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noteを書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしか過ぎない
大学を卒業して、僕はいわゆる物書きを生業にするべくロンドンに渡りました。結局、当時に思い描いていたようなライターの道は選びませんでしたが、現在は、複数のWEBメディアの編集やディレクションに携わっていて、大量の文章に触れる機会があります。
今回はそのなかでもnoteを執筆する意義について、僕の経歴も交えてお話しできたらと思います。
01 | noteを書くことは自己療養の手段ではない
文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしか過ぎない
これは村上春樹の小説の一部ですが、文章の仕事に携わるようになってから実感することが多々あります。仕事として依頼があれば何千、何万文字もの文章を書くことができますが、いざ自由に書くとなると、パタっと筆が止まってしまうことも。
TwitterやInstagramも仕事で運用することはありますが、個人アカウントで自ら発信することにはどこか苦手意識を感じていました。実際、noteもたくさんの方から勧めてもらっていましたが、ようやく重い腰をあげたのが昨年の年始から。
開設してから1年少し経ってみて確信することは、やはり「noteを書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしか過ぎない」ということです。
02 | 自由帳に綴った物語
そもそも僕がはじめて文章を書くことに興味を覚えたのは、小学校時代にまで遡ります。運動はそこそこ、勉強は人並み、クラス委員などを務めることもなく、ごく平凡な少年でした。
そんな僕がふと文房具店に入ったときに何気なく手に取ったのが、ジャポニカの自由帳。板書を写す通常のノートとは違い、自由に何でも綴れる自由帳は、僕の目にとても魅力に映りました。
それから僕は休み時間などを使って、自由帳にこっそり自作のストーリーを綴っていきました。当時、ドラクエが流行っていたのもあり、勇者がモンスターと戦いながら成長していくってベタな冒険ものですが、一冊で収まらないくらい、スラスラと筆が進んでいきました。
僕の記念すべき初めての読者が、当時仲が良かった宮やんです。どんな感想が来るのかドキドキしながら待っていると、「これすごく面白い、お前は天才だ!」と大絶賛。イラストが得意な宮やんが作画を担当することになり、いよいよクラス全体に向けて公開することに決めました。
そして僕たちの作品は瞬く間にクラスで話題になり、「次回作はいつ出る?」と催促が来るほど、初めてクラスの人気者になった気分でした。
03 | 挫折から救ってくれた言葉
文章を書くことは大好きでしたが、それ以上に好きだったのが野球。甲子園を目標にして強豪高校にスポーツ推薦で入った僕は、野球漬けの毎日で、いつしか文章を書くことも読むことからも遠ざかっていました。
しかし、体育会系にありがちな人間関係のイザコザがあり、高校に入ってわずか1年で夢を断念。小学校から野球を始めて、甲子園に出場するために努力してきた僕にとって、目標を失うことは想像以上にダメージが大きく、心にぽっかりと穴が空いた感覚でした。
空虚な毎日を過ごし、不完全燃焼だった僕を救ってくれたのが、イラストレーター『326』の言葉です。
人生は掛け算だ。どんなにチャンスがあっても
君が「ゼロ」なら意味がない。
夢や目標を失って、完全に「ゼロ」になっていた僕は、まずは「イチ」を生み出していくために、行動を起こすことにしました。野球がなかったら文章しかないと思い、そこから書きまくる毎日。いま思えば326のマネごとだったかもしれませんが、とにかく自分の心情や思いを作品として残していきました。
そして自分なりにどうやったら出版ができるかを調べて、複数の出版社に僕の作品をまとめて送りつけることに。ほとんどの出版社からは回答がなかったですが、いくつかはお返事をいただきました。振り返ってみると社交辞令のようなものだったとは思いますが、自ら行動したことが自信につながりました。
04 | 就活を拒否してフリーランスの道へ
