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家族が認知症と診断された時の心は、まさに梅雨空だった(後編)

コロナ禍でコロナ離婚が増えているという。結婚式の祝辞でよく「夫婦は片目をつぶって見る」と言われるが、これだけ長い時間を家で過ごすと、片目だけでは見ていられない。それじゃ生活が成り立たないから、知らない間に、お互いのやることをガン見している。そうなると、相手の一挙手一投足が気になり、イラつき、我慢ならなくなる。そんなわけで、やはり夫婦というのは、ほどほどの距離が良いという結論に至る。

かくいう我が家の父も、認知症を発症した母に対して、しつこいほどの観察が始まった。あら捜し決定戦とも言えるほど、当初父は母のあれこれをチェックしていた。

今思えば、認知症と認めたなくないことへの反動が、そんな行動に出てしまったのではないかと思う。なんとか間違いを正し、治したいという一心だったのかもしれない。今ならそう思うこともできる。しかし、そうされた母の方はたまったものではない。第一、母自身だって、自分が病気だと納得できていない。さらに認知症になってからの母は、歯に衣着せぬ物言いが増えていたので、もうそれはギクシャクを超えて、激しいバトルが繰り広げられるようになった。お互いを傷つけあいながら、この頃母は、「もう離婚する」と啖呵を切ることが増えていった。しかし、そこまで怒ったことも時間が経てば忘れてしまう。その暴言を言い放たれた父の中にだけ、グサグサと辛らつな言葉が突き刺さっていく。自分の言動を片っ端から忘れていく母とは裏腹に、父は認知症との闘いというより、理性との闘いだったように思う。

見たくない現実との葛藤。父にとっての修行の日々が始まる

今なら、あの頃の父の気持ちにもっと寄り添ってあげれば良かったと思える。だが、当時の私たちは、ついつい母の認知症にだけ目が向いてしまい、その時の「父の辛さ=配偶者が認知症になる」という悲しみに、全くと言っていいほど、寄り添うことができかった。そのため認知症を受け入れた私たちは、母に対して、できるだけ注意をせず、母の言動を遠くから見守るやり方へと移行できる中、父だけは母への気持ちも老後の人生設計も何もかも取り残されたように、一人暗闇の中に陥っていたのだと思う。

もちろん、私たちは母と一緒に暮らしていないかったからこそ、できたことであったし、自分の時間と母との時間にある程度の距離感を保てた。自分の生活を振り返る時間もあれば、認知症についてゆっくりと考える時間もあったのだと思う。しかし、父には待ったなしの状況で、ある日突然、医者から認知症だと告げられ、目の前でだんだんおかしな言動をする母をすぐに受け入れることなど、到底できるはずもなかったのだ。

認知症は長期戦であるがゆえ、本来であれば、認知症をケアする家族への配慮や寄り添いがとても大切だ。本人にも記憶が残らないという不安はあるものの、それを見続ける方は、二重の苦痛を味わう。変わっていく妻と想像しなかった老後への不安。これが今なら理解できるのだが、当時はまだ、東京で仕事をし、子どもの世話もあり、2~3か月に1度、帰省するだけの私には、すべてがいっぱいいっぱいで、父にやさしい言葉や労いの言葉などかける余裕がなかったのだ。

自分のアイデンティティが崩れていく中で、覚悟を決めた父の自立

以前にも書いたが戦前生まれの父は、男が家事をするなんてもってのほか、男は外で働いてなんぼ、家のことはすべて妻任せといった時代の人間だった。私とそりが合わないのはそのところも含めてだが、母はそんな父に従って、何十年とその暮らしが保たれてきた。ところが認知症を発症した母は、今までのような家事がスムーズにできず、だんだんとミスが増え始めた。そうなると、否が応でも風呂掃除や買い物など、父が代わりにやらなくてはならない。それは父にとってものすごい譲歩であり、そのことと折り合うことは、自分のアイデンティティの崩壊をも意味する。

だから、母を気遣う私たちとぶつかることはしょっちゅうだったし、イライラして母に怒鳴り散らすことも多かった。ところが母は、そんな父の気持ちを理解するどころか、家事をやったのは自分だとすべてをすり替え、今まで通り、自分がやっていると公言するのだった。私たちが父にああいう言動も病気から来るものだからと何度も説得。しかし、たまにテレビのクイズ番組を見ていると、「誰よりも早く答える母」、計算問題をやらせれば、「父よりも早く計算する元銀行員の母」、もたもたしながらも一生懸命家事をやっているのに、「何もやらないと非難を浴びせる母」にキレない方が無理というものだった。

私が介護で同居を決める直前まで、そのバトルは繰り広げられていた。もちろん、父も反省したし、私たちの言っていることを理解しようとしていたが、それを70代も後半を過ぎた父に求めたのは、少々酷だった。

それでも、たまにポツリと、「これからの男は結婚したら女性と同様、家事もできるようにならないと老後が大変だな」とか、「毎日の献立を考えることがこんなに大変だったとは知らなかった」とつぶやくこともあった。

父のそんな成長は、梅雨空の合間に除いた晴れ間のようで、私たちの心をたまに明るくしてくれるのだった。

それでも母とのバトル、私とのバトルは、数年間は続き、介護殺人とは紙一重なのだと思うようになることもあった。一生懸命、真面目に認知症と向き合ってしまうからこそ、余計に腹が立ち、許せなくなり、絶望していく。あ~、これって子育て、いわゆる孤育てと似ている。私自身もあの時の誰にも理解してもらえない子育ての孤独を思い出したりもしていた。

そこには愛があるからなおさら複雑なのだ。人生は時にいくつになっても大きな課題を与えられるものだ。でもそれを乗り越えた父を今は改めて誇らしく思う。


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