりばったりに入ったり出たりを繰り返して、私を二時間ばかりも引き回し続けた。
昼下がり。帰路を少し辿ったところで、危惧していた渋滞に捕まった。十数メートル進んでは、数分止まる状態を繰り返す。脇道に逃げたいが、この辺りはその昔城下町だったため、道幅が狭く入り組んでおり、かつ一方通行や通行止めの所が数多くある。カーナビが付いていないこの車で冒険をしようものなら、帰宅が何時になるか分かったものではない。諦めかけた時、亜由美が、
「そこの脇道に入って」
と指示を出しながら、スマートフォンを私の目の前に翳した。画面に表示された地図上の青い線と赤い矢印。青い線が家までの経路で、矢印の起点の丸印が現在地を示し、矢印の向きが進行方向を表しているらしい。
「ほう、そんなこともできるのか」
「そうよ。便利でしょう。分かった、私がいつもいじっている理由が?」
亜由美は当てつけがましく私を見る。認めるのは癪だったので、返事の代わりに少し乱暴にハンドルを切った。
しかし十分ほど走らせた辺りで、突然スマートフォンの画面が暗転した。私が「おい、どうなったんだ?」と咎める間もなく、亜由美は「あらっ、電池がなくなりそう」と電源を切ってしまった。
「お前が任せろと言ったから、こんな道を来たんだぞ」
「ごめん。スマートフォン、電池なければただの箱、ってね。まあ、こんなこともあるわよ」
亜由美は実にあっけらかんとしている。ここまで見事に開き直られると、怒るのを通り越して笑いたくなる。今さら引き返すわけにもいかず、太陽の位置で方角を確かめながら、電柱や看板の地名を頼りに走っていると、やがて少し広い道に出た。
「なんだ。ここに出るのか」
思わず安堵する。
「ここがどこだか分かったの?」
ほっとしたような声が被さる。亜由美も少しは責任を感じていたようだ。
家並みはすっかり変わっていたが、道路案内板に書かれた神社の名前を、私ははっきりと思い出した。その昔、自転車を飛ばして何度も来たことがある場所だった。中学の同級生だった川上知子が、この神社の近くに住んでいたからだ。
数ヶ月前のことになるが、彼女の噂話を小耳に挟んだ。背びれや尾ひれがいっぱい付いて知りたくもない情報の方が多かったが、それによると彼女は離婚して去年の暮れから実家に戻っていて、喫茶店をやっている姉を手伝っているらしい。
以来ずっと気にはなっていたが、なかなかここまで足を伸ばすことができずにいた。物理的には自転車でも四十分ほどの距離だが、心情的には地球の裏側ほどに遠く感じていたからだ。それが亜由美の失策のおかげで、図らずも今すぐ近くにいる。これも何かの縁だと思った。
「ちょっと寄り道してもいいか?」と聞くと、暇を持て余していた亜由美は「別に、いいよ」と即答した。
ものの数分で目当ての喫茶店に着いた。店の前の駐車場に停める。エンジンを切っても一向に下りようとしない私に、亜由美は何かを感じたようだ。亜由美は「何してるの。行くよ」と私の腕を取る。ちょっと待て。私は抗う素振りを見せながらも、引っ張られるまま店に入った。
「いらっしゃいませ」
涼やかな声が響く。カウンターとテーブル席が三つだけの、こぢんまりとした店内だった。案内されてテーブル席に着いた。コーヒーと紅茶を、それぞれケーキとのセットにして頼んだ。
私はカウンターに戻った彼女にちらちらと視線を送る。何度か目が合った。その度に彼女は営業用の笑顔を浮かべたが、私が誰か分かった様子はなかった。それも当然だ。長い時間を経て、私の容姿はかなり変わった。当時『針金』と渾名された面影は微塵もなく太って、髪もすっかり薄くなってしまった。
一方、彼女は昔の面影を十分残している。年相応にしわが増え髪に白いものも見えるが、全体的にいい年の取り方をしているのが窺えた。魅力的ではあるが、普通の老婦人だった。それ以上でも以下でもなかった。
そこには、若かりし頃の私をストーカーまがいの行動に駆り立てた、特別の存在としての姿はなかった。私の胸は少年のように高鳴ることもなく、いつもより少し高めぐらいの心拍数で留まっている。亜由美と目が合った。
