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9. 本はインスパイアする! 奥津敬一郎 『「ボクハウナギダ」の文法  ダとノ』  くろしお出版 1983 [1978]

やっかいな「ダ」

日本語の文型には、動詞で終わるいわゆる動詞文と、ダで終わる名詞述語文がある。ダ文は、「あの人はいつも元気だ」というような形容動詞文を含み、ダが省略される場合もあるが、さしあたり、次のタイプが思い浮かぶ。
(1)人間は感情の動物だ。(判断文、主題導入文、コピュラ文)
(2)今日の当番は僕だ。(分裂文)
(3)(今日は何定食にする?)僕は、魚だ。
(4)どうせのろまだよぅ……だ。

この中で、まずダ文として思い浮かぶのは、やはり、ダがコピュラ(繋辞)としてトピックと述語部分を結ぶ(1)の文であろう。これは比較的わかりやすい。(2)の分裂文も、コンテキストを考慮に入れると納得がいく。焦点を先に提示し、それに情報が続くという形である。

しかし、(3)の「僕は、魚だ」は、いろいろに解釈できる。(3)の社員食堂でどんな定食を選ぼうかと仲間と会話する場面以外に、例えば劇に魚の役で登場することになったと報告する場合、自然保護運動で特に気になっている対象を聞かれた場合、そして、いろいろなペットの中から、飼うとしたら何を選ぶかと聞かれた場合、などが考えられる。(あと、可能性があるのは……さかなクン? 彼が演じるキャラクターなら、時と場合によって、そう言ってもあまり違和感はないような。笑)

このように、ダ表現は、コンテキストによっていろいろと解釈できるため、文法上の性格付けやその機能について、疑問点が多い。ここで登場するのが、世に言う「うなぎ文」である。

本とのめぐり逢い

手元にあるのは、くろしお出版さんによる、奥津敬一郎著『「ボクハウナギダ」の文法 ダとノ』の1983年版である。表紙とカバーのデザインには、大きく、くねっと曲がって上を見ている不思議なうなぎの絵があり、一体どんな内容なのか、と手に取ってみたくなる。筆者が買い求めたのは1980年代中期だっただろう。この本のおかげで、日本語研究者の間では、「ウナギ文」の知名度が一段と上がったように思う。

奥津は、ダはいわば動詞の代用として文の述部を成す、と言う。ただし、代用には条件がある。「一体 オ前ハ ウナギヲ 食ベル ノカ 食ベナイ ノカ」という質問に「ボクハ ウナギダ」で答えることはできない、と奥津は指摘する(p. 30)。これは、ピントが外れているからである。この質問ではうなぎが前提となっているので、焦点は食べるか食べないかにあり、このようなコンテキストでは代用できない。しかし、代用できる場合は実に多くあり、その意味はあいまいではあるものの、確かに述部として機能する。ダはやっかいであるだけに、その分、便利な(代用)動詞、述語なのである。

ダを文法的に性格付けると、時枝文法でいう「詞」と「辞」の間で揺れ動く。具体的には、情報を提供する詞なのか、陳述を表現する辞なのかという議論である。奥津は、動詞を代用するダには具体的な情報が隠されているため、詞であるとする。時枝誠記はダはあくまで辞であるとし、辞が詞を包み統一するという入子型構造の中で重要な陳述の機能を果たすとしている。

ダは、いったい何者なのか。なぜ日本語には、こんな表現があり、それがしばしば使われるのか。本書には、(机上の言語学者が例文としてとりあげるお決まりのものではない)興味深い例文が多くあり、その漢字カタカナ表記の例文を、そうか、こんなことも考えられるなあ、と納得しながら読んだことを覚えている。

本がもたらすインスピレーション

ところで、(4)の、「どうせのろまだよぅ……だ」のダについては触れてこなかったが、ここでダは一体何のために使われているのだろう。この表現は、例えば、食事の席で、みんなが食べ終わっているのにまだ半分も食べてないため、友人に「まだ終わんないの?」とせかされて、ムッとして言い返す場面で使われる。その場の雰囲気がどうなるかはさておき、日本語研究者にとって問題なのは、ダが2回使われている事実である。

筆者は、ひとつの解決策として、ダを「情報のダ」と「情意のダ」として、異なる機能を捉えることにした。情報のダは詞であり、コピュラとしての機能を果たす。 情意のダは辞であり、話し手のアイデンティティ表現として機能する。この性格付けは、使用される場によってそれぞれどちらの傾向がより強く出てくるかが交渉される、という筆者の「場交渉論」の枠組みから捉えたものである。(詳細は、『マルチジャンル談話論 ―間ジャンル性と意味の創造』などを参照)

このアプローチで、「どうせのろまだよぅ……だ」の最初のダは情報のダ、発話末のダは情意のダとして捉えることができ、詞的な要素に辞的な要素が続くという日本語の叙述プラス陳述という形態に矛盾しない。他にもこの類の文には、ダが動詞文の後に続く「そんなこと簡単にわかるよ~だ」や、感謝の発話行為の後にダが続く「どうも…… サンキューでした」などがあり、これらの現象も情意のダという視点から説明できる。奥津の名著を手にした日から何年かが経過した頃、筆者が上記のダの性格付けに至ったのは、遠い記憶の中のあの不思議なうなぎの姿を思い出したからかもしれない。


■この記事の執筆者
泉子・K・メイナード(Senko K. Maynard)
山梨県出身。AFS(アメリカン・フィールド・サービス)で米国に留学。甲府第一高等学校およびアイオワ州コーニング・ハイスクール卒業。東京外国語大学卒業後、再度渡米。1978年イリノイ大学シカゴ校より言語学修士号を、1980年ノースウェスタン大学より理論言語学博士号を取得。その後、ハワイ大学、コネチカット・カレッジ、ハーバード大学、プリンストン大学で教鞭をとる。現在、ニュージャージー州立ラトガース大学栄誉教授(Distinguished Professor of Japanese Language and Linguistics)。会話分析、談話分析、感情と言語理論、語用論、マルチジャンル分析、創造と言語論、ポピュラーカルチャー言語文化論、言語哲学、翻訳論、日本語教育などの分野において、日本語・英語による論文、著書多数。
くろしお出版から刊行の著書

■この記事で取りあげた本
奥津敬一郎 『「ボクハウナギダ」の文法 ―ダとノ』
くろしお出版1983 [1978]
出版社の書誌ページ

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