【私の好きな本①】方丈記
ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
このように始まる有名な鴨長明作の方丈記。私はこの方丈記がとても好きです。
高校生の時に授業で扱って知っている方も多いと思います。
特に方丈記の冒頭部が美しいと感じませんか?
世の中の本質を自然の姿を見つめて描き出していることにたまらなく惹かれてしまいます。
今回は方丈記の冒頭について少し書いてみようと思います。
(現代語訳につきましては、角川ソフィア文庫「方丈記」 簗瀬一雄さんの現代語を引用しました。)
無常観や災害文学として紹介されることも多い方丈記。
私は方丈記を「私たちの生きる世界は動的である」ということを前提にし、そうした現実に対して私はどのように生きるのかということを考え、鴨長明なりの答えを導き出していく人生の書というようにみています。
動的とはどういうことでしょうか。それが端的に現れているのが、先ほど紹介した冒頭部になります。原文と現代語訳は以下のようになります。
私は特に、この「もとの水にあらず」が素晴らしい表現に感じます。この表現の良さをどのようにして語れば良いのか、まるで分かりません。語る言葉も浮かばないほど美しいと感じます。
さて、この表現の後にこのように続きます。
私は動的という言葉を用いました。この動的という言葉のなかには、姿や形を変えるだけでなく、生成と消滅の意味も含んでいます。
生まれては消える。そうした生成と消滅を上記から感じることができると思います。
方丈記ではそれをどう具体的に描いているのでしょうか。方丈記にある話をひとつ取り上げてみたいと思います。
少し辛い話ですが、ある武士の年は六つか七つの子どもの話です。
この子どもは土塀の屋根の下で、おもちゃの家を作って遊んでいました。しかし、その時にちょうど大地震が起こりました。
その子どもは、土塀に埋められたのです。元の姿もわからないほどになっていました。
子どもは生成の象徴であると思います。そしてその生成の象徴である子どもが大地震により消滅してしまいます。
大地震が起こる前と後で世界は反転しました。起こる前にあったものが起こった後にはなくなってしまう。それが私たちの生きる世界の姿で、鴨長明もそのように見ていたのではないかと勝手ながら思っています。
世界は動的である。これは言うまでもなく当たり前のことです。
しかし、この当たり前こそが私たちに対するナイフとなります。私たちの人生に対する試練になります。世界は動的であるという事実は、痛みを伴うものです。
世界の動的の一部である生成は喜ばしいようにも思えますが、消滅というのも生成の背後に隠されています。生成と消滅はコインの裏表の関係のようなものです。
他にも方丈記では、こうした世界の動的さを大火事や旋風、遷都といったもので語っています。ここのあたりの記述はぜひ方丈記を読んでみてください。
こうした世界の姿を見つめたあと、さあどうしようかと多くの人は考えると思います。どうやってこの世界を生きるのかを考えてしまいます。鴨長明もその一人であると方丈記を読んでいて感じます。
激動の時代、鴨長明の方丈記はどう生きようかと考えさせてくれる素晴らしい随筆であると同時に、私たち個人個人の答えを導いてくれる随筆でもあると思います。方丈記は人生を考えたい人にお勧めできると考えています。