大学3年生のとき、周りが就活をバタバタ始めているのを尻目に、僕はどうしても動き出すことができませんでした。就職活動には早々と見切りをつけ、自分の可能性を模索する日々。
今であれば、就職をせずフリーランスになったり起業することは珍しいことではないですが、当時は周りをみてもそんな人はほとんどいません。普通じゃないことをやろうとするからには、普通じゃない事例が必要だろうと、僕が目をつけたのがライブドアでした。
フジテレビやプロ野球球団を買収しようと、時代の寵児となっていたホリエモンこと堀江貴文が社長を務めていたライブドア。当時、ブログはかろうじてあったものの個人が何かを発信できるサービスは少ないなか、ライブドアはユーザー自らが発信することを重要視していました。
そんなライブドアが開講していたのが、「ジャーナリスト養成講座」です。1期生として講座を受けることになった僕は、文章の書き方はもちろん、ニュースの探し方や取材の仕方まで、徹底的に学ぶことができました。
05 | ロンドンで直面したライターの資質
"ライブドアのジャーナリスト"という肩書きを手に入れた僕は、ロンドンに渡りました。『ワールドサッカーダイジェスト』というサッカー雑誌のライターになることを目標に、サッカーを中心に記事を執筆。
誤算だったのが、その後ライブドアが会社として紆余曲折あったことで、ジャーナリストとしての活動ができなくなったことです。お金もなかったのでバーテンのアルバイトで生計を立てていて、フリーライターを目指していたのに、まさかの"フリーター"ライターに……(泣)
ゼロから仕事を探さなければならず、ロンドンでライター活動している方にアポを取ったり、自分なりに行動はしていました。下記の記事に詳しく書いていますが、ライターの資質を勘違いしていた僕にとって、あまりにも衝撃的な事実を目の当たりにしました。
06 | リクルートで経験した『文化的雪かき』
2年間滞在したロンドンで挫折を味わい帰国した僕は、それでもフリーランスの道がないか模索。「クリエイティブを学びたい」と思い、独立意識が強いイメージがあったリクルートに中途で入社することにしました。
リクルートで最初に携わった仕事がリクナビの制作。最大で50人くらいを抱えていたライター部隊のリーダーを経験し、学びがたくさんあった反面、クリエイティブとはかけ離れていた事実にも直面しました。
リクナビほど大きな媒体になると分業制と効率化が進んでいて、やっていることは流れ作業に近いです。村上春樹の表現を借りるならば、『文化的雪かき』つまりは、誰かがやらなくてはならないのだと。
その後、リーマンショックの煽りを受けて、所属部署が解体。SUUMOの立ち上げに携わったあと、3年在籍したリクルートを卒業することにしました。
07 | コミュニケーションが道を開く
28歳でリクルートを退職した僕は、映像制作会社の社長である岩崎大輔さんに師事し、フリーランスとして生きていくイロハを学びました。
教わったことは、とにかくコミュニケーション能力を磨いていくこと。まずはイベンターとして始めて、企画力、集客力、交渉力などを含めて、実践を通じてコミュニケーションを体得していきました。
岩崎さんの仕事をサポートすることも多々ありましたが、次第に僕がバイネームで指名されたり、岩崎さんから紹介していただいたご縁から仕事につながったケースもあります。
「何をやるか」ではなく「誰とやるか」
今ではライターだけでなく、編集、WEBディレクション、広報、WEBマーケティングなど、さまざまな仕事にチャレンジし、自分の枠がどんどん拡がっているのを実感できます。個人事業主として6年目を迎えましたが、いよいよ今年は法人化に向けて動いていきます。
08 | 自己療養へのささやかな試み
もう一度繰り返しますが、「noteを書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしか過ぎない」です。
今回は自分の半生について綴りましたが、書いてみたところで過去が変わる訳ではないし、目の前の課題が解決されることもありません。それでも、たくさんの人に影響を受けたこのささやかな試みが、友達のそのまた友達に、わずかでも影響を与えているのかもしれません。
noteでつながったご縁から、誰かに与えた影響が回り回って自分に返ってきて、大きな円を作り出していく。縁と円をどこまでも紡いでいって、クリエイター同士で染めて染められることが、noteを書くことの意義だと僕は考えています。