【連載小説】10 days (5)
3.二日目(日曜日)
3.1
「いつまで寝てるんだ。起きろ。もう六時だぞ」
佑斗は寝ぼけ眼で健一を見る。健一の不機嫌そうな顔を見て、自分が今どこにいるか思い出した。夕べ眠れなくて遅くまでラジオを聞いていたのだ。佑斗は飛び起きた。
「おはようございます」
「さっさと着替えろ。着替えたら、パジャマはきちんと畳むこと。ベッドメーキングもやること。いいな」
「ベッドメーキングって何ですか?」
「お前が寝る前、ベッドがどんな風になっていたか、覚えているか?」
「はい。何となく」
「じゃあ、覚えている限り、その何となくの状態にシーツやタオルケットを戻すんだ」
「はい」
佑斗は着替えて一階に降りた。
「じゃあ顔を洗って、そこの菜園で胡瓜とトマトをもいできてくれ。朝食はそれからだ」
健一は菜園の位置を指差しながら、佑斗にざると鋏を渡した。
「今日から帰る時まで、これはお前の係だ。いいか」
佑斗は黙って頷きかけて、健一の視線に気づき「はいっ」と答えた。健一が顎をしゃくると、佑斗は庭に出て菜園へ駆けていった。
朝食を終えて部屋に戻ろうとする佑斗を健一が呼び止めた。
「お前、俺に文句はないか?」
健一は昨日から気になっていた。
「文句って?」
「俺から、ああしろ、こうしろと言われて、お前が嫌じゃないかと思ってな」
佑斗は、昨日一日過ごしてみて、この様子なら後九日間、何とか我慢できると思った。
――このままでいい。なるべく面倒なことにしたくない。
「いいえ、別に文句はないです」
「そうか」
一方、健一は昨日一日佑斗と一緒にいて、このままではダメだと思った。佑斗の何ごとにも無関心な態度を少しでも何とかしなくては。だが、具体的にどうすればいいのか知恵が浮かばない。
ただ切っ掛けになりそうだと思えたのは、ママに抱きしめられた時の佑斗の反応だった。あの時佑斗は年頃の子供らしい表情を見せた。
――よし。できるだけ連れ回して、あいつの興味を人や外に向けさせよう。それにはまずスマートフォンの使用を制限させなくては。
健一はあれが佑斗を内向させる一番の要因だと感じた。
「ところで、それで、何をしているんだ?」
健一はスマートフォンを顎で差した。
「友達とSNSで連絡し合ったり、友達が撮った写真を見たり、ゲームしたり……とか」
「SNS? よく分からんが、それがないと、お前は生きていけないのか?」
「いいえ、そんなことはないですが……」
「ですが、何だ?」
「いいえ、何でもないです」
「じゃあルールその七だ。俺と一緒の時は、そのスマートフォンとやらをいじるな」
「でも……」
「でも、何だ?」
「いいえ、何でもないです」
佑斗は部屋に戻ると、ベッドに寝そべってスマホをチェックした。
母親からのメールはない。クラスメートのSNSも未読が多すぎて、読むだけでも一苦労だ。すっかり浦島太郎状態になっている。佑斗はしばらく画面を眺めていたが、ついにはチェックするのを諦めた。
3.2
昼近くになって、健一が階下から佑斗を呼んだ。
「年寄りの食べるものは、お前には物足りないだろう。お前の分の食料を買い足しに行くぞ。さっさと支度しろ」
佑斗はスマートフォンを無造作にジーンズの尻ポケットに突っ込み下りていくと、健一は玄関を出るところだった。
健一は佑斗を置いてさっさと坂を下っていく。佑斗は門扉を閉め、追いかける。
車がないから、買い物は坂を下って通りの商店街まで行く必要がある。バスも通っているが、朝夕の通勤通学帯は本数が多いものの、利用者が少ない日中は一時間に一本にまで減る。かと言って、なかなかその時間に合わせて買い物に行くのは面倒で、往復のどちらかまたは両方とも歩くことになる。時間に合わせて行動する、そんなことに煩わされるより、歩いた方がましだと健一は考えている。
