「人に迷惑をかけないように生きる」について考える | 哲学
こんにちは! くるくるぼっちです。
なんだか暖かくなってきましたね。今日は風が強くて窓の外からヒューヒューと高い声で鳴いているような音が聞こえてきます。
さて、タイトルにもありますように、今日は、「人に迷惑をかけないように生きる」ということについて考えてみました。
先日、友だちと話していて
という話になりました。
その言葉に対して、わたしは、
と言いました。
迷惑とは
調べてみました。迷惑とは、自分が主体で成り立つ言葉なんですね。
自分がした行為がもとで、他の人が不利益を受けたり、不快に感じること。つまり、基準は相手にあるということですね。
迷惑の中身
「迷惑」という二文字には一体何が入っているんだろう?
「迷惑をかけない」の「迷惑」中には、社会のルールや法律、規則、所属している団体や組織のルールが入っているのだろうと考える。
そこから一脱しないこと。それらを戒めているのだと思う。
つまり、常識から外れるな。ということではないだろうか。
それはごもっともである。
もう一つの迷惑
先ほどは、自分が誰か他の人に対してかける「迷惑」について考えてみたが、今度は、受ける側から見た「迷惑」について考えたい。
「迷惑を許す」は、こちら側の話だったかもしれない。
「迷惑をかけない」とは、似ているようで、少し世界線が違う。
これには前提が必要だなあと思う。
社会からの一脱や、ルール違反、価値観の相違から生まれる不快感や、不利益についてそれらを行うこと全てにおいて迷惑と感じるかどうか。ということを考えると必ずしもそうではないと思うのだ(もちろん、法治国家である以上、法律は守らないといけないけどね)。
それらの価値観を踏まえた上で、こちら側の迷惑には、社会通念上のルールや法律よりも、身近な人の感情が基準になっている気がする。
誰にとっての迷惑か
「迷惑」の二文字には、抱えきれないほどの情報が含まれている。
きっと、本人にとっては重すぎる二文字である。
その間の言葉がなぜないのか。そう思った時、日本人らしいなあと思った。
わたしたちの安全はもしかしたらこの強すぎるほどの他人基準の概念に守られてきたのかもしれない。
その中で、わたしの心の中に生まれた小さな愛しさがあった。
「他人に迷惑をかけない」っていう言葉が、しわくちゃのおばあさんの手のように感じたからである。
わたしは「他人に迷惑をかけないように生きたい」とは言わない。
なぜなら、わたしは好きなように生きているから。
だからわたしは「迷惑を許せる人になりたい」と思う。
子どもに言う、「他人に迷惑をかけてはいけないよ」と言う意味と、大の大人が言う「他人に迷惑をかけないようにしなくては」は意味が違うと思っている。
わたしの友人のように、真面目できちんと働いて納税している人が、回転寿司でお皿をぺろぺろしたりはしない。そんなこと大前提での「迷惑」と言う言葉にどれだけ自分を律して生きているのだろうと考えてしまう。
そこにたくさん働いてしわくちゃになったおばあさんの手が重なって愛しい気持ちが生まれたのかなあと思う。
まとめ
「迷惑をかけないように生きたい」と言う人の気持ちがなんかすごく優しいなと思った。そういう人が、「身勝手なことはできない」と自分のやりたいことや大事にしたい気持ちまで押し込めてしまわないといいな。とも思った。
もし、わたしの大事な人が、自分の気持ちを大事にした結果、「迷惑をかけるかもしれないけど、、、」ってなった時は、「大丈夫だよ」って応援できる自分でありたいなと思った。
生きていくのに、どっちがどっちっていうこともないし、両方必要なんだろうなと思った。
「他人に迷惑をかけない」と「他人の迷惑を許す」
この二つはセットでひとつにしたい。
もし、カテゴリ分けをするのであれば、本当の迷惑とそうでない迷惑を二分化する言葉があるといいなと思った。
概念はあれど、言語がない。これは社会の成熟度にも関わってくることだと思った。概念だけでは思考が難しい。言語があって初めて思考が整理されるんじゃないかな。
日本語にないだけで、別の言語にはもしかしてあるのかもしれない。
生きているうちに出会えたらもうちょっと考えがまとまるのかもしれないね。
ってことでおしまい。
追記
「迷惑をかけない」の中に。もう一つの軸を見つけたので追記する。
社会と個人である。
「迷惑をかけない」の中には、社会全体の秩序というものが深く関わっている気がする。
逆に、「迷惑を許そう」は個人の感情に大きく関わっている気がする。
なので「迷惑」という言葉は、もっと細分化できると思う。
おわり。
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