【短編】味 その2
(3,682文字)
貴之から、会って欲しい女性がいると告げられた時は、幸代は夫より先に「いいわよ」と答えた。いずれこんな時が来るとは思っていた。遅いくらいだ。
しかし初めて由紀子さんに会った瞬間、
――息子を盗られる。
と思った。自分でも驚いた。嫉妬だと分かったが、自分では認めたくなかった。頭で理解していても、心の反応はそう単純ではないものだ。
貴之は東京の大学を卒業して、そのまま東京の企業に就職した。そして東京で知り合った娘と結婚した。
幸代には貴之の嫁になる娘にはと、自分なりに考えていたこともあった。それができなかったことが心残りだった。
息子の結婚から三ヶ月ほどして、幸代は二人の新居に招かれた。
玄関で出迎えた貴之が開口一番、
「母さんから段ボールが送られてきた時は驚いたよ」
と言った。
「あら、そう」
幸代は貴之の横をすり抜けて三和土に立った。由紀子は上がり框で膝をついて待っていた。
「お義母さん、今日はご足労頂いて……」
言葉は丁寧だが、由紀子は幸代から視線を外さない。
「……ありがとうございます」
「由紀子さんの手料理が頂けると聞いては、千里の道も苦にならないわ」
二人の静かな挨拶を、貴之ははらはらしながら聞いている。
幸代が食卓に着くと、由紀子はすぐに『へそ大根の煮しめ』※が盛られた皿を置いた。
――小競り合いもなしで、いきなり本戦かよ。
貴之は天を仰いだ。
「貴之さんが、味を見てくれたんですよ」
「そう」
息子が舌で覚えていた味を、嫁が再現したと言う。幸代が一口運ぶ。
「どうだよ、俺はいいと思うけど……」
貴之は応えを待ちきれずに尋ねる。由紀子は幸代の口元辺りを見つめたままだ。
「うん、……」
*
二ヶ月前のことだった。
「貴之さん、お義母さんから、こんなのが送られてきたんだけど……」
由紀子が段ボールを開けた。
「これ、何?」
「へそ大根と凍み豆腐、……みたいだね」
「へそ大根?」
「昔ながらの保存食だよ。実家の辺りではよく作られているんだ。お袋がよく煮しめにしてくれたよ」
貴之の話を聞いて、由紀子は困惑した。手紙も電話もなく、いきなりこんなものを送りつけてきた義母の真意が分からない。
「私に、それを作れって……ことよね」
「そんなことはないだろう。電話で聞いてみようか?」
由紀子は暫く考えていたが、これは義母からの挑戦状だと受け取った。
「ううん、取り敢えず自分だけでやってみる。貴之さん、協力して」
貴之はことある毎に「お袋は……」と話の頭に付ける。それが耳につく。実際はそれほど多くはないのだが、由紀子にすれば面白くない。
貴之の心を完全に自分に向けるには、一度は通らなくてはならない道だと由紀子は思った。
由紀子の闘いが始まった。
まず料理レシピが公開されている幾つかのサイトで、『へそ大根のにしめ』について調べた。
「これを見る限り、一緒に煮しめる物は、家庭によってかなり違うみたいなの。何が入ってたか、あなた覚えてる?」
「うーん、どうかな。そんなこと、意識して食べていなかったからな」
それでも貴之は懸命に思い出して、
「しいたけ、だろ。それに里芋。人参も入ってたな。こんにゃく、昆布、それに緑色の豆、あれは何だったんだろう。笹かまぼこもあったかな」
由紀子はメモを取りながら、「昆布? 出汁に使うの?」と聞く。
「いや、巻いたのを食べてた」
その日から毎日、由紀子は『へそ大根のにしめ』を作り続けた。具材の切り方、大きさ、煮る時間など条件を色々変えては、貴之に味見をしてもらう。
「どう?」
「ちょっと薄いかな」「ちょっと塩っぱいかも」
失敗の連続。それが由紀子の負けん気に火を付けた。初めて見る一面に、貴之は少し驚きを覚えた。
貴之も味見しているうちに段々と母の味を思い出し、それに連れて指摘も細かくなり厳しさを増す。
「大根が柔らかすぎる」「凍み豆腐の味が薄い」「ちょっと人参が固いかな」
「ちょっと言い過ぎじゃない」「少しは褒めてよ」
由紀子の心が折れる前に、送ってもらった材料がなくなった。
幸代が荷物を送ってから一週間後。由紀子からの電話を受けた。お礼が遅くなったことを詫びた後、
「……また、へそ大根と凍み豆腐を送って頂けませんか?」
「いいわよ」
幸代は特に理由を尋ねることもなく、前回より多くのへそ大根と凍み豆腐を送った。
