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【ショート・ショート】電車にて
電車に一歩乗り入れた途端、私は打たれたように立ち止まってしまった。反対側の席で本を読んでいる男性。間違いない。青春時代、夫と知り合う前のほろ苦い思い出。今ではもう思い出すことはないけど、決して忘れることも出来ない人。
「どうしたの?」
娘の声で我に返った。
「ううん、何でもない」
あの人の向かいの席が空いている。私は躊躇したが、娘が促すので、仕方なく並んで座った。だが私は気が気ではない。
娘に付き合って、隣町まで買い物に来ただけ。こんなことなら、もっとちゃんとした服装で来るんだった。髪は纏まっているかしら、化粧は大丈夫かしら。私の全神経はずっと正面を向きっ放し。娘の話は耳をすり抜けていく。
と、その時。あの人が顔を上げて私の方を見た。視線が合う。私の心臓は早鐘を打つ。しかしあの人は何もなかったようにまた本に目を落とした。
よかった。でも私、そんなに変わったかしら。
私は安堵と同時に寂しさを覚えた。
「ねえ。おかあさん、ちょっと変よ」
娘が脇を小突く。
「えっ、何が?」
「さっきから、ボーッとしてる。私の話に上の空じゃない」
「そう? 疲れたのかしら。年ね」
「あらあら。都合のいい時だけ、年寄りになれる。ちょっとした特技ね」
娘の嫌みを聞き流し、ちらっちらっと盗み見る。
変わっていない。あの頃と同じ。少し長めの髪は、白いものが増えたようだけど、それはお互い様よね。ロマンスグレーって言ったかしら、似合ってる。高そうな渋めのスーツ。金の腕時計も値が張りそう。やり手だったから、今頃は出世して部長ぐらいになったのかしら。
逃した魚は大きい。上手くすれば、私は部長夫人だったかも。
あら、嫌だ。私何考えているのかしら。
えっ、ほくろ?
男性が何かの拍子に横を向いた時、右耳の下に大きな黒い点が見えた。
あっ、違う。あの人じゃない、あの人じゃないわ。
そうよねぇ、そんなはずはないもの。
外見には気を遣う人だったから、あんなごま塩みたいな髪を染めないわけないわ。それに、あの背広の色はないわね。おまけに金ぴかの腕時計、ちょっと悪趣味だし……。
膨らんでいたものが急速に萎んでいく。
「ねぇ。さっきの服、やっぱり買えばよかったかしら」
「何言ってるの。私が散々勧めたのに、まだいいって言ったの、誰よ」
「来週、もう一度行ってみようかな」
「好きにすれば。私は行かないわよ」
アナウンスが、間もなく駅に着くと告げた。
ホームに降りて並んで歩く。
「実はねぇ……。いや、何でもない」
「何よぉ、気になるなあ」
娘が私の腕を引っ張る。
「何でもないの」
ときめいた心がまだ燻っている。
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