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江戸の全大名屋敷跡めぐり

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江戸にあった大名屋敷の痕跡を全て紹介します。建物・門はもちろん石垣、解説板なども含め、訪れる物がある場所は全てです。豊富な写真と境界地図もあります。場所などは基本幕末時のものを掲…
江戸にあった大名屋敷を見て回るのに必要な情報を提供します。石高上位の大名家から初め。不定期で追加し…
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#紀州徳川家

和歌山藩徳川家越中島抱屋敷など

多数の小屋敷を抱えていた紀州家55万石:(紀伊、伊勢、近江)  紀州家は多数の小屋敷を江戸中に抱えていた。  越中島抱屋敷、四谷外堀、四谷相之馬場、四谷南伊賀町抱屋敷、権田原下屋敷、松濤下屋敷、蠣殻蔵屋敷など。

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和歌山藩徳川家築地蔵屋敷(旧築地市場駐車場)

軍艦操練所にされてしまった蔵屋敷55万石:(紀伊、伊勢、近江) 所在地:中央区築地6-20 最寄り駅:東京メトロ築地駅、都営地下鉄勝どき駅  江戸期の地図上では講武所となっており、脇に「元紀伊殿拝領屋敷」とある。江戸時代後期、文政の大火以降蔵屋敷として使われてきた。それ以前は堀田家の中屋敷だった。

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和歌山藩徳川家千駄ヶ谷抱屋敷(東京体育館、津田塾大など)

55万石:(紀伊、伊勢、近江) 所在地:渋谷区千駄ヶ谷1丁目周辺 最寄り駅:JR千駄ヶ谷駅、都営地下鉄国立競技場前駅  千駄ヶ谷には隣り合う二つの敷地の抱屋敷があった。いずれも江戸末期の入手と思われる。近くに初代藩主・徳川頼宣の生母、養珠院(お万の方)が創建した仙寿院という寺院があり、立地に関係があるかもしれない。

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紀伊徳川家万年橋下屋敷(芭蕉稲荷など)

幕末に相対替で取得55万石:(紀伊、伊勢、近江) 所在地:江東区常盤1丁目1から4、16から18など 最寄り駅:東京メトロ清澄白河駅、都営地下鉄森下駅  下の地図では尼崎藩の松平遠江守屋敷となっているが、この地図が書かれたあとの1859年に、同家との土地交換で紀州家の屋敷とした。小名木川・隅田川沿いなので蔵屋敷だったと思われる。築地の蔵屋敷が幕府の講武所になってしまったため、その代替の意味もあったのではなかろうか。万年橋とは近くの小名木川に架かる橋の名。

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和歌山藩徳川家下屋敷(旧芝離宮恩賜庭園)

大久保家から引き継いだ名園55万石:(紀伊、伊勢、近江) 所在地:港区海岸1-4-1 最寄り駅:JR浜松町駅  この場所は幕末は紀州家の屋敷だが、その主は江戸時代通じてしばしば変わっている。現在に残る見事な庭園の姿は、元禄年間に大久保家によって作られた。立地的には埋立地と思われ、まず江戸時代初期に松山などを領した加藤嘉明に与えられ、続いて小田原藩大久保家に与えられた。大久保家は庭園を楽寿園と名付け、地元小田原の庭師に作庭させ、近隣の石が多用されている。しかし1818年、大久

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和歌山藩徳川家中屋敷(麹町、東京ガーデンテラス紀尾井町、清水谷公園、文芸春秋社など)

紀尾井町の名の一角に残る55万石:(紀伊、伊勢、近江) 所在地:千代田区紀尾井町1から3 最寄り駅:東京メトロ赤坂見附駅、永田町駅、麹町駅  赤坂屋敷の記事でも書