<哲学入門>いろんな〇〇論が、すべて哲学にまとめられる理由
存在論、認識論、実在論、実存論 etc…
哲学には非常にいろいろなテーマがあります。
名前の通り”存在”とは何かとか、存在”する”とはみたいな方向で、実体としての扱える物体についてザックリ考えていくと~、それが存在論。
それが人がモノを”認識”するとは何とか、認識”する”とは何かと考えると、認識論となる。
とりあえず存在論と認識論を挙げたが、ほかにも無数にある。哲学者個人の独自の〇〇論とかまで含めるとホントに沢山ある。
正直、さっさと一度ぜんぶ統合してくれーという気持ちは哲学を学ぶ者にはある。少なくとも私にはある!
で、これらを個別的に捉えると、
哲学はみんな好き勝手やっては言ってるだけだと見えてしまう。
(いや事実なのだけれど、”ただ”好き勝手やっている”だけ”ではない、というのが今回のしたいお話でもある)
今回は、大胆にこれまで全ての哲学分野どころか、これからの哲学まで一気通貫させるような視点を持つために、各テーマの関連性を掘ってみます。
まずは存在論、実在論、認識論をドッキングさせてみる
存在論はモノが”ある”とは何か?を問う。
それがなぜ大事かと言えば、実際に存在するモノについてはこの現実世界に影響があるからだ。逆に言うと実際に存在しないモノは基本的に、この現実世界に影響を与えないから、何をするにしても考慮しなくてもいい。
どういうことか?
例えば”呪いというモノが存在するか?” と考えてみる。
存在しないなら、誰かに「おまえを呪うぞ!」と言われても出来ないので気にしなくてもいい。当然、それを祓うような祈祷師も要らない。
よって大ざっぱに言えば、それらは研究する価値もない。
では、次は”火”はモノとしてあるか? と考えてみる。
今では答えは簡単だ。火にモノとしての存在=科学的に言えば質量はない。よってモノとして”は”存在しない。
これについて、火の哲学者 ヘラクレイトスは「万物は流転する」と言ったとされる。
流転させているのが”火”。あるいは流転そのものを”火”として捉えたか、そういう見方をしている。つまり火はモノとして存在はしないものの、現象という形で実在はする。(はい、ここで”存在論”と”実在論”が別に必要になりました。要はこういうことです)
さらに言えば、今でこそ「火=現象=質量がない」と分かりますが、昔は火と対になる存在として水も重要視されました。
タレスは「水が万物の根源だ」と言ったとされます。
火に質量が無いのであれば、古代においては「水=蒸発する=質量がない=存在しない」という見方も成立する。
つまり火も水も、どちらも質量があるのかエネルギーなのかが一種の問題の起点。あるいは問題の決定打になるということです。
いちばん重要なのは、彼らはそういう方法で色んな物を「”あれ”と”これ”は別物だ!」と説明しようとしたということです。
(これらをなぜ説明しようとしたのかに答えを出すのは難しいです。
ただ、例えば哲学が発展した古代ギリシャは貴族と平民のような身分制度はありつつも、直接民主制のような統治形態だったので、市民はみな政治家であり官僚でした。そして彼らの意思決定は民会という議論を経て決定されるため、何かを説明できる知的な力は単なる知的欲求の表れというだけでなく、現代で言えばビジネススキルのような実用的なものだったことは、そういう活動が生活力に繋がる時代だっただろう、とは言えます)
〇〇論が言ったことが、周囲の△△論に影響する
ということでいろいろ分岐するわけですが、その分岐をどのようにイメージするかが大事です。
このようなようなイメージは、系譜としては合っているかもですが、各テーマの関係は読み取れない。
関係(あるいは因果においてつかさどるエリアの分担)を把握するなら、こっちのほうが分かりやすそう。
重要なのポイントが2点ある。
①哲学的に何が”正しいか”は、時代ごとの正しいとできる”哲学的手続き”によって証明される必要がある、ということ。
(でも時代ごとの”今の哲学的手続きの”正しくないところ”を、その”今”の哲学的手続きで示す必要があるという矛盾があるところが難しいね)
②いろんな哲学テーマは基本的に”排他性”を持つ、ということ。
特に排他的な影響力がヤバいのが『認識論』
最初に認識論のことをワタシはこう説明しました。
でもこれだけでは中身がないのと一緒なので、具体的なケースを仮定してみる。有名な『水槽の中の脳』という仮説を例に出す。
これは、すべての人間が感じている五感は脳の情報処理の”認識の結果”であって、誰かが”認識そのものを電気信号”の幻として脳に流し込んでいるだけかもしれない、という仮説である。
で、これの厄介な点は
「いや〇〇という理由で、そんな仮説ありえない!」と賢い人が言っても、「でもその〇〇という理由も”認識”して確認したんですよね? ってことは最初からそれが幻じゃないって言えます?」と言い返してくるところ。
これはシンプルに言えば、ナルトの「イザナミだ」であり、ブリーチの「いつから鏡花水月を使っていないと錯覚していた」や「全部、月島さんが居たからじゃないか」である。(これらに限らず、自分の”経験”や”認識”が信じられない状態になるという点で、幻術も過去改変も同じである。とかく”五感”や”考え方”を操る力は脅威である。最近の漫画・アニメだと何になるだろうか?)
で、ここからなぜ排他性が生まれるか?というと、幻術に掛かったと思ったらその五感を信用しては勝てないように、認識論をそういう方向で語る人たちは「認識」は根拠にできないという言説を必ず流行らすから。
そうすると、ひろゆきの「でもそれってあなたの感想ですよね?」みたいな感じに考える人が色々な知的エリアで増えることになる。
(なお、ひろゆき自身はそういう使い方もそういう考え方もしていないと、時折触れている。そもそも使ったことも数えるほどしかないようだ。が知的な枠組みはつねに他人に意図せず利用される)
そうすると存在論や実在論はもちろん”科学”も含めて、全ての”知識”が必然的に認識論の支配下に置かれる。最強である。
ただしこれには反論もできる。それも”私たちにとって認識がすべてを支配してる”という認識論的な人たちの立場を崩さずに、強力な反論が可能だ。
しかし、存在論からのカウンターパンチ!
