感動しなくなることが怖かった
はじめに
ずいぶん前のフェスで10-FEETのライブを見ていた時、こんなことを言っていた。
あの頃は感受性が恐ろしく強かったので全然ピンと来なかったけど、なんとなくずっと覚えていた。そして時空をこえて今のわたしに突き刺さっている。
この感動が今日言いたい感動と同じものを指しているかわからないけど、ここでは、感動=胸が高鳴る、それしか考えられなくなる、ワクワクが止まらなくなる などの意味で使うこととする。
感動しない日々
最近本当に何かに感動することが少なくなった。雷に打たれたような衝撃や頭の中を占領される感覚を忘れてきている。反対に、幸せだな、穏やかな日々だな、心地いいな、と思うことは増えた。
趣味や遊びはいつでも楽しいけど、すべてが日常に振り分けられてしまう。贅沢な悩みかもしれないけど、物足りない気がする。寂しい。子供の頃の、放課後が待ち遠しい感覚はもう味わえないのか。
今までの感動を振り返る
第一次プレステ期
わたしは子どものころ心底ゲームが好きだった。それはプレステをクリスマスに買ってもらってから加速した。学校から帰ってきてから夜ご飯に呼ばれるまで、食べ終わってから寝るまで家にいる間はずっとゲームをしていることもあった。
学校にいる間もゲームのことを考えると嬉しくなった。頭の中でクラッシュ・バンディクーは走っていたし、ポチポチと反発のあるボタンの感触を思い出していた。
そこまでちゃんと低学年の頃を覚えてないんだけど、友達はたぶん結構いた。けれど人見知りだし気を使って疲れちゃうので、1人で遊ぶのが楽だった。
美術大好き期
絵を描いたり工作したりすると時間を忘れて没頭できる子どもだったと思う。時間をかけるほど美しくなっていくのが楽しかった。夢中になってやると褒められるからそれも嬉しかった。今も物を作るのが好きなのは変わってないけど、あの頃ほどの熱量がない気がしてしまう。仕事の息抜き、という感じがどうしてもする。明日にはまた日常に戻ることをどこかで意識してしまう。
あいうえお作文期
全国共通かわからないんだけど、「いつ」「どこで」「誰が」「(誰と)」「(どのように)」「どうした」にそれぞれ担当を割り振って、面白い展開になりそうなワードを紙に書く。集めたらつなげて読んで笑う、という遊び。
中学生の頃、わたしの家に仲の良い子たちで集まって狂ったように毎日してたし、吐くくらい笑った。だいたい先生とか、学校で起きたこととか身内ネタなんだけど、身内ネタほど楽しいものはない。文章という新しいおもちゃを見つけた。
書いてから思ったけどこれはかなり今に近い。というか大喜利も始めて1年くらいは感動していたのを思い出した。2年目くらいから急に日常に組み込まれてしまった。常に新しくいないと感動は立ち消えてしまうのだろうか。
そのほかにハマっていたものは端折るけど、ぱどタウン期、第二次プレステ期、恋愛期、飲み会期、YouTube期などがあった。感動できるものがあると日常がぱっと明るくなる。
今思っていること
もしかしたら「過去と同じ対象物」にはもうワクワクしないのかもしれない。だとしたらとても残念だ。いやだ。ゲームで頭をいっぱいにしたいし、恋愛で頭がお花畑の世界にいたい。けれど、たぶん大人としての社会性を身につけてしまったら、バランスが取れてしまうのだと思う。
でもこの先にも、きっと新しいタイプの感動があるのではないか。というかあると信じたい。
それはもしかしたら、やりたかった仕事に取り組む時かもしれないし、大喜利でめちゃくちゃウケ続けるゾーンに突入することかもしれないし、結婚するとか親になるとかライフステージが変わることで起きるかもしれないし、科学技術の進歩によってレディ・プレイヤー1の世界が訪れる時かもしれないし、おばあさんになったわたしが急に鉄棒に夢中になるとか、そういった自分側の感受性の変化で起こる話かもしれない(そうすると早朝に鉄棒しているおばあさんの説明がつく)。
前みたいに趣味に夢中になれないのは寂しいけれど、現在の自分が求めていることを素直にやっていった先に新しい自分の新しい感動が待っているはずだ。
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