
『綿考輯録』より、高山右近に肉をふるまわれる忠興の話のメモ
引き続き『綿考輯録』を読んでいきます。
今回も前回と同様、豊臣秀吉による小田原城攻めが行われている期間の一幕を取り上げてみたいと思います。それが「高山右近が細川忠興と蒲生氏郷に牛肉をふるまう」という趣旨のお話。これはけっこう有名なエピソードなので(?)ご存じの方も多いのではないでしょうか。
早速読み下してみましょう。
綿考輯録 第二巻 忠興公(上)P.90~91より
出水業書2(昭和63年)
秀吉公、小田原在陳中の徒然に数寄屋を囲ひ、利休に命して橋立の壺・玉堂の茶入を飾り、家康公を茶湯に招し、御相客には幽斎君・法橋由己 $${\footnotesize一ニ由巴又由也}$$ ・利休又伸雄・忠興君・氏郷・景勝・羽柴下総守勝雄なとに前波半入を加へ、御茶を賜り、或時ハ和歌連歌の御会等有之候、
其此蒲生氏郷忠興君御同道にて高山右近大夫長房陳所江御見廻被成候ニ、高山ハ元来吉利支丹なれは牛を求置て振廻れしか、一段珍敷風味也とて度々御尋被成候、或時又御両人御音信有けるニ、丸き穴を外の見ゆる様にあけて、何やらん唱へて拝ミ居たるを $${\footnotesize一ニ飛騨殿と御両人}$$ 御覧被成、むさとしたる事を大形にして置かしと御笑候へハ、面々の宗旨立派ニ而する作法なりとて殊之外腹を立けるか、夫より七日八日も互に物も云さりし、其此は霜腹気にて牛を喰たかりしか共、喰せさりしとの御咄也、高山ハ後南坊と云、慶長十九年堅く切支丹宗旨を守る故、西洋国に放ち遺され候也、
「小田原在陳中」と書かれているため、前回同様、天正十八年(1590)の出来事とみて良いでしょう。
小田原城にこもる北条氏との対陣中、秀吉は利休に命じて「数寄屋を囲ひ」、「橋立の壺・玉堂の茶入を飾り」、「家康公を茶湯に招し」た、とあります。戦の最中ではありますが、小田原陣中ではこうした秀吉による催しが行われていたようです。
お客様は徳川家康です。「相客」とは茶の湯の用語で、「同じ茶の湯で同席する者」という意味を持ち、数名の(名だたる)面々の名前が続きます。家康とは立場をはっきり分けていることが伺えます。秀吉から見て、現在で言うところの「正客」に当たるのが家康だった、ということでしょうか。「相客」の筆頭に上がるのが幽斎というのも、なんだか嬉しい気がします(笑)
「御茶を賜り、或時ハ和歌連歌の御会等有之候、」とありますので、このように簡単な茶会を開いたり、またある時は和歌や連歌の会を開いたということが多かったのでしょうか。なかなかに優雅な陣中だったように思えますね。
では本題へ入っていきましょう。
「其此蒲生氏郷忠興君御同道にて高山右近大夫長房陳所江御見廻被成候ニ」=蒲生氏郷殿と忠興さまが一緒に連れ歩いて、高山右近大夫長房殿の陣所へやってきたときのこと
「其此」は漢文の用法で、前述したことを指す指示語として使用されます。ここでは、「その時に」とか「そうしたことがあった時に」くらいに意訳できるでしょうか。(和歌や連歌の会を、一日でいっぺんにしたとは思えませんので)
「見廻」はそのまま訳すと「巡回する」とか「巡視する」ですが、「見学する(見て回る)」という意味も含まれるので、ここでは後者を取りたいと思います。後半の記述を見ると、陣構えを見に来たというよりは見学しにきた、くらいの気安さがある気もいたします。
「高山ハ元来吉利支丹なれは牛を求置て振廻れしか、」
=高山殿は、元来キリシタンなので、牛の肉を買い求め置いて(氏郷と忠興に)ふるまって、
やや直訳に過ぎますが、このまま続けます。「求置て」は二つの動詞が入ってます。「求む」と「置く」ですが、「求む」は買い求めてという意味に取ることができるでしょう。「置く」はそのまま、手元に残しておくとか、置いておく、という意味で良いと思います。
高山右近という人は利休七哲の一人に数えられ、後世でその筆頭と揶揄される蒲生氏郷、細川忠興両人とも親しい間柄でした。このあたりの関係性だけでも話せることはあるのですが、割愛しまして……。
彼は幼いころより武家の出でありながらもキリスト教(細かくは語弊があると思いますが、一旦これで通します)に親しみ、その敬虔な態度やキリシタンたちのために奮闘した姿は、当時の宣教師やキリシタン領民たちからも厚い信頼を得るところとなりました。
