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画像連想短編「立てない男」

 この狭い空間から出られなくなって、どれだけの時間が経っただろうか。時計は置いていない。後ろの小窓からすりがらす越しに射す光は、少し陰ってきていた。
 何のことはない。食後しばらくして、催し、トイレに入った。便座に、腰を下ろす。
 今どき、電気で便座を温められる製品はいくらでもあるのに、何故それに替えないのかと後悔するのも幾度目か。露出した肌に、冷え切った座面が触れた。
 ばきん。およそこの場所では聞きなれない、何か陶器のものにひびが入るような、そんな高くも厚みを帯びた音が反響した。同時に、尻に微かな衝撃。思考が停止した。停止した思考が再び動きだすまでの数瞬、脳裏には過去の映像が駆け抜けていた。それは、あるいは走馬灯のようなものであったろうか。
「あなた、少し痩せたほうがいいんじゃない。いつか大病を患っても知らないわよ」
「まだ大丈夫だよ。生まれてこの方病気なし、健康そのものさ」
 呆れた、とため息をついて去っていく妻をちらりと見てから、目の前のテレビに向き直る。
 夕食後、ソファに寝転んでバラエティー番組を見るのが日課だった。べつに好きな番組があるとか、好きな女優が出ているとかではない。ただの、暇つぶしだった。
 けれど、ちょうど肥満症をとりあげた番組がやっていたので、記憶に残ったらしい。それによって引き起こされる病気がどうだとか、確かそんな内容である。
 男はそれを、鼻で笑った。自分には関係ないことだ、と思った。
 おそらく尻の下で割れているであろう便座に意識が向く。立ち上がったと同時、がらがらと音を立てて崩れる便座の映像が脳裏に浮かんだ。
 シュレディンガーの猫、という有名な思考実験を思い出す。この場合、男は箱で、便座は猫である。男が立ちあがるまで、便座の状態は不確定だ。それが確定してしまうのが、たまらなく怖かった。
 狭い密室、重い暗闇、男はまだ立てないでいる。

ぱくたそ[ https://www.pakutaso.com ]

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