「なぜ」は本質への特急券
私は何かを考えるときにとにかく「なぜ」をベースに据える
おそらくこのような論調は巷に溢れかえっているだろう。
煮出して煮出して煮出し尽くしたような題材だが言語化しておきたい。
思考を整理する内省として、アウトプットしよう。
どんなことにも疑問を
斜に構えるのはとても良いことだと思う。
人生を面白いものにしたかったら斜に構えるのが一番手っ取り早いだろう。
ユーモアセンスがある人は基本的に皮肉屋だと思う。ただの嫌味ではない。
汚い嫌味でないということはとてつもなく頭をつかう。
どんなことにも疑いをもち、ニヒリストであることは脳にもいいし人間関係にも良い。
「ああ、そういうことなんだな」
これで理解した気になっていてはもったいない。
まだ考えることはいくらでもできるだろう。
疑問のワークフロー
※例
ここでは、ある事象について納得した過程を分解してみる。
「ああ、なるほど」←何を由来に納得した?
↪「自身の体験から」 ←どんな体験?その体験の原点は?
↪「学生時代に学んだ」 ← 水平展開できる内容は?等
以下略
上は一例だ。
人間の脳は疑問と思考を繰り返すことで、いか様にも脳を活動させることができる。その活動が知識欲をもたらし、知能を向上させ、知識の蓄積を加速するのだ。
深掘りすることは楽しいし、人生を豊かにしてくれる。
「なぜ」はなぜ、なぜなのだろうか?
物事には原因と結果が存在していると考える。
点ではなく線、全てはつながっていると考えられるだろう。
逆に点として突如発生する事象の方が探すのは難しいだろう。
すべてのものにはルーツがある。ルーツを辿ることで根幹と付随物の
理解につながると考えられる。
「なぜ」を利用して「深掘る」ことで原点に立ち返り、
過程を第三者視点として眺めることができるのだ。
それは理解に繋がり、本質をつかむことができるのだ。
「本質にたどり着く」ということについて
「それらしく、多くの人が納得する説明」にたどり着くことはできるだろう。ルーツや、物的証拠、状況証拠を集めることでいい感じの答えを出すことは可能なのだ。
しかし、それは正解でもないし、本質でもない。
なぜなら、正解は存在しないし、本質も存在しない
あるのは過程と結果。それらの事象がただ横たわっているのだ。
そもそも、なぜ本質を求めるのだろう?
ここでは、正解を求めるために本質を求めている。という体にしよう。
正解と言うのは
自分の価値観に押し込めた答えをそれらしく展開しているだけだ。
そもそも「正解」やある程度プラスな意味に捉えられがちだ。
しかしながら、それらはある指標に対して、プラス方向にベクトルが向いている事象に過ぎない。という様に認識を改めるのが良いのではないだろうか。
私がたどり着いた本質とは、正解とされる目標へアプローチすることではなく、事象をニュートラルにとらえることに尽きるのだと思う。
固定観念や価値観を取り除いて観察することに注力していくことが、本質に近づくということだと思う。
何事も表面的に見るのではなく、そのルーツ等を引き出し
深掘りすること本質を探していければ楽しいのではないかと思う。