差別って恣意的な比較でしかないのでは?
差別は作られていると感じる
差別って、ただの恣意的な比較に過ぎないんじゃないかって急に思い立った。肌の色、性別、宗教、出身地、職業……そんなもので人を測れる? いや、測っていいはずがない。でも、現実にはそれが基準になって、人を分けたり、値踏みしたりしている。おかしな話だ。それって、本当に人の価値を決める基準になるのか?
考えてみると、これらの基準って、非常に主観的だ。 でも、そういうのが重要視されるのって、その社会の都合が大きいんだと思う。その時代の「支配層」が都合のいいように作り上げたルール。つまり、差別の基準って、歴史や文化の中で勝手に選ばれたものなんだよね。
比較の目的って、結局は偏ってる
そもそも、差別って公平に評価しようとして生まれたものじゃない。むしろ、自分たちを優位に立たせるための手段だ。たとえば、ある集団が競争を有利に進めたいとき、誰かを「劣っている」と見なすことで、自分たちの正当性を主張する。これ、最近良く見る。「○○はこうだからダメ」とか「××は信頼できない」とか、そんな言葉を使って他者を排除する。でも、それって結局、自分たちの利益を守りたいだけじゃないの? 本当に公平に比較しているように見せかけて、その実、目的は最初から偏っているんだ。
差別の基準って、変わるんだよね
それにしても、差別の基準って、時代や社会によってころころ変わるよね。たとえば、昔の日本では「女性だから」という理由で多くの機会が奪われていたけど、今ではだいぶ状況が変わった。じゃあ、その「女性だから」って基準、昔は正しいと思われてたの? そうじゃないよね。ただ、その時代の社会がそれを都合よく使ってただけなんだ。こう考えると、差別って、社会の価値観や権力構造に依存してるんだなって思う。つまり、普遍的なものじゃないんだよ。その時代その時代で都合よく作られたルールに過ぎない。それが今でも人々の意識に根強く残ってるっていうのが問題なんだろうけど。
平等と公平性の違い
差別の問題を考えるとき、「平等」と「公平性」の違いについても触れておく必要があると思う。どちらも「不平等をなくそう」という目的を共有しているように見えるけど、そのアプローチや意味はまったく異なる。
平等は同じスタートラインを提供する
平等というのは、簡単に言えば「全員に同じ条件を与えること」を指す。たとえば、みんなに同じ教育機会を与えるとか、同じルールの下で競争するようにすることが平等の考え方だ。でも、これって本当に全員にとってフェアなのかな?
たとえば、100m走を考えてみよう。全員に同じスタートラインを与えれば平等ではあるけど、足にケガをしている人や、体力が弱い人がいたらどうだろう。みんなが同じ条件で走ったとしても、その結果は一部の人にとって圧倒的に不利だよね。平等は一見公平に見えるけど、その人が抱える背景や環境を無視していることが多いんだ。
公平性は異なるスタートラインを認める
そこで出てくるのが「公平性」という考え方だ。公平性は、全員がゴールに到達できるように、それぞれの状況に応じてサポートを調整することを目指している。先ほどの100m走の例で言えば、足にケガをしている人にはリハビリをサポートしたり、体力が弱い人には適切なトレーニングを提供したりする。結果として、全員が同じゴールに向けて走れる環境を整えることが公平性なんだ。
でも、ここで問題が生まれる。「特別扱い」と見なされることがあるんだよね。「なんであの人だけ優遇されているの?」という声が上がることもある。公平性は、時に「逆差別」だと批判されることがある。これが公平性の難しさなんだ。
平等と公平性がぶつかるとき
差別を解消するには、この平等と公平性のどちらを重視するべきかが議論になることが多い。たとえば、被差別者に対して特別な支援を提供することは、社会全体での公平性を実現するために重要だ。でも、それを見た別の人が「そんなの平等じゃない」と感じるかもしれない。
ここで気づくのは、平等と公平性は一見同じ方向を向いているようで、実際には時に衝突するということ。全員に同じものを与える平等と、それぞれの背景に応じた支援を提供する公平性――どちらを優先するかは、差別をどう解消したいのかという社会の意志に大きく関わってくる。
平等と公平性のバランスを考える
平等と公平性のどちらを重視すべきかという問いには、簡単な答えはない。けれど、どちらか一方に偏りすぎると問題が生じるのは確かだ。
平等だけを重視すれば、社会的に弱い立場にいる人が不利な状況に置かれたままになる。一方で公平性だけを重視すれば、「なぜ自分がその支援を受けられないのか」と感じる人が増え、社会の分断を招くかもしれない。
重要なのは、これらを適切にバランスさせることだと思う。全員がスタートラインに立てるように平等を目指しつつ、スタートラインが同じでも結果に不利な影響を受ける人に対しては公平性を取り入れる。つまり、「全員が実質的に同じゴールに向かって走れる環境を整える」という発想が求められる。
キモは比較するという行為
比較という行為の持つ意味、差別の本質に迫る
言葉を辿れば一目瞭然だが、「区別」には意思がない。ただ、存在を認識し、分類するだけだ。それはフラットで、評価を伴わない。しかし「差別」は異なる。「差」を見つけ、それを基準に「わかる」という行為が含まれる。そして、この「わかる」には、ほぼ例外なく個人や社会の価値観が介在する。その価値観が恣意的であることは、少し考えれば明らかだ。
