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「子供作らなければ良かったじゃん」について

「そんなに子育て辛いならさ、産まなきゃ良かったじゃん」

子育てに悩む世のお母様方に投げられるそんなストレートな正論。
その球は何も母親だけでなく、妊娠している女性のお腹にも当たりかねないし、その球の存在が若い人をフリーチャイルドへと導くだろう。
SNSで子育ての愚痴や弱音を吐いたら、どこかからそんな球が飛んで来たという経験の人も多いと思う。
そうでなくとも、世間からの「だって好きで産んだんでしょ?」という無言でもない圧力を、母親は誰しも感じたことがあるのではないだろうか。
もちろん、これは何も母親となった女性に限らず、父親となった男性にもいえることだ。「お前が中出ししたからだろ?」

私はいずれの立場にもないので、自身の事の様に語ることはできないが、その圧に晒される境遇について共感できない訳でもない。心中お察しします。

そう述べさせていただいた上で考えてみる。
「子供を作らなければ」
なぜこの言葉が残酷に子持ちの親に突き刺さるのか。
なぜこの言葉を人々は投げかけるのか。
そしてどのように受け取るべきなのか。


私は「人の親」ではない。
それでも、これを考えることはできる。いやむしろ「人の親」でないからこそ考えられることもあるのかもしれない。なんて。
とにかく、この記事で自分なりに考えたことを述べてみたいと思う。
(ちなみに、私は「反出生主義」についての記事も書いているが、この記事はその視点で考えるものではない。まったく取り上げない)

内容が内容だけにセンセーショナルに受け取られるかもしれない。しかし特定の誰かを傷つけるつもりは私にはこれっぽっちもない。
これはnote。私の私見に過ぎない。
それでもちゃんと考えて書きました。1万字越えてます。長文が読まれない世の中なのにね …( ;∀;)

1.なぜ「子供を作らなければ」が親に刺さるのか。

「人の親」、私の知るもっともむごい言葉。
(『カイエ』E・シオラン)

冒頭から、こんな心を抉る引用を持ってきておいてなんだが、どのようにして人は「人の親」になるのか、から考えてみたいと思う。

まず、子供は自然にはできない。異性間での性交か、人工授精を始めとした医療的行為でしか、子供はできない。処女懐胎なんてものは現実には存在せず、子供は必ず行為の結果として生まれる。
つまり、親という存在になった人は、理由は何であれ自ら親になる行為を行い親になったのである(レイプは「自ら」ではない)。

そして、あらゆる行為には個人の意思が介在する。「子供を作る」という行為にも当然、そこに個人の意思が存在するのだ。
「子供が欲しかった」という欲求、「子供を作るべき、あるいは作らなければいけなかった」という義務感、「作るつもりはなかったけどできちゃった」という偶然、いずれにおいても、レイプを除けばそこに「子供を作る行為をするか、しないか」という個人の意思が介在している。
(「できちゃった」も、性交すれば妊娠するかもしれないこと位、子供でもわかるのだから。)

そして、意思はその意思に依る結果の責任を問われる。
例えば、甘い物を食べたいと思い、ケーキを食べて太ったのなら、太ったことの責任は「甘い物を食べたいからケーキを食べよう」という意思に従った当人にある。当然の話だ。
(この意思と責任の所在について極端なものが「自己責任論」なのだと思うが、まぁそのことについてはまた後で)

なので、親という存在は、自身の意思による行為の結果として生まれた「子供」によって生じる結果に責任を負うことになる。
(これは「全ての結果の責任を背負う」という意味ではなく、「全ての結果に責任が内在する」という意味。必ずしも親一人が責任を背負うことを意味しない。このことについては3章で述べる。)
子供の為に消費されるお金、時間、労力、精神を他者のせいにすることができない。子供が引き起こす事態について、それを子供自身のせいにできたとしても、それ以外の他者のせいにはできない(実際は子供自身のせいにする親は「毒親」呼ばわりされる傾向にある)。なぜなら、その子供を作ったのは親たる自分なのだから。
子育てが「こんなに辛いとは思わなかった」というのは、ケーキを食べて「まさか太るとは思わなかった」というのと同じだ。ケーキを作った人や売った人、ケーキそのもののせいにはできない。
行為の結果を予測する事ができなかったということで同情はされたとしても、やはりその結果の責任を負うことになるのは変わらない。
私が交通事故で人を殺してしまったとして、「まさか事故を起こすとは思わなかった」などと言ったところで、被害者もその遺族も法律も世間も、私のことを免罪はしない。その結果の責任は確かに私にあるのだから。