「知ってる人?」
「ん? ああ」
おもちゃがなくなって手持ち無沙汰だった亜由美は、ずっと私を観察していたようだ。
注文した品が運ばれてきた。亜由美は少し笑みを浮かべてケーキを口に運び、私が何か言い訳めいたことを言う前に小さく首を振った。訳知り顔が癪だが、今はそっとして置いてくれるのがありがたかった。「俺のも食べていいぞ」と皿を押しやると、「サンキュー」と、亜由美は屈託のない笑顔を返した。
コーヒーは少し苦く、飲み終わったカップの底にはフィルターで濾しきれなかった粉がへばりついていた。
「ありがとうございました」
彼女の声に送られて、店を出た。ふうっ。大きく息を吐く。来てよかった気もするし、悔やむ思いもある。ただ確実に言えることは、思い出が一つ終わったということだった。そしてそれは、もうこれ以上更新されることはない。
車に乗り込むと、亜由美はすかさず、
「おじいちゃんが好きだった人?」
と聞いてきた。
「まあ、そんなところだ。もうずっと昔のことだ」
「素敵な人だったね。声を掛ければよかったのに」
「いいんだ。向こうが気づかなければ、それでいい。自分からは決して名乗らないって、店に入る前に決めていたんだ」
「えっ、どうして」
「心の底に静かに沈めておいた方がいいこともある、そう言うことだ」
「何、それ」
亜由美は不平な顔を見せる。
「彼女とは中学、高校と同じ学校でな、彼女はクラスの人気者で、俺のマドンナだった。俺はずっとあの人に片思いしていたんだ。時に偶然の出会いを期して、自宅近くをうろついていたこともあった。
彼女は大学入学と同時に地元を出て行った。だが、俺は地元の大学にしか受からなくてな。その後も友達からそれとなく情報だけは集めていたんだ。
俺が就職して数年経った頃だったかな。彼女が結婚するって聞いたのは。流石に衝撃を受けてな、一晩中やけ酒をあおったよ。一週間ほど気が塞いでいたが、でも一ヶ月ほどして気づいたんだ。自分の生活が何ひとつ変わっていないことにな。いつものように起きて、会社に行って、帰宅して寝て、休日には気の置けない友達と遊んでいた。俺の生活には何の変化も生じていなかったよ。まあ、それはそれで少し寂しかったがな」
亜由美は神妙な顔をして話を聞いている。
「ばあさんは、その頃よく連んでいた友達の一人でな。いつも俺の側にいてくれたんだ。今、そんなことを思い出したよ」
「それでプロポーズしたの?」
先走る亜由美をいなして話を続ける。
「その頃から今日まで、ずっと一緒だ。近くにいるってことは、とても大切なことだ。直ぐ側で同じ物を見て、聞いて、感じることが大事なんだ。花火のような派手さはないが、蚊遣り香のように静かに燻り続けていくのもいいものさ。夫婦になるということは、そういうことじゃないかな」
「もう。また質問を無視した」
「だって、お前、あいつに聞いたんだろう」
「ううん。おばあちゃんも笑って教えてくれなかったの」
亜由美が膨れる。
「そうか。じゃあ俺も話すわけにはいかんな。まあ、そのうちお前にもそんな男性が現れる。その時になったら話さんでもない」
「約束だよ」
亜由美は小指を突き出す。何だか照れくさかったが、亜由美の真剣な顔に気圧されて指をからめた。
「さあ、帰るとするか。あいつが首を長くして待ってるだろう」
私はスターターボタンを押す。エンジンが軽やかな音を立てた。
五日目
次の日、昼過ぎの便で帰途に着くという二人をバス停で見送った。私は車で空港まで送るつもりでいたが、帰り路が心配だからと娘が断った。
娘は、簡単な用事だから終え次第帰ると言っていたが、結局四泊したことになる。
「やっと帰ったな」
「そんな強がり言って。本当は寂しいんじゃありませんか?」
「とんでもない。清々しているよ」
「そうですか。亜由美と一緒の時のあなたの顔、随分やに下がっていましたよ」
「バカ言うな」
「結局、あいつは何しに来たんだ?]
