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「両国」はここだ! 国技館近くじゃないよ!
「べらぼう」登場場所はここだ!
「江戸歩き案内人」のガイド・一覧
大河ドラマ「べらぼう」第4回は、安永4年(1775年)の出来事を描いていました。蔦屋重三郎は西村屋与八と「雛形若菜初模様」という錦絵シリーズを出しますが、実は鱗形屋らとグルになった西村屋に騙されていた、という新解釈でした。
史実では、当初協力していた二人は路線の違いからしばらくして別路線を歩んだ、ということのようです。
しかしこのドラマ、毎回平沢常富(尾美としのり)がクレジットされますが、どこに出てるのかちっともわからない! これは確信犯で「どこに出てるか探してくださーーい」ってやつですね。
今回は多分アレです。スポンサーにしようとする呉服屋がなかなか乗ってこないので、蔦重が「あークソっ」って悪態を着いたときに振り返ってすれ違う侍。それしか考えられません。
どうですかい! NHKさん!
ということで今回の場所ですが、市中でたまたま平賀源内と行き合った蔦重が、遊女の錦絵を出版する資金を呉服屋に出させることを思いつく場所です。画面に「両国」と出てました。
「おいおい両国なんて、JRのでっかい駅があって、国技館のあるあそこでしょ? そんなのみんな知ってるよー」と思ったソコのあなた。
違うんでございますよー。
この両国は両国でも「両国広小路」と呼ばれた場所ですね。間違いありません。それはここ!
中央区東日本橋2丁目あたり
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そもそも両国という地名は、江戸を焼き尽くした1657年の明暦の大火の後、市民が隅田川を渡って避難できなかったことから架けられた橋の名にちなみます。隅田川下流に最初にかけられた橋なので「大橋」などとも言われましたが、当時は隅田川が武蔵国と下総国の境と考えられており(実は勘違いなんですがね)、両方の国にまたがるので「両国橋」と通称されました。
この橋は避難路でもあるために、橋の両側のたもとには大きな空き地が設けられ、それが「両国広小路」と名付けられます。火除け地ですから建物を建ててはいけないのですが、しばらくすると規制が緩くなり、すぐに壊せる仮設建築ならいい、ということになり、芝居小屋や見せ物小屋など、柱に筵をかけただけのような建物が立ち並んで娯楽街になります。
源内と蔦重が立ち止まったのもまさにそのような筵がけの「へっぴり男」の見せ物小屋でした。そう思ってみると、その少し前の二人が歩くシーンの背景には、大きな橋がありました。最初は「ん? 日本橋」と思っていたのですが、あれは両国橋ですね。
蔦重は大伝馬町にあった鱗形屋の帰りですから、両国橋あたりを歩いているのは妥当です。
橋の袂ですから東西両方にあったのですが、西広小路、つまり中央区側の方が広く、江戸時代に両国に行くと言えばこちらのことを指したはずです。ちなみに両国橋の位置は、現在よりやや南にありました。
ではなぜ、両国は墨田区の国技館周辺の地名になってしまったのか? それは最初に皆さんがイメージした「両国駅」のせいです。
明治に総武線の元の鉄道ができた際、現在の両側駅の場所にできた駅は「両国橋」駅と名付けられました。だいぶ橋から遠いですが、都心に入るには駅から橋を渡りますし、それでよかったのでしょう。ちなみに「両国」という名の市電の停留所は、中央区のかつての両国西広小路のあたりにありました。
「両国橋駅」は房総方面からのターミナル駅として栄え(昭和まで隅田川を跨ぐ鉄道は造られなかった)たため、「両国橋」駅付近が「両国」と呼ばれるようになり、ついに1931年、駅名も「両国」となってしまいます。
また1909年に現在の回向院近くに完成した国技館が、「両国国技館」と名乗ったことも大きな要因です。1929年にあたりは「東両国」という町名になりますが、これも1967年に「東」が取れて「両国」となり、「両国」と言えば隅田川東岸、という認識が固まってしまいました。
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