どれだけ辛くとも、「自分が子供を作った」ことによる結果から逃げることができない。それが人の親である。
そう思い知らさせる言葉が「子供を作らなければ」である。
だからこの言葉は、全ての親にとって残酷であり、その身に突き刺さるのだ。

そして、親となった責任というものは、何も養育義務や監督義務という社会的な意味における責務ばかりを意味するのではなく、存在に対する責任というもっと根源的な責任をも意味する。
つまるところ、自分の子供が「死にたい」あるいは「生まれて来たくなかった」などと口にした時、親はその責任を突きつけられることになる。
そう思う子供の意思を結果として生み出すに至ったのは、紛れもなく親たる自分の意思(エゴ)が原因であるからだ。

その責任を回避する術は、親が背負う責任を「子供自身の責任」として自身から切り離すことだ(これはたぶんアドラー心理学でいうところの「課題の分離」だろうか)。
しかし、それが全ての親に可能だろうか。たぶん、何よりも子供のことを思って産み育ててきた良き親ほど、「私には関係ない」と思うことが難しいはずだ。
そんな親ほど、この存在に対する責任から逃げることができず、悩まされることになるのだと思う。これは正直、妊娠や出産、育児の辛さより、もっと深刻なものなのではないだろうか。

シオランが「人の親」を最も惨い言葉だと評したのは、このどうしようもない「親の意思による子の存在」という構造を悲嘆した故のものなのではないかと思う。

「なぜ生んだ?」
これほどまでに親に刺さる言葉はないのだ。
ミュウツー…(´;ω;`)

<まとめ>
「子供を作らなければ」が親に刺さるのは、「子供を作ったこと」による結果と、「子供」の存在への責任があるから。

2.なぜ「子供を作らなければ」を人は親に投げかけるのか。

ではそんな残酷な言葉を、なぜ人は自分の親に限らず、わざわざ世の親たちに投げかけるのだろうか。その理由について、考えられるものを以下に述べてみたいと思う。

①自己責任論

物事の責任について考える時、一体誰の責任なのかという「責任の所在」がいつも問われる。
例えば、車の事故で人が死んだとしよう。その人が死んだことの責任は誰にあるだろうか。運転手か。車を作った会社か。その車を売った店か。事故が起こる道路を設計した人か。運転手を急がせる理由をつくった人か。運転手に免許所持を許可した教官か。自動車と言う技術のせいか。それとも、事故に巻き込まれ死んだその本人の責任だろうか。考えればキリがない。
しかし、状況によるが基本的には運転手の責任になるだろう。過失運転致死というものだ。少なくとも法律において、当人以上に責任を遡って訴追することは少ない。最終的な加害者あるいはその事態に至らせた大きな意思に、その責任が問われる。

この責任の所在を決定する構造は、あらゆる事態に見て取ることができる。戦争は軍部や政治家に。経済不振は政治家や中央銀行に。環境汚染は国や企業に。不祥事は経営者や部署の監督者に。犯罪は犯人に。必ず誰かがその責任を負う。
しかし実際は、その事態に至るまでの過程に多くの人間が関与している。
戦争や経済不振や環境汚染の責任は国民にもあるし、不祥事を黙認した人間たちが多くいる。犯罪だって、個人に犯罪を起こさせる世の中を作っているのは私たち一人ひとりということもできる。先ほどの交通事故の例だって、書き連ねたもの全ての責任であるといえるのだ。

だが、そんなことを受け入れていては事後処理が行えないし、そんなことを受け入れられるほど、私たちは強くない。何についても自分の責任を見出すというのは、人を憔悴させる。

そこで、「自己責任論」というものが出てくる。これは「お前の今の状況は、他でもなくお前自身のせいだ」として、何かの被害者や困窮者に対して他者や社会による援助や救済を否定する考えだ。いわゆる自業自得というものだ。
この論理をあらゆる事態に適用することで、私たちはその事態の部外者であることができる。つまりは責任の回避だ。