例えば、私たちの視覚や聴覚には情報の漏れがある。視覚は電磁波のうちの非常にせまいエリアしか知覚できない。カイロが出す赤外線を見ることはできないし、スマホが通信している波長も見えない。視覚も”可聴域”という言葉の通り、超音波や超低周波は聞こえない。
これは哲学に言い換えれば、”正しい存在論”を人間の五感は認識できない、ということになる。仮に人間の情報源がさきほどのように”認識”に支配されていて、そして必然的に世界を正しく認識できないのだとしたら、認識について語る認識論なんて大したことはない。”存在”こそが全てなのだ、という結論にも至れる。(これには私たちは五感で認識できない情報をある程度扱えているではないか? という前提も内包する)
でも哲学は”すべて”を語る主語デカ領域だから仕方ない。
どうしてこういうバトルになってしまうのか? それは哲学がなんでも普遍的orアンチ普遍的に語る領域であるからだ。
とにかく哲学は主語がデカい。自分の哲学論で触れた言葉や、その使い方や手続きは、それを書いた本人に口を出すつもりがなくとも、全ての哲学論に影響を与える。だからそれに反抗する哲学者もいる。そういった主語デカ哲学の普遍性から距離を取り、個人としての生き方を語るような実存主義なんかが典型だろう。
ただしこういう「普遍なんかねーよ」というカウンターは、「それ『普遍なんかねーよ』って考え方が一番普遍だと言ってることになりません!?」と反撃をもらうので、結局は主語デカというレッテルからは逃げられない。この点において肯定も否定もあまり大差がない。面白いね。
そして、実存主義すら主語がデカいとしたら、いっぱんに哲学に分類されない(個人的には十分に哲学であると思う)個人の人生哲学にも影響を及ぼしてくるようになるのである。
哲学に嫌悪感がある人は、自分の人生哲学を侵されたくない人
どういうことか?
数学の教科書でも、雑学の本でもなんでもいいが、そういった一種のアカデミックな本の「それらの〇〇は△△である」のような言葉と、哲学における「それらの〇〇は△△である」という言葉にはまったく違う感覚をワタシは覚える時があるのだが、皆さんはないだろうか?
前者は理解できれば”腑に落ちる感”があるし、できなければ疑問や懐疑という感覚になる。しかし哲学の本はそれが理解できたとして、待っている感覚は大体が「共感できない」or「なんだか気持ち悪い」である。
私は「人類みなイエスの子」「アッラーの他に神はなし」というような宗教的かつ独断的で、なんだか”自分の領域”に踏み込んできているような感覚を感じる場合と近いと思っている。
これらは、おそらく彼らが言っている”内容”が信じられるとか信じられないとか、妥当性があるないとかそういう話ではない。
本質的に自分と食い違っているような感覚を受けてしまうということだと思う。これを哲学的にどう認識するかで大切なのは、一体どっちがどっちの領域に踏み込んできているか? という認識はとっても相対的なものだということだ。一体どういうことか? それは誰しも宗教的かつ独断的な人生哲学を持っているからこそ、そこが重なりあってしまうという視点である。
身近な例で言えば、創作界隈の”解釈違い”とかも(少し)近いと思う。
同担拒否とか、いわゆるガノタの論争などなどもサブカルチャーが好きすぎる人の思考は、哲学者や宗教家と近い。
「〇〇って△△だよね」とか「△△な〇〇が好きなんだよねー」というだけで、別に押し付けられたわけでないのに「許せない!」とか「修正したい!」という欲求に駆られるのである。
ということで、結果として哲学のテーマは他のテーマと競争を強いられてきており、その流れの中でどの”哲学的手続き”が一番信頼できるのか? という部分でずーっと陣取り合戦をしているのである。そうしなければ、自分のエリア、発言権とその価値がどんどん下がっていく。
全てを繋げて見れると”繋がっていない点”も見える。
こういう見方をする哲学者がどれぐらいいるかは定かではないが、こういう考え方からスタートすることは、哲学者たちの考え方を相互に関係づけて見れるようになることを意味する。
なぜ関係づけて見れると良いか? それは同じモノを全く違う言葉、論理、切り口で言っていることに気付けるからだ。そうすると同じような結論なのに論争する人、全然違う論理から同じ結論を導く人などが分かってくるだろう。そうなって初めて単なる”言ってること”が違うのではなく、本人も認識できていないor隠しているような、哲学に潜む”本音”が見えだす気がする。
また、これらの見方の良いところは、過去の哲学だけでなく、現在や未来の哲学にも応用できる起点を与えてくれるということだ。
彼らも私も、当人が目的として認めるかどうあかは別として、”哲学的手続き”を哲学的に探究していると考えていれば、四方八方へあの手この手で飛んでいく哲学の流れのようなもの、一種の本質のようなものが自分なりに見て取れるようになるのではないか? そう思っている。
また、この”どの(哲学的)手続き”が一番信頼できるのか? という視点は、哲学以外にも応用できる。テレビのニュースに使えば理解が深まるし、仕事場でのコミニケーションにも応用すれば、人間関係の衝突についても分かることが増えるだろう。(避けられるとは言っていない)
これもまた少し前に触れたフィロソフィカル・マインド=哲学的思考と言ってもいいかもしれない。
↓ フィロソフィカル・マインドに少し触れた記事
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