では、差別の核にある「比較」という行為は一体何者なのか。この問いを掘り下げることで、差別の根源にあるメカニズムを解き明かせるのではないか。
比較とは何かその中立性と危うさ
比較そのものは、極めてニュートラルな認識のツールだ。私たちは日常的に比較を用いる。高い山と低い山、速い動物と遅い動物これらは純粋な区別であり、そこに優劣は含まれていない。
しかし、人間が持つ社会的な価値観や倫理観がこの比較に介入した瞬間、それは単なる認識の道具ではなくなる。比較の結果に基づき、特定の属性を「優れている」とし、別の属性を「劣っている」とする。これが差別の始まりだ。この時、比較はフラットな区別ではなく、価値の判断に変貌する。
差別と比較基準の恣意性
差別が成立する背景には、常に基準の存在がある。そして、この基準が客観的であることは稀だ。多くの場合、それは社会や文化、個人の価値観に依存する恣意的なものである。
例えば、ある社会では肌の色が基準となり、特定の色が「美しい」とされる一方で、別の色が「劣っている」とみなされる。別の社会では、性別が基準となり、男性が「強い」と評価され、女性が「弱い」とされる。さらにある社会では、家柄や出身地が基準となることもある。これらの基準は固定されたものではなく、時代や社会構造によって変化する。
重要なのは、この基準が「自然」ではなく、誰かが何らかの意図で作り出したものである点だ。つまり、差別の土台にある比較は、その社会の権力構造や歴史的背景に深く結びついている。そして、この基準が何を重視し、何を排除するかは、社会的な都合によって決まることが多い。
比較の影響差別の結果としての社会構造
比較を通じた差別が生み出すのは、単なる個人間の優劣ではない。それは、社会全体の構造にまで影響を及ぼす。ある属性が他よりも優れているとされることで、その属性を持つ人々が権力や資源を独占し、それ以外の属性を持つ人々が排除される。この構造は、特権と疎外という形で固定化され、長期にわたって再生産される。
たとえば、近代における植民地主義の歴史を見ればわかるように、肌の色や文化の「優劣」が比較の基準として用いられた結果、特定のグループが権力を握り、他のグループを抑圧した。このような差別的な社会構造は、単に比較そのものが悪いのではなく、その基準が恣意的に設定され、それが優劣の判断に結びついたことによるものだ。
差別を超えるためにどうするか?
では、比較を用いることそのものが問題なのかというと、そうではない。比較は本来、人間の認識において不可欠な道具だ。しかし、その道具がどのように使われるかによって、結果が大きく変わる。比較を差別につなげないためには、次のような視点が必要だ。
基準を疑う視点を持つ
何を基準にしているのか、その基準がどのように形成されたのかを常に問い直す。たとえば、「美しい」「強い」「優れている」といった価値観がどこから来たのかを探ることで、それがいかに恣意的であるかを理解できる。多様性を受け入れる
比較を通じて他者を「劣っている」と判断するのではなく、異なる属性を持つ人々が共存する多様性を価値として認識する。比較はあくまで違いを理解する手段であり、優劣を決める道具ではない。社会的影響を考慮する
比較がもたらす社会的な影響を意識する。特定の基準が優越感や劣等感を生み出し、それが不平等を助長する場合、その基準を見直す必要がある。
差別は、比較という行為が社会的価値観によって歪められた結果として生じる。その比較が「区別」に留まる限り、それはフラットで中立的だ。しかし、価値観が介入した瞬間に比較は「差別」へと変わる。
私たちが差別をなくすためには、この比較という行為そのものを問い直す必要がある。そして、その基準がどのように作られ、どのように影響を与えているのかを深く理解することが求められる。
差別という考え方は、逆に分断を生むためのツールである
差別が単なる「無意識の偏見」や「悪意」だけにとどまらず、特定の集団が自らの利益や特権を守るために使われることがあるという事実を。歴史をひも解けば、エリート層が自分たちの地位や権力を維持するために、他者を差別してきた例は枚挙にいとまがない。こうした差別は、ただの誤解や先入観ではなく、意図的で計算された行為だと言える。
「○○は劣っている」「××はここにふさわしくない」といった言葉を盾にして、ある集団が他者を排除する。それは、単なる価値観の違いではなく、権力構造を守るための明確な戦略だ。その背景には、「自分たちが優位に立ち続けたい」「競争相手を減らしたい」といった動機が見え隠れする。
たとえば、特定の人種や性別が職場や教育機関で排除されてきた歴史を思い浮かべてほしい。それらの差別は、単に「偏見」によるものだったのか? それとも、支配層が自らの特権を守るために、社会的ルールや価値観を利用していた結果なのか?答えは後者の場合が多いだろう。
こう考えると、差別とは必ずしも感情に起因するものではなく、利益を守るための「道具」として利用されることがある。それが純粋な悪意からであれ、冷静な計算によるものであれ、差別の裏側には特権を守ろうとする意図が潜んでいる場合が少なくない。
このような差別がどのように機能してきたのか、そして今もなお機能しているのか――それを理解することが、社会を変えるための第一歩ではないだろうか。差別が「道具」として使われると認識することで、対立煽りから身を離すことが重要なのかもしれない。