そしてこれが、世の「子育ての辛さを語る親」に対しても適用されうる。
きっと子育てで苦労する世の親たちは、少なからずこう思っているだろう。
「子育てが辛いのは、社会や世間の人々が子育てのサポートをせず、子供を育てやすい社会にしようと努めていないからだ」
事、日本に限ってはまったくその通りだと思う。
しかしその指摘は、それを聞く他者に「自身の子育ての負担を社会や世間がもっと背負うべきだ(もっと気に掛けるべきだ)」という主張として受け取られうる。
子育てを社会で支えるというのは、社会維持の観点で最もな主張である。
しかし、旧来の日本的社会主義ならいざ知らず、個人主義が台頭する現在においては、それに対し「なぜ他人の子育ての負担を自分がしないといけないのか」という態度をとる人が出てくるのも致し方ないのだ。

自己責任論的に「好きで作ったんだろ?」と言われるのに対して、「私は社会の為に作ったんだ!」と返す親は今時中々いないと思う。前の章で述べたように、誰もが自分の意思で親になったのは事実だろう。
だから親は「ぐぬぬ…」となってしまう訳で、それ故に自己責任論者は悠々と子育ての責任をその親自身へと封じ込めることができてしまう(その社会的恩恵を少なからず享受しておきながら)。

人の親でない自己責任論者は、他人の子育ての愚痴など、聞きたくないのだ。それは遠回しに、子育てに関与しない自分への批判へと繋がっているから。
そんな訳で彼らはこう口にするのではないか。
「お前が好きで親になったんだろ?じゃあ自分でどうにかしろ」

②代理的報復

世の中には「毒親」という言葉がある。

毒親(どくおや、英: toxic parents)は、毒になる親の略で、毒と比喩されるような悪影響を子供に及ぼす親、子どもが厄介と感じるような親を指す俗的概念である。
(毒親 - Wikipedia)

この毒親に育てられた人は、少なからずその親に対して暗い感情を持つことになるだろう。「あんな親の元に生まれなければ…」と。
しかし、そう思うのも、生まれ育ちだいぶ経ってからのことだ。子供のうちに自分の親が毒親だと気付く人もいるが、大人になって親から離れた時に毒親だったのだと気付く人も多いだろう。
そうなった時、自身の親に対して持った暗い感情はどこに向かうのだろうか。当の親はもう側にはいない。けれど、毒親育ちによる喪失感は残っている。これを忘れたり、諦めたり、バネにしたりして、自分で解決する人もいる。けど、全ての人がそうできる訳ではない。

そこで、その矛先が世の「子育ての辛さを語る親」に向けられることになる。子育ての辛さを語る親には当然、その子育ての対象となる子供がおり、その子供の立場に彼らは共感しえるからだ。

「息子の夜泣きが酷くて、ずっとまともに寝てない」
「娘がまた玩具を失くした。この前買ってきたばかりなのに」

そんな嘆きの後に続くのはなんだろうか。
「それでも可愛く、何よりも愛おしい」
きっとそうだろう。というかそうであってもらいたい。
事実、子育てについて愚痴っているようで、実はうちの子自慢をしたり、子供のいる幸せをアピールしたりしてる人は多い(当人にその自覚があるかは知らないが)。もしかしなくとも、そうして自己を保っている面もあるだろう。何にせよ、その愚痴は子供自身へは向いていない。

しかし、これはあくまで私の憶測に過ぎないのだが、そんな愚痴が毒親育ちの心にはこう映りえるのではないか。
「おかげで私は眠れないんだ!うるさい!黙れ!」
「お金がかかってしょうがない。誰のおかげで生きてられると思ってるんだ?こいつは」

そんな“子供”に対する呪詛が幻聴として聞こえるのではないか。
その親が実際に子供に向かって罵倒している訳ではない。無論、他の誰かに対してのものでもない。ただ、その様に親に毒を吐かれたり、毒を感じたりしてきた人には、子供のことについてのただの愚痴が恐怖の対象として感じられることがあるのではないか。
そしてその恐怖故に、「子育ての辛さを語る親」にかつての自分の毒親の姿を重ね、これを報復の対象として攻撃する。
「お前が勝手に生んでくせに」と。
しかしその言葉が向かうのは自分の親ではなく、他人の親であり、これは代理的な報復となる。そうして、正論で自分を守り、親に対する暗い感情を解消しようとする。

他人の親が、子供を愛さず自分ばかり優先しているように感じられる言動への憤り。
それが「子供を作らなければよかったのに」という言葉に繋がる。
でもその言葉を聞かせたかった相手は、本当は自分の親なのだ。

