【連載】冷蔵庫と魔法の薬 (6)
6.女二人
――先ほどの女の人はきっと来る。
環はそう確信した。だから環は家に帰るのを延期して、健二のアパートで二人を待っていた。
十二時を回った頃、インターホンが鳴った。
「ケンジを連れて来ました」
ドアを開けると、金髪の女性が立っていた。正体なく酔った健二に肩を貸しながら。
「手伝ってください」
環は、彼女の流暢な日本語に驚いた。
環はもう片方の肩を支え、ちょっと気を抜くとその場に崩れそうになる健二を叱咤しながら、二人で何とかベッドに寝かせた。
――朝になったらジャケットはしわくちゃだろうが、致し方ない。
環が布団を掛けて振り向くと、側で一連の行動を見ていた女性と目が合った。
「あなたがタマキさんね。私はジェニファーと言います。あなたに会いたかったわ」
「私もです。ジェニファーさん、日本語がお上手ですね」
「外国語を上達するには、現地の恋人を作るのが一番の早道だそうよ」
「恋人? ニイニの恋人だったの?」
「ニイニ?」
「あっ。ごめんなさい。健二のことです。私、その方が言い慣れていて」
「三年間ほど日本にいたんですよ。ケンジの英語より上手になりたくて、一生懸命勉強しました」
「そうだったんですか」
ジェニーはしばし環を凝視していたが、急に視線を切ると、
「じゃあ、私はこれで帰ります」
と踵を返し掛けた。
「待って下さい。このまま帰したら、後でニイニに叱られます。それに日本の治安がよかったのはもう昔のことで、この頃は深夜の女性の一人歩きはとても危険です。こんな所でよかったら、朝まで休んでいって下さい」
ジェニーは少し口尻を上げた。
「じゃあ、お言葉に甘えて。あなたともっと話がしたいし」
「私もジェニファーさんを知りたいと思って、待ってたんです」
「ジェニーでいいわ。私もタマキって呼ばせてもらうから。実を言うとね、私も、絶対あなたがケンジの部屋で待っていると確信してたの。ケンジったら、電話の後はずっとあなたの話ばかり」
「どうせ悪口ばかりでしょう」
「そうね」
環の笑みがすっと消える。
「ねえ、少し飲みましょうよ」
環がどこからかウィスキーを探してきた。
「ケンジは私といると、どこか気を張っているの。さっきも、そう。もっと楽しく飲めばいいのに」
ジェニーは水割りを二つ作ってテーブルに置いた。カンパーイ。
「タマキと二人の時は違うでしょう。もっとリラックスしているはず。あなたの飲み方見ていて、そう感じたわ。あなたの飲み方は陽気で、楽しくて。心が和むもの」
環は黙ってジェニーの言葉に耳を傾ける。
「私はいつも、男性に負けないようにしてきたわ。何事もね。ケンジにも、そういう私の気持ちが伝わるのね。ケンジは何にかにつけ私と張り合おうとするの」
ジェニーは残りをぐいっと飲み干して新しく水割りを作った。
「だからビジネスパートナーにはなれても、人生のパートナーにはなれないのよ。だって人生は互いに競い合って歩くものじゃないもの」
「どちらから声を掛けたの?」
「私の方かしら。彼と知り合ったのは五年前よ。直ぐ付き合うようになって、二年前に本社に戻ることになったの。シニアコンサルタントのポストが待っていた。魅力的なポストだった。
だけどケンジが望めば、私は日本に留まったかも知れない。でもきっと昇進を諦めたことを後悔する。それは確信だったわ。
帰国するも留まるも後悔する。それならばと、自分の夢に手を伸ばしたの。でも仕事と天秤に掛けた段階で、恋愛はもう終わってる。ただ自分への言い訳にしたかっただけなのよ」
「遠距離恋愛という方法もあったんじゃないの」
「そうね。でもね、会っていなければ心は遠ざかって行くと思う。肌を触れ合わせていなければ、心は通わなくなっていくのよ。そうなってから別れるのは嫌だったから。少なくとも私はね。だから帰国する時に決断したの」
「ニイニの気持ちは考えなかったの?」
「あの時は、それが最善だと考えたの。ケンジも、私のこと引き止めなかったから、同じ気持ちだと判断したの」
「ニイニは『言わぬが花』を美徳と考えていたのかも知れないわ」
「『言わぬが花』? どういう意味?」
「余計なことは言わない、あえて全部は言わない、ということに趣きがあったり、価値があるという意味の諺よ」
「そう。でもそんなもの美徳でも何でもないわ。言わないと伝わらないこともあるのよ。いいえ、伝わらないことの方が多いわ」
「私も同感です。ホント、ニイニは鈍感だから」
「正直に言うと、ジェニーのこと、もっと嫌な女性だと思っていました」
「どうして?」
「だって大きな声で電話に割り込んでくるから」
「あの時は、彼のテリトリーでお酒を飲んでいたのよ。話が盛り上がって、いい雰囲気になったら、冗談でも口説き文句の一つぐらい欲しいじゃない。そこに電話よ。出るのを躊躇うのは、相手が女性だからでしょう。直感よ。出たらとは言ったけど、本当に出るなんて。悔しいじゃない。だから態と聞こえるように言ってやったの」
「ごめんなさい。デートだなんて知らなかったから」
「違うの。実は、今日はケンジと、ヘッドハンティングの話をしていたの。でも振られちゃった。だからケンジとは、ビジネスパートナーでも、恋人でもないの。もうただの友達。
でもね、別れた相手でもね、一時でも好きだった人には幸せになってもらいたい。いい人生を送ってもらいたいの。そしてまたどこかで会ったら何の屈託なく笑い合える、そんな間柄でいたいの。これって、自分勝手かしら?」
「ううん。違うと思う。やっぱりジェニーさんって、とてもいい人ね」
「ごめんなさい。嘘よ、嘘。私、さっきから私ずっと嘘ばっかりついてる。私って嫌な女ね。別れた男の幸せなんて、誰が本気で願うものですか。さっきの電話のこともそう。誰って聞いても、健二は教えてくれなかったの。私につられてオーバーペースになって酔っ払ったところで、やっとあなたのことを聞き出したの」
「そうだったの」
「タマキは、幼稚園、小学校、中学校、高校と、ずっとケンジと同じだったのよね。あなた達は子どもの頃から共通の思い出があって、それが今も続いている。多分それはこれから先も。互いに年を取るに連れて、更に積み重ねられていく。素晴らしいことだと思うわ。
悔しいけれど、私はどう頑張っても二人の間に割って入って行けない。そんな余地がないもの。恋愛は、付き合った時間の長さじゃなく、密度だって思っていたけど、子どもの頃からじゃどうあがいても敵いっこないわね」
「それで、ジェニーは、この後どうするつもり?」
ジェニーは、それに応えず水割りをぐいっと飲み干した。
<続く>
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