そんな高山右近なので、当時食用として扱われていなかった「牛」の「肉」を食したことがあったのでしょう。私たちは当たり前に食べていますが(おいしい)彼らの時代では非常に珍しい食べ物ですから、やってきた友人二人に対して馳走したのではないでしょうか。
もしかしたら、小田原陣営中に入った商人を通して、わざわざ二人のために買い求めたのでは? なんてことまで想像してしまいます。
「一段珍敷風味也とて度々御尋被成候、」
=(食べた二人は)「すばらしい味である」と言って、たびたび高山の陣営を訪れた
もうちょっと分かりやすい意訳にしてみましょう。「すごくおいしい!」ですね。
「一段」とは「ひときわ」とか「いっそう」という意味。「珍敷」は〔めづらしき〕〔めづらしく〕などと読み、形容詞ですが古語として訳すときは現代語の「珍しい(=めったになく、貴重である)」という意味の他、「見慣れない」や「すばらしい」などというニュアンスもあります。
前述したとおり、当時牛というものは食用ではなかったため、日本の人々の感覚で「食べる」という行為の対象には成りえなかったわけです。今で言うところの珍味とか、もっと悪く言えばゲテモノくらいの感覚があったかも分かりません。ですが、食べてみたら、なかなか良いじゃないか、となったのでしょう。「度々御尋」とあるので、何度も高山の陣を訪れてはふるまってもらったというわけです。
私個人としては、「一段珍敷風味也」という彼らの言葉を「えっすごい美味しいんだけど!」くらいに訳したい気持ちです(笑)
或時又御両人御音信有けるニ、丸き穴を外の見ゆる様にあけて、何やらん唱へて拝ミ居たるを $${\footnotesize一ニ飛騨殿と御両人}$$ 御覧被成、
=ある時、またお二人が(高山右近を)訪ねると、(彼は)丸い穴で外を見るように開けて、何やら唱えて祈っているのを(一説には、飛騨殿とお二人で)ご覧になって、
個人的に現代意訳するのに一番難儀している箇所です。
前の文から続いているので、ここでいう「御両人」とは氏郷と忠興のことでしょう。「音信」とは〔おとずれ〕と読み、現代語では「音信不通」などと言って連絡に相当する意味を持ちますが、古語ではそのほかに「便り(手紙)」や「訪問」の意味があります。
さてこの後。「丸き穴を外の見ゆる様にあけて」とは、一体何を指すのか?
後ろの「外の見ゆる様にあけて」はまだなんとなく、「外が見えるようにあけて」と言い回せる気がするのですが「丸き穴」がいまいち分からない。「あけて」も漢字ではないので、少し曖昧なところです。開閉を示す「開」という意味であれば、ひらく、あける、という表現にできるでしょうが「明ける」だった場合意味が通る様な通らないような……やはり開閉の意味だろうか。
しかし、すぐ後ろに「何やらん唱へて拝ミ居たるを」と続くため、「丸き穴を外の見ゆる様にあけて」という行為が高山右近にとって祈りの行為に等しい行動である、と推測することが可能です。「何やらん唱えて」と、氏郷、忠興の両名に……少なくとも忠興にとってはよく分からない言葉を唱えていた、という文脈ですね。(氏郷もキリシタンなので、という事を考えると、この感想は忠興のものなのかもしれません)
手元の高山右近関係の書籍をめくる間がなかったのですが、たまたま、こちらのブログを発見したのでリンクを貼らせていただきます。右近の研究をされている方の考察で、ちょうどこの「丸き穴」のことを書かれておいでです。興味のある方はどうぞ。
続けます。
注釈にある「飛騨殿」というのが、最初は氏郷のことを指しているかと思いましたが(氏郷は「飛騨守」だった時期があります。)小田原征伐の二年前に「正四位下左近衛少将」と位を改めてますので、呼ばれるとしたら「少将殿」とかではないかな、と個人的には思いました。あとこの頃に「飛騨殿」と呼ばれてるとしたら、誰でしょう? 金森長近くらいしか思い浮かばないのですが、どなたか心当たりがあればぜひコメントでご教示ください。
「むさとしたる事を大形にして置かしと御笑候へハ、面々の宗旨立派ニ而する作法なりとて殊之外腹を立けるか、」
