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【連載小説】10 days (7)

4.三日目(月曜日)

4.1

「おい、今日は釣りに行くぞ」
 まったく健一の話は唐突で何の前触れもない。
「どこへ?」
 佑斗は言った後、直ぐ近くに海があるのに随分間の抜けた質問だったと後悔した。しかし健一は気にする様子もなく、
「俺の長袖のシャツと麦わら帽子を用意したから、それに着替えろ。少し大きいかも知れんが、袖をまくれば着られんことはないだろう」
 と食堂の椅子の上に置いた。日焼け止めを放り投げながら、いつもの命令口調は軽快だ。
「それから顔と首と腕には日焼け止めをたっぷり塗っておけ。お前もあいつと同じなら、直ぐ真っ赤になって、夜は痛くて眠れなくなるぞ」
 あいつとは、母親のことだと気づいた。だったら連れて行かなければいいじゃないかと思うが、健一にはそういう考えはないらしい。
「はい」
 佑斗は建一のシャツに着替え、長すぎる袖を捲りながら、一昨日車の中での母親の言葉を思い出した。

「おじいちゃん、本当は男の子が欲しかったのよ。きっと一緒に遊びたかったんじゃないかしら。子どもの頃、私はいつも男の子みたいな格好させられて、いろんな所に連れて行かされたものよ。だからユウ君も歓迎されるわよ」

 この家のルールだと言いながら、自分のやりたいことを押しつけてくる健一を見て、佑斗はそう思う。
 ――こんな風に自分の子どもと遊びたかったのかな。
 命令口調に時たまむっとすることもあるが、その一方で言われた通りにすればいいわけで、考えようによっては楽である。それに大人の男の人から、ああしろこうしろと言われるのは新鮮にさえ感じる。
 今は男の先生が、授業中に怒鳴ったり、手を上げたりしようものなら、直ぐにPTAに吊し上げられる。SNSで騒がれ、動画でもアップされでもしたら、テレビ番組にも取り上げられて、教育委員会も巻き込んで、学校を揺るがすほどの大問題になる。だから当たりさわりのないことしか言わない先生ばかりだ。大人にも子どもにも住みにくい世の中だと思う。

「おじいちゃん、愛想が悪いけど、機嫌が悪いわけじゃないの。それは照れの裏返しだから、気にしないで」
 とも。
 祖父も祖父なら、母も母だ。お互い相手を理解しているようで、どこか理解していない部分がある。似たもの同士とはそんなものなのかも知れない。

 それはさておき。

 坂を下って商店街を通る。
「ケンさん、今日は釣りかい?」
 声が掛かる度に、健一は手を振り声を上げる。
「ああ。いっぱい釣れたら、お裾分けしてやるよ」
「期待しないで待ってるよ」
「ケンさん。坊主の時は、帰りに寄りなよ。どうせまたあじだろう。用意しておくよ」
 これは『魚半』の親父だ。
 そんなやり取りもいつものことなのだろう。建一は適当に受け答えしながらさっさと歩いて行く。

「さあ、着いたぞ」
 漁港の防波堤に着いた段階で、佑斗は既にほどほど疲れていた。
 佑斗は日頃ほとんど運動らしい運動はしていない。それが一昨日昨日と炎天下、片道三十分強の坂道を往復している。思った以上に疲労が蓄積しているのを感じた。嫌々ながらだから尚更だった。帰りもまたあの坂道を汗だくになって上るのかと考えると、今から気が滅入ってくる。

 そんな佑斗の気持ちを知ってか知らずか、健一の声は弾んでいる。
「ぼやぼやしないで、支度をしろ」
 健一は防波堤の中程に陣取る。今日は平日だから、釣り人は少ない。顔見知りなのか、健一が手を振ると答えてくる人もいる。
「仕掛けは夕べのうちに用意しておいたから、そのまま使えばいいぞ。えさはその中だ」
 見たこともない長い虫が小さなタッパの中でうごめいている。健一はそれを指で摘まんで半分にちぎって針に刺し、残りの半分を佑斗に寄越した。佑斗は『郷においては郷に従え』と念仏のように心の中で何度もとなえながら、身震いをこらえてそれを受け取る。そいつは体を半分にちぎられたのに、まだ残った半分でくねくねと動いている。佑斗は虫が苦手というわけではないが、流石にそれを見た時は肌があわ立った。
 ――これは夢に出てきそうだな。
 躊躇ためらっていると、健一が小馬鹿にした声で聞く。
「どうした。虫が怖いか?」
「いいえ」
 佑斗は大きく息を吸い込む。意を決して、見よう見まねでそれを針に刺した。
「できたか。じゃあ、こうやって」
 健一が竿さおを振る。ちゃぽん。数メートル下の海面に波紋ができた。佑斗も竿を振る。
「ほう、初めてにしては上出来だ」