「さあ、私は何も聞いてませんよ。朝から出ずっぱりで帰りも遅いから、ほとんど話す時間なんかありませんでしたからね」
「お前、親だろう」
「あなただって親ですよ」
何だそれ。呆れて踵を返そうとする私を、妻が引き留めた。
「それはそうと。二、三日前ですか、亜由美が変なこと言ってましたよ。カヤリがどうとか、こうとか。あなた、何のことだか分かりますか?」
「いいや。あいつの言うことは半分も理解できん」
「よかった。私も適当に調子を合わせていたんですけど、ちんぷんかんぷんで。私だけじゃなかったんですね、よかった、よかった」
私は苦笑をこらえる。
「あっ。それから、これ。亜由美から。直接渡せばいいのに、私に頼んでいったんですよ。まったくおかしな子」
そう言いながら妻がエプロンのポケットから封書を取り出した。
――ほう。
手紙とは驚いた。昨日こんなものを買っていたのか。封筒には表書きも、裏書きもない。全面に花柄がプリントされたそれは少し可愛いめのもので、赤いハートマークのシールで封がしてあった。開くと、便箋には意外にもしっかりとした大人の文字が並んでいる。
『おじいちゃんへ
私も大事なことは紙に書くことにしました。
昨日の蚊取り線香の話は、マジ感激! だったよ。それに喫茶店でのことは内緒にしておいてあげるから、約束のことは忘れないでね。
いつまでも元気で、おばあちゃんと仲良くするんだよ。
それから、おばあちゃんのことは、ちゃんと名前で呼んであげてね。「あいつ」とか「ばあさん」はダメだよ。
P.S.
早くスマートフォンにした方がいいよ。私が使い方、教えてあげる。💗💗💗
亜由美』
『教えてあげる』の後には、大きなピンクのハートマークが三つも描き添えてある。
――あいつめ。
つい緩みそうな口元を必死で抑えながら、ふと気配を感じて振り向くと、耳元に妻の顔があった。慌てて文面を隠したが、すでに遅かった。
「何ですか、蚊取り線香の話って? 喫茶店でのことって? 約束って?」
畳みかける妻の声には少し棘があった。老眼で小さい文字は見えづらいはずだが、それでも要所をしっかり拾っている。しかも知られたくない所ばかりだ。
――あのバカ、余計なことを書きおって……。
心の中で亜由美を罵る。
「何でもない」
私はわざと不機嫌そうな声を出した。
「ほう、そうですか。へぇっ、二人だけの秘密ですか。いいですねぇ」
私はそそくさとその場を離れようとした。
「でもね、あなたの可愛い可愛い亜由美は、来年にはデートで忙しいからって、来てくれないかも知れませんよ」
妻はそんな私の背中に鋭いつぶてを打つ。
「バカ言え。まだ、まだ、子どもだ」
「いいえ。あっという間ですよ。三年ぶりに会ってどうでした? あの子、めっきり女らしくなって、驚いたでしょう。子供の成長は早いですよ、特に女の子はね。それにあの子も母親に似て一途なところがありますからね……」
妻の言葉に、亜由美の『約束のことは忘れないでね』の文言がぐっと現実味を帯びてくる気がした。
「あーあlっ、心配だ、心配だ」
立ち尽くす私を後目に、妻はさっさと家路を辿る。置き去りにされた私の心を一迅の風が撫でていった。