佑斗は健一の背を追いながら、坂を下る。空がとても広い。佑斗の住む町は、都心ほどではないにせよ結構高いビルが建っている。いつも視野にビルが入り込む。ここでは風景から空を切り取るものがない。
「ケンさん、いつも手ぶらだけど、荷物はどうするんですか?」
「買ったものは、後で配達してくれるから、さして困ることはない」
今日の『八百八』は、息子に替わって女将が店に出ている。
「あら、あの子は?」
と健一から少し離れた場所に立って待っている佑斗を指さす。佑斗は相変わらず、背中を丸め眉間にしわを寄せて、スマートフォンの画面を睨んでいる。
「孫だよ、俺の」
「あらっ、あんな大きなお孫さんがいたの?」
本気で驚いたような声を上げられると、言外に「まだ若いのに」との言葉が見えて、お追従だと分かっても悪い気はしない。
「娘んとこの、長男坊だよ。おーい、佑斗」
呼ばれて佑斗が近づいて行くと、健一が「ルールその七!」と耳元で注意した。佑斗は慌ててスマホをポケットに押し込んだ。
「こんにちは」
それを見た女将が、
「可愛い子じゃない。いい男になるわね。血筋かしら」
「そんなことはないだろう」
健一を直接持ち上げずに、孫を褒める。テクニックだと分かっていても、健一は足元が数センチばかり浮いた気がする。女将はいつもながら商売が上手い。分かっているのだが、上手く乗せられて、健一は買う積りがなかった西瓜を「一つもらおうか」と告げていた。そんな客は自分一人ではない。いい気分にさせられて、この店の売り上げに貢献している同輩を何人か知っている。息子には未だここまでの接客はできない。
「後で届けておくよ」
健一や他の客と世間話をしながら注文を聞き、メモを取ることもないが、夕方には紛うことなく届けてくれる。このシステムには恐れ入る。
『八木ミート』の店主は八木浩介という。健一は魚主体の食事に変えたので、肉は週一程度しか摂らないことにしている。
「あれっ、ケンさん、今日は肉の日じゃないよね」
「そうなんだが、あいつがね……」
と言いながら、
「ほら、あれだ。孫を十日ほど、俺の所で預かることになったんだよ。若いのは、よく食べるからね」
と健一は道路の向かい側に立っている佑斗を顎で差した。
「へーっ、すらっとして格好いいじゃないですか」
「俺の若い時より落ちるがな。まだ中学一年なんだよ。どんな話していいのか、分からなくてな。まったく困ったもんだよ」
健一は、奮発してステーキ用の牛肉とハンバーグ用のミンチを頼んだ。
『フルーツパーラー橘』は同時にパフェや果物ジュースも販売しており、上手く『八百八』と住み分けている。
「ぼーや」
『フルーツパーラー橘』の小母さんが佑斗を呼ぶ。佑斗は気づかない。
「ぼーや。ケンさんちの」
佑斗が顔を上げる。小母さんが手を振って自分を招いている。自分が呼ばれていることに気づくが、「ぼーや」が気に入らない。健一も来いと手を振る。渋々近づくと、
「これ、持って行きな」
小母さんが、六百円の値札が立てられた籠から無造作に桃を一個掴んで差し出す。彼女の口調や所作がカタカナの店名にそぐわない所が愛嬌だ。
「いいのかよ。その籠だけ一個少なくなるぜ」
小母さんは気にする素振りもなく、
「いいんだよ。ここらじゃ、そんなこと誰も気にしやしないよ。さあ、子どもは遠慮なんかするもんじゃないよ」
「じゃあ遠慮なくもらっておけ」
佑斗は果物は嫌いではないが、ことさら好きでもない。皮を剥いて食べるのが面倒くさいと思っている。視線を感じて顔を上げると、健一と目が合った。健一は咳払いをしなが指を二本立てた。ルールその二ということらしい。
「ありがとうございます」