③被害者意識

「毒親」育ちでなくとも、自身の生まれ育った境遇に不満を抱いている人は多い。
「もっと裕福な家に生まれていれば」
「もっと容姿が良くて、性格の良い親の子だったら」
そんなif的思考の全てが必ずしもネガティブに転化する訳ではない。しかし、自身の望ましくない現在の境遇について、「選べなかった生まれや育ちのせい」とする「責任の転嫁」に、これは大いに利用されうる。
ここで働くのは「今の辛い状況があるのは、何よりも親のせいだ」という被害者意識だ。

その被害者意識が、「好きで親になっておきながら愚痴を言う世の親」への攻撃を行わせる。
これは先述した「代理的報復」とは異なり、「親に勝手に生まされた子供」サイドとしてのポジショントークである。子育ての愚痴を零す親に対する「親の無責任性や被害者的態度」を攻撃することで、間接的に自身の現在の状況についての責任を「親」という存在に転嫁しようとする。
不満を抱えるに至ったのは、自分のせいではなく、こんな親のせいなのだ。親の癖に被害者面するな。そんな感じだ。

そう言うと、「なんだガキの我儘かよ」と侮蔑的に思われるだろう。
しかし前章で述べたように「親の意思による子供の存在」という構造がある故に、子供のもたらす結果とその存在に対しての責任を親が背負うことになるのも事実だろう。だからこそ、これは当人の中でもっともな理屈が通る便利な正論として機能することになる。

しかしこの論理は、あくまで「親の責任が全ての結果に内在しうる」ということであり、「全ての結果の責任を親が背負う」という意味ではない。
(これについては3章で。)
誰しも自由意思を持ち、自分で何かを選択し生きているのだ。その全てに「親」が介入している訳ではない。結果の責任を全て「親」に転嫁するのは、自分の意思を否定することを意味する。被害者意識で親を攻撃する人は結局、責任転嫁先として「親」に依存している。

それでも、「かわいそうな子供」という被害者意識を捨てることは難しい。だから世の親に「親になったくせに」と噛みつかずにはいられないのだ。

④自己正当化

「子供を持つこと」は昔は当たり前だった(私はこの言い方が余り好きではない。子供が親の所有物であるような印象を抱かせるからだ。しかし「子持ち」という表現は使いやすいし伝わりやすい)。昔は、良い大人は子供を生み育てるのが当然だという価値観があったのだ。今もその価値観を持ち続けている人は少なくない。
しかし個々人の自由な生き方が尊重される現代では、必ずしも誰もが子供を作り親になろうとはしない。事、日本に限っては、子供を作ることのメリットよりもデメリットの存在が若者たちの間で流布され、チャイルドフリーを選択する夫婦も少なくない。親にならない人が増えているのだ。

では、そんな「子供を作らない」選択をした人々にとって、「子供を作る」選択をした人々の存在はどのようなものであろうか。
いくら少子化の時代とはいえ、探さずとも「子供を作り親となった人」の存在はいくらでも目に入る。ショッピングモールに行けば、子連れで買い物をする家族の姿があり、公園に行けば、子供と遊ぶ家族の姿がある。職場では「自分の子供の話」をする人がおり、そもそも仕事の対象に「子持ちの親」が含まれれば日々接することになる。テレビをつければ「親子特集」が流れ、SNSを除けば「うちの子話」が流れてくる。どこに目をやっても、そこに「親子」の存在がある。
そしてそれは大抵、幸福なものとして人の目に映る(普通、そのように表現するし、される)。つまり、私たちは常に「子供のいる幸せ」という価値観に晒されている。「子供を作らない」選択をした人々にとって、この価値観は毒となりうる。
「そうだったかもしれない」という考えは、いつだって「そうではなかった」人を苦しめる。それは時に後悔と自責の念を生み、人を不安にさせる。

そんな中、「子育ての辛さ」という話が、親たちの間で沸き起こっているのが目に入る。それは子供を持つ者同士の共感や情報の共有だったり、社会や世間の人々へと改善を訴えかけるものだったりする。
何にせよ、これは「子供のいる幸せ」という価値観とは真逆を行くものだ。「子育ての辛さ」は「子供を作る」選択をした人々だけが感じる負担だからだ。

この時、「酸っぱい葡萄」の心理が働く。認知的不協和に陥った際に発生する自己正当化の心理だ。

狐が己が取れなかった後に、狙っていた葡萄を酸っぱくて美味しくないモノに決まっていると自己正当化した物語が転じて、酸っぱい葡萄(sour grape)は自己の能力の低さを正当化や擁護するために、対象を貶めたり、価値の無いものだと主張する負け惜しみを意味するようになった。
(すっぱい葡萄 -Wikipedia-)