 すると、数分もしないうちに佑斗の浮きがコツンコツンと揺れた。
「今は、魚が餌を突いているんだ。急に浮きが沈んだら、餌に食いついた合図だから、それに合わせて竿を素早く上げるんだ。いいか」
「ケンさん、浮きが動いてますよ」
「まだ、まだ。未だ。よし今だ、引け」
 竿を上げると、十センチほどの魚が跳ねる。佑斗は思わず拳を振り上げて喜ぶ。
「やったーっ」
「まあビギナーズラックだな」
 佑斗に先を越されたのがよほど悔しかったのか、健一は負け惜しみを言ったきり黙ってしまった。一方、健一の竿には一向にあたりが来ない。佑斗は小一時間で十匹ほど釣り上げた。それを横目に建一は苦虫を噛み潰したような顔で糸を垂らしていた。

 そのうち、健一は竿を左手に持ったまま、
「おーい、師匠」
 と空いた右手を振る。自転車を押しながら近づいてくる男の子のことらしい。麦わら帽子、白いTシャツにデニムの短パン、足元はビーサン。シャツと短パンから出た小麦色の手足が、ひょろひょろと長い。荷台にクーラーボックスを積み、釣り竿は車体にくくりつけてある。
 健一を認めると、日焼けした顔に白い歯が覗いた。
「師匠って?」
「俺の釣りの師匠だ」
 男の子は、佑斗たちのそばまで来て止まると、
「ケンさん、師匠は止めてって言ってるでしょう」
 と口を尖らす。
 ――えっ。女の子?
 佑斗は驚いた。姿格好から男の子と思い込んでいたが、声は女の子のそれである。佑斗は改めて師匠と呼ばれた女の子の顔を見る。整った顔立ちをしており、くりっとした目がきらきら輝いている。佑斗と目が合った。佑斗の心臓がどくんと波打った。
「そうは言っても、俺の釣りの師匠に違いはないからな」
 師匠と呼ばれた女の子は佑斗に目をやった。
「あっ、これ。俺の孫だ」
 師匠は佑斗に向かって「こんにちは」と言った。
 佑斗はしどろもどろになりながらも「こんにちは」と返した。

「今日辺り、師匠が来るんじゃないか思ってたよ。おい、佑斗、もう少し離れろ。師匠、ここに竿を並べるかい」
 師匠は健一に目を移す。
「いいえ。今日はイサキを狙ってるの。潮の動きからすると、もう少し先端の方がいいみたい。それじゃあ、頑張って」
 師匠は軽く頭を下げると、自転車を押して堤防の先の方へ移動する。健一は、黙って、その背を見送っていたが、
「おい佑斗、竿を畳め。場所を替えるぞ」
「まだ一時間も経っていないよ」
「今年の春は夏並みの気温の日があったり、かと思うと北の方では雪が降ったりと変な天気が続いただろう。こんな年は潮の目がいつもとは変わるんだ。余り難しいことを言ってもお前には分からんだろうがな」
 健一はどこから仕入れたか分からない情報を披露ひろうしながら、師匠と呼ばれた少女の後を追った。

 佑斗は昼までに小鯵を二十匹以上釣った。健一はまだ師匠と竿を並べている。
「ケンさん、僕、そろそろ『サクラ』に行きますけど……」
「もう、そんな時間か。じゃあ、俺も店仕舞いにするか。じゃあ、師匠、またな」
 結局健一は坊主のままだった。ただ師匠と話したかっただけのようだ。


「まあ、すごい」
 ママが魚籠びくのぞき込む。
「これ全部ユウくんが釣ったの?」
「はい」
「ビギナーズラックってやつだよ」
 建一はここでも負け惜しみを繰り返した。
「明日は、これで南蛮漬けを作っておくわね」
「ママ、縁起直しだ。ビールを一本、お願い」
「そんなもので直るわけないでしょう」
「じゃあ、二本にするか」
「そうじゃないわ。逆よ。断酒して精進しなさいってことよ」
「それは無理だよ」
「ユウくん、いいこと。絶対こんな大人になってはダメよ」

 佑斗は昼食を食べ終えたらどっと疲れが出て、睡魔が襲ってきた。
 一時間ほど縁起直しをしてから帰ると言う建一を残し、佑斗は帰途に着いた。


4.2

 佑斗がソファでうとうとしていると、電話が鳴った。

 健一は基本的に電話には出ない。電話は掛けるもので受けるものではないと思っている節がある。
「留守中の電話には、出る必要はないぞ」
 続けて、「どうせ保険の勧誘とか、墓地の案内とか、まあどうでもいいような内容ばかりだからな」とも。