「なあに。いいんだよ。またおいで」
古道具屋『博聞堂』の前で叩きを掛けていた若い衆が声を掛ける。
「ケンさん、あれ、どうだった?」
確か青木と言った。この頃はリサイクルショップにまで手を広げている。若いがなかなかのやり手だ。
「ああ、随分時間が掛かったがな、何とか繋がったよ。ところであれのベルの音量は、調整できるんだろう?」
「そのはずだよ」
「そのはずって何だよ。売ったからには責任持てよ」
「ケンさん、そりゃあないよ。壊れてるかも知れないからって断ったのを、ケンさんが強引に持って行ったんじゃないか」
「あんなガラクタ、俺ぐらいしか買わないだろう」
「いや、そうでもないんだな、これが。この頃は、普通の若い娘が買っていくんだよ。不思議に思って尋ねてみると、可愛いからって言うんだぜ。可愛いんだってさ。で、そのまんま部屋に飾るんだってさ。あんな……」
その後に続く言葉を飲み込んで、
「また何か欲しいものがあったら、言ってくれれば、探しておくよ」
「お前、さっきガラクタって、言いそうになっただろう。まあ、それはいいや。悪いけど、さっきの件、調べて置いてくれないか。何せ五月蠅くて仕方ないんだよ」
廃業した店もある。シャッターが締めたままになっていると思ったら、そのうち更地になって、新店の建設工事が始まる頃には、ここには前に何があったのかもう忘れている。
「下駄屋だよ」
と教えられて、ああそうだったと思い出す。が次の日にはそれさえも忘れている。自分に関わりのない事、感心のない事は、記憶から消えていく速度が速い。が数日後には、また「何ができるのかな」と話している。
だがいつまでもそんなことを思い煩っていられるほど、人生は長くない。
長い挨拶行脚を経て、やっとバー『サクラ』に着いた。
「ママ、また来たよ」
「待ってたわよ。さあ、入って」
健一はそっちのけで、ママは佑斗の手を取って招き入れる。佑斗は昨日のことを思い出して身構えたが、今日はハグの洗礼はなかった。
「『魚半』から金目の良いのを持って来てもらったから、煮付けにしたのよ」
「ママ、そこまでしてもらって、いいのかい?」
「ユウくんのためだから、いいの。気になるんだったら、ケンさんがその分飲み代で落としてくれればいいわ」
佑斗が気を抜いていると、ママに「やっぱり可愛い」と抱きしめられた。咄嗟体をひねったら、右の頬がママのおっぱいに押し付けられる格好になった。恥ずかしいが、柔らかくて、冷房で冷えたママの体が冷やっこくて、佑斗の汗ばんだ体にはとても心地よかった。ママは昨日と違う香りがした。
間を置かず、佑斗の視界の中で健一が手を開いた。
――ルールその五? この状況で『自分のことは自分でやれ』って、どういうこと?
佑斗が困惑していると、手のひらが激しく前後に振られた。
――何だ、早く離れろと言うことか。
佑斗は苦笑しながら苦労してママの手を解いた。
「ご飯、お代わりしてね。ユウくん、遠慮しちゃあ、だめよ」
ママは佑斗の前に付きっきりで、佑斗のご飯茶碗が空くのを待っている。
「じゃあ、お代わりお願いします」
ママがいそいそと給仕するのを健一は端で見ていた。自分が置いてけ堀にされたようで面白くない。
「ママ、ビールをもらえるか?」
「いいけど、ビール代はきちんと戴くわよ。割増しでね。昨日の分も付けておくわね」
「ママ、それはないよ」
「何、言ってるの。昼間からお酒なんか飲んでたら、お天道様に申し訳ないでしょう。だから、割増しよ」
「だってママは、お天道様じゃないだろう」
「いいえ。お天道様みたいなものよねぇ、ねえ、ユウくん?」
ママと健一の意味のないやり取りが、佑斗には何か新鮮なものに思えた。
健一は絶対ママには勝てない。佑斗は可笑しくなった。
<続く>