ここにおける「酸っぱい葡萄」は「子供」のことだ。
「子供を作らなかった」あるいは「子供を作れなかった」人にとっては、自分が得なかった「子供」によってもたらされる価値(幸福)が大したものではなく、むしろ害悪(不幸)をもたらしていた可能性があると認知した方が都合が良いのだ。

もちろん、全ての「子供を作らなかった人」にこの心理が働く訳ではない。しかし、「子供のいる幸福」キャンペーンで溢れている世の中で、その価値観に疲弊した人やその価値観で責められた経験のある人は、カウンター的に「子供を作ることのデメリット」を提示したくもなるだろう。
それが「子育て辛い~」に対する「ほらみたことか」という態度に繋がりうる。
(これは実は「子供のいない自由」を「酸っぱい葡萄」とすることもできるのだが、まぁそれについてはあえてここでは述べないことにする…)

⑤良き親の啓発

①~④まで、自分で読み直しても随分とネガティブな推論を立てているものだなぁと思う(まぁ発言自体がネガティブだからね)。そこで、もう一つ前向きに考え得るパターンを述べてみる。

それは「良き親たれ」という啓発的意味を込めた発言という可能性だ。
「育児が辛い」と嘆く親に対して、誰もが「わかるよ。大変だものね」と同情することはあれど、「じゃあ子供捨てて親やめちゃえばいいじゃん」などと恐ろしいアドバイスをする人はいないだろう。
結局、共感や同情の先に続くのは「それでもあなたはその子の親なんだよ」という励ましの言葉になるのだと思う。「子育てに疲れたから子供実家に預けてそれっきりなんだぁ」なんて親に対しては「それはいかんでしょ」と誰もが非難することだと思う。
そんな弱音を吐く親への励ましを、オブラートに包まない厳しい戒めとして置換した言葉が「子供を作らなければ」なのではないか。

「じゃあ子供を作らなければ良かったじゃん」
「そんなことは絶対ない!苦労はあるけど、私はこの子の親になって良かったのだから!」
そう言わしめる為に、わざわざ辛い言葉を向けるのではないか。
「どんなに辛くとも、あなたにはそれを乗り越えて『良い親』であってもらいたい」という切実な思いが、この言葉に込められているのではないだろうか。
まぁそれを、子育てで限界状態の親に向けるのは酷という話だが。


<まとめ>
「子供を作らなければ」を親に投げかけるは、「自己責任論」「代理的報復」「被害者意識」「自己正当化」「良き親の啓発」が理由。

3.どのように受け取るべきか

最後に、この「子供を作らなければ」という言葉を投げられた時、親はどう受け取るべきなのかについて書きたいと思う。
始めに書いたが、私は「人の親」ではない。だから、この言葉を投げられる身にないし、むしろ投げかけることのできる立場の人間である。それに、上から目線で語れる立場でもない。これは横から語ったもの。その点をご留意していただいた上で読んでもらいたい。

まず、この言葉を無視できるのなら無視すればいいのだ。
どう受け取るべきかと題しておきながら、受け止めなくて良いと答えるのはどうかと思われるだろうが、投げられたボールを避けるというのも一つの受け取り方だ。

私は1章で、どれだけ辛くとも、「自分が子供を作った」ことによる結果から逃げることができない。それが人の親である。そう思い知らさせる言葉が「子供を作らなければ」である。と書いた。
しかし、そんな「親の責任」を常に意識しながら生きられるほど、人は強くない。むしろこれを強く意識し深刻に考えるほどに、親となった人はその重荷に耐え兼ね、一切の責任を放棄するに至ってしまうのではないだろうか。
責任感のある親というのは、紛れもなく「良き親」であろう。しかし、子供にとっての「良き親」というのはまたそれとは違った存在だと思う。子供にとっての「良き親」とは、何よりも子供を愛する親のことだ。
前者が社会に対する「良き親」ならば、後者は子供に対する「良き親」だ。そして私は全ての親に、前者であることができずとも後者であってもらいたいと思っているし、そうあるべきだとも思っている。

結局、親は目の前の子供にできる限りの愛を与えることが何よりも重要なのだと思う。それは責任感によるものではなく、もっと純粋な良心やエゴによるものだ。自分が望んで作った子供を、そのまま自然に愛し続ければいい。
人の親になった者に「子供を作らなければ」はもうありえない。そんなどうしようもなく後ろめたい思考に囚われる以上に、親が取るべき態度は「子供を作ったからこそ」その子の為に何ができるか、どれだけ愛せるかなのではないか。だからこそ、この「子供を作らなければ」に親は囚われるべきではない。囚われるくらいなら無視をすればいい。私はそう思う。