由紀子には義母からの荷物が届くまでの間にやりたいことがあった。今まで試して幾度となく修正したレシピの確認だった。
どうしても貴之が言う味にならない。悔しさ、焦りが顔に滲む。そんな彼女を見て、貴之が
「そんなにお袋の味に拘らなくてもいいよ。由紀子は由紀子の味でいいさ」
由紀子ははっとさせられた。貴之は続けて、
「僕は、子供の頃、体が弱くて、よく風邪を引いては熱を出してね。やせっぽちで、背も低くてね。そこへ好き嫌いが激しく、食も細いときては、もう救いようがないだろう」
由紀子は始めて聞く話だった。今の貴之を見る限り、想像も出来ない。
「でね、『へそ大根のにしめ』は、僕が食べられる数少ない料理の一つだったんだ。お袋はね、それに色々ぶち込んで、僕が必要な栄養を十分摂られるよう工夫してくれたんだ」
「……」
「お陰で、めったに風邪も引かなくなったんだ」
この通り。貴之は腕まくりして力こぶを見せる。だが、由紀子は途中から話を聞いていなかった。義母の貴之に対する愛情を知って、料理への取り組みを変えた。
義母と張り合う必要はない。私がその愛を引き継げばいい。
料理サイトのレシピでは『鍋にすべての材料、だし汁、調味料を入れて火にかけ、沸騰したら弱火にして汁気がなくなるまで煮る。』とあったが、それでは煮込みすぎて青物などのビタミンが壊れてしまう。
そこで具材毎に別々の鍋で煮て、火にかける時間と味付けを替えた。そして、食べる直前にそれらを鍋に移して一煮立ちさせた。味付けや食材の固さは貴之の好みに合わせた。
幸代は荷物を送った後で、貴之が子供の頃のことを思い起こしていた。
その頃、幸代は医食同源を念頭に、貴之の虚弱体質を改善しようと考えて、病院の栄養士から助言を受けたり、料理学校にも通った。だが失敗の連続で途方に暮れていた。
夫の実家に正月帰省した時のこと。貴之が『へそ大根のにしめ』をお代わりしているのを目にした。目から鱗。
なんのことはない、答えは目の前にあった。貴之は、夫の食の遺伝子を受け継いでいる。
これならいけると直感した。
幸代はすぐさま姑に教えを請うた。
姑は厳しい人だった。料理に関しては特に。昔、小料理屋で働いていたことがあったらしい。
教えられた通りに作っても、姑と同じ味にならない。作っては叱られ、作っては叱られ、人知れず何度も泣いた。何度目かの挑戦の後、姑から聞かれた。
「あなたは、これを、誰に食べさせたいの? 誰に食べてもらいたいの?」
幸代は、はっとさせられた。肝心なことを忘れていた。それまで私は、姑と同じ味が出すことばかりに細心していた。そんなものが美味しい訳がない。
夫に、誰より貴之に食べてほしい。お腹いっぱい食べてほしい。
そんな思いを込めて作った。教わった分量から、夫の好みに合わせて少しずつ加減した。
姑は、「まあまあね」と誉めてくれた。そして、それまで一口しか食さなかった料理を、きれいに平らげてくれた。
「料理は生き物なの。レシピは、あくまでも目安。調味料の量も、具材も同じにする必要なんてないのよ」
幸代の震える肩をそっと抱きながら、姑は続けた。
「私とあなた、味が違って当然なの。愛する人に心が伝えられれば、それでいいのよ」
その時から素直に「お母さん」と呼べるようになった気がすると、幸代は思う。
*
「……ちょっと甘い気もするけど、それは貴之の嗜好のせいね。まあまあよ」
幸代は、じっと由紀子を見る。
幸代は、将来貴之の嫁になる娘には、姑から教わった味を伝えたいと思っていた。それを由紀子は独力でものにした。しかも自分と同じ道筋を通って。
――直伝できずに残念だったけど、これであなたに貴之を任せられる。
そんな思いを込めた「まあまあよ」だった。幸代は皿を平らげて箸を置いた。
「まあまあだってさ。しょってるよな」
貴之は、落ち込まないよう慰めているつもりだろうが、由紀子にはその言葉の真意が伝わったようだ。
「お母さん……」
由紀子の目から、涙が溢れてきた。
「ちょっと止めてよ。私がいじめたみたいじゃない……」
幸代も胸に熱いものがこみ上げてきた。
「どうしたんだよ、二人とも……」
貴之は、泣きじゃくる妻と目頭を押さえる母親を交互に見ている。
幸代は、娘を持てた喜びを噛みしめた。
※『へそ大根のにしめ』は宮城県南地域の郷土料理です。