=いい加減なことを大げさにしているとは、とお笑いになったところ、(右近は)「あなた方の宗教(信仰)は立派な作法をするのですね」と言って、意外なほど腹を立てたのか、
ここもちょっと難しい部分でした。
「むさと」とは「むやみやたらと」「うっかりと」などを表す副詞です。さらに「むさとした」と表現した際には「無遠慮な様、いい加減な様」「とんでもない」などを訳すことができます。ここでは、まさにそのまま使うことができそうですが、前の文脈から合わせて考えると「そんなよく分からないことを」くらいに意訳しても良いかもしれません。
「大形」とは読み方を〔おおかた〕あるいは〔おおぎょう〕で、現代の「大仰な」に相当する意味として考えることができます。実際より大変なように言ったり、したりすることですね。ここでは「大げさな」という意味で捉えました。高山右近が真剣に何かを唱えて拝んでいる(=祈っている)のを見て、「なにをそんな大げさにやっているんだ」とお笑いになった、というわけです。
さて、次ですがちょっと言い回しが難しく……特に意訳が強いところとなります。ぜひ有識者の皆様のご意見を伺いたいです。
「面々の宗旨」とは氏郷、忠興の「宗旨」を指すのでしょう。(氏郷はキリシタンではない前提なのかな? この時期、彼はもう洗礼を受けていると思うんですが、細川家から見たお話の中のことなのであまり気にしなくていいのかもしれません。)
「立派ニ而」と続くので、「あなたがたの宗教は立派ですが」としてみます。後半の「する作法なりとて」とは、「(前の動詞を)する」+「作法」で、「立派に●●をする」と考えてみました。「作法」は物事の慣例や、しきたりのこと。現代語の「作法」と大して違いはありません。
「殊之外腹を立けるか」前後の文脈から、「めちゃくちゃ怒っている」と取れます。殊の外、という言葉は現代語にもありますが、多くの場合ネガティブな言葉にくっついて「かなり」とか「意外なほど」という意味となりますね。
高山右近は己の宗教的作法=祈りを捧げる行いを「大げさなことをしている」と笑われ、侮辱されたと取って「殊之外腹を立けるか」になったのではないでしょうか。ちなみに最後の「か」は疑問を表す副詞として捉えました。
「夫より七日八日も互に物も云さりし、其此は霜腹気にて牛を喰たかりしか共、喰せさりしとの御咄也、」
=それより七日も八日も互いに物を言わなければ、それは霜腹になったような心地で、(二人=氏郷と忠興は)牛を食べたかったが、(高山右近は)食べさせなかったというお話である。
「夫より」とは〔それより〕と読み、前の文を指す指示語です。「七日八日も互に」物も言わなかった、一週間近く口もきかなかったのでしょうか。「其此は霜腹気にて」とありますが、これは素直に訳すと非常におかしな文となります。
私もこの文章を読むまで知らなかったのですが、調べたら「霜腹」とは「霜の降りるような寒い夜に起こる腹痛」と出ました。私もよくお腹を冷やして痛くなるんですが、そういうことでしょうか。
ただ、このまま文に当てはめると急にお腹が痛くなってしまったことになるので(笑)「霜腹気にて」を「霜腹になったような心地で」と意訳してみました。もう少しかみ砕くと「霜腹になったように、それは寒々しい嫌な心地で」くらいに意味を込めても良いのではないか、と思います。人づきあいがうまくいかなくて、胃が痛くなる……みたいなこと、ありますよね。ここまでくると、完全に私の想像となってしまいますが……。
最後の「牛を喰たかりしか共、喰せさりしとの御咄也」とは、食べたかったけど食べられなかった、という意味でしょう。「御咄也」=「……というお話です」と締めているのはなんだか微笑ましいですね。
同じ利休門弟として親しかった三名のエピソードとして、この「牛肉事件」は名高く、同時に忠興の友人であった高山右近の高潔さの一端にも触れるようなお話だと感じます。
もっと素敵な(正しい意味合いの)現代語訳をされている方はたくさんいると思います。ご興味を持った方は、ぜひ探してみてください。また、ここの言葉はこういう意味だよ! といったご指摘がありましたら、ぜひコメントにお寄せください。
いいなと思ったら応援しよう!