しかし、もしこの言葉を無視することができないのなら、それはその親が責任感のある「良き親」であることの証拠なのだと思う。少なくとも、自分の意思で「子供を作った」ことを自覚している。
「子供を作らなければ」という言葉に、「確かにそうなのかもしれない」と自責や後悔の念を感じるのは、自らの意思による結果であることを受け止めた上で、自分ひとりでその責任を負おうとする態度故だ。
だが、本当にその責任は親たる自分ひとりだけで背負わなくてはいけないものなのだろうか。

2章の「①自己責任論」において、私は「責任の所在」についての話をした。これは、ある結果における責任が誰にあるのかというものだ。
そして、そこでこの話の重点としたのは「その事態に至るまでの過程に多くの人間が関与している」ということだ。事の責任は最も直接的な当事者に問われるのが常だが、その人一人だけで事は決して起こりえない。
映画のワンシーンには、そこに映る人物の他、舞台や設定が必要であり、そこに至るまでの脚本には多くの人物が登場している。それ抜きにそのシーンは成り立たない。

これは「子供」についても同様だ。確かにその子供を作ったのは親たる個人だ。しかし、まず子供は人間一人では作れない。現在においては、必ず男と女の二人、つまりは夫婦二人が必要である(もっと厳密にいえば、精子提供者たる男性と卵子提供者及び懐胎者たる女性)。この時点で、その子供に対する責任者は二人となる。
さらにその子供を作るに至った過程には、親族などの人間関係が少なからず関与している。両親(祖父母)が「孫の顔が見たい」と言ったり、社会が「子供を作るべきだ」と圧を掛けたり(元五輪相の「子ども最低3人産んで」発言とか)、親となるまでの自分の意思に介入してくる他者の存在がある。世に溢れる「子供がいる幸せキャンペーン」もそのうちだ。
それに、「子供を作らなければならない」社会的、経済的な事情もあるだろう。事、今の日本においては、経済的な事情で子供を作る人は少ないとは思う(老後の面倒とか投資的な目的)が、社会的な事情、すなわち跡取り(これも少ないか)だとか「子供がいないと孤独」だとかで、子供を作らざるをえなかったという人もいなくはないだろう。
親が自らの意思で「子供をつくった」ことの責任は確かにあるが、こういった他者や状況がその意思に関与しているのだから、その責任の全てが親個人にあるとはいえない。重要なのは「親としての責任」なのであって、「親となったことの全ての責任」ではない。だから「子供を作らなければ」という言葉を、親が一人で背負う必要はないと思うのだ。

これは「自己責任論」とは真逆の考えだ。特に自己責任論者はこれに納得はしないだろう。しかし、自己責任論者が全ての事における自己の責任を背負えないように、人というものは事の一切の責任を背負えるほど強くはない。「親なんだから子供についての全ての責任を背負え!」と言う事はできない。

「子供自身と子供による事態について、親である私は責任を持っている」
その認識さえ持っていれば、「親」として十分なのではないか。
「子供を作らなければ」という言葉は、「親になった自分のせいで」という責め苦として受け止めるのではなく、「親であること」の再認識として前向きに受け止めれば良いのだと思う。

<まとめ>
「子供を作らなければ」は無視する。無視できなくとも一人で背負うことはない。

4.<まとめ>それでも「人の親」

・「子供を作らなければ」が親に刺さるのは、「子供を作ったこと」による結果と、「子供」の存在への責任があるから。
・「子供を作らなければ」を親に投げかけるは、「自己責任論」「代理的報復」「被害者意識」「自己正当化」「良き親の啓発」が理由。
・「子供を作らなければ」は無視する。無視できなくとも一人で背負うことはない。

始めに述べたように私は「親」ではない。なので、この「子供を作らなければ良かったじゃん」に真摯に向き合う必要はない。この事で私は誰も擁護しないし、誰も非難しない。
しかし、この正論に晒される親の立場を思うと、それがどのようなものなのかと考えずにはいられなかった。そしてこの記事を書いてみた。

「人の親」は辛いだろう。それでも「人の親」なんだ。

全部で1万字を越える記事になってしまった。
この記事が誰かの思考の一助になれるのなら、嬉しく思う。
ここまで読んでくれて、ありがとうございました。

「子供作らなければ」2


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黒井ハト
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