 佑斗は健一の指示通り放っておいたが、一向に鳴り止む気配がない。ベルの音が家中に鳴り響き、五月蠅うるさいことはなはだしい。返事するまで佑斗の名前を呼び続ける、酔っ払って帰った時の母親みたいだ。
 はい、はい、はい。返事をしながら、受話器を取ろうと手を伸ばした時、唐突に切れた。急に訪れた静寂に佑斗の耳はキーンと残響を残している。きびすを返しかけた時、再びベルが鳴り出した。佑斗は直ぐさま受話器を取った。
「もしもし。つくも出版の青木です。青木美咲です。もう、先生。いらっしゃるんでしたら、直ぐ出てくださいよ。私だって暇じゃないんですから」
 受話器を耳から優に三十センチは離れているのに、きんきんした声が飛び出してくる。
「先生、今日電話したのは、いつも月曜の朝に送って下さる原稿が、届いていなかったからなんです。いえ、締め切りはまだ先ですけど、私の仕事が遅いのを気にして下さって、いつも早め早めに送って下さるじゃないですか。それがなかったから、もしかして、先生、体調が優れないのかなとか、いろいろ心配になって……」

 立て板に水とはこのことだろう。口を挟む隙がない。
「あれっ、先生、聞いてます? 聞いてるんだったら、うんとかすんとか言って下さいよ」
「あのーぅ」
 佑斗はやっと声を出すことができた。
「はい?」
「先生というのは祖父のことでしょうか?」
「えっ?」
「祖父なら、生憎あいにく外出しています」
「えっ、先生じゃないんですか? 失礼ですが、どなたですか?」
「僕、孫で佑斗といいます。おそらく一時間ほどで戻ると思いますが……」
「ごめんなさい。ではその頃、掛け直します」


 ぴったり一時間後、美咲から電話が掛かってきた。
「先生、電話には早く出て下さいよ」
「いいよ、俺、気にしないから」
「気にして下さい。私が困るんですから」
「何か用か?」
「そうそう、昨日からファックスが送れないんですけど、何かしました?」
「何かしましたかって、俺がそんなことする訳……」
 健一は言い掛けて、先日電話器を入れ替えたのを思い出した。

「先生、何か心当たりがあるんですね?」
「いや何でもない。ところで用件は何だね?」
「先生から頂いた原稿にペンを入れさせてもらいましたので、確認してもらおうかと……」
「そうか。でも君が目を通してくれたんだろう」
「はい」
「それなら構わんよ。そのまま進めてもらっても……」

「ダメですよ。辻褄つじつまが合わない所も数カ所ありますから。先生、どうも変ですよ。何があったんですか?」
「いいや。何もないよ」
「では、これからファックス送りますから、先生の目でちゃんと確認して下さい。いいですか?」
 美咲はおいそれと引き下がりそうにない。健一は観念した。
「いやな、この間、朝起きたらテレビが壊れていてな。スイッチを入れても、画面が真っ暗のままで、うんともすんとも言わんのだよ」

「先生? 話が見えないんですけど」
「それでな、仕方ないから街の電気屋に行こうと思って、通りを歩いていたら……」
「先生! 作家なんですから、話は要領よくお願いします」
「古道具屋の前を通りかかったわけだ。窓の側に置いてあった電話機が目に入ってなあ……」
 美咲はやっと話が見えてきた。一旦尻尾を捕まえると、美咲の頭の回転は速い。
「先生、それをお求めになったんですね」
「そうなんだ。金曜の夜はそれの取付けで大変だった」
「分かりました。先生、一旦電話機を元に戻して下さい。ファックスを受信したら、またお気に入りの電話に戻してもらって結構ですから」
 美咲はてきぱきと指示した。

「先生、疲れていらっしゃいます?」
「ん? そんなことはないが。どうしてだ?」
「声の感じが違うから」
「何も変わらんぞ」
「そうですか。それならいいんですけど」
「じゃあ、十分後にファックス送りますから。いいですね?」
「分かったよ」
 健一は、黒電話から電話機コードを抜いて、ファックス電話に差し替えた。そして律儀りちぎにも電話の前でファックスが届くのを待っていた。きっかり十分後に電話器がうなり音を上げ始めた。次々に手直しされた原稿が吐き出される。健一は赤ペンを持って片っ端から目を通していった。

 三十分後。
 健一はファックスを数枚送った後、美咲に電話を入れた。
「一部書き替えた。後は美咲君の校正通りでいい。よろしく頼む」

 電話が終わるのを待って、佑斗は声を掛けた。
「ケンさん」
「ん。何だ?」
「ケンさん、一昨日、テレビはないし、見ないって言ってましたよね」
「ああ」
「でも、さっき壊れたって……」
「そんなこと、言ったか?」
「はい」
「まあ、偶にはニュースぐらいは見るさ。でも、テレビがなくても何の不便も差障りもない。そういうことだ」
 佑斗は何が『そういうこと』なのか分からなかったが、自分がいる間にテレビが直らないことだけは理解した。

<続く>


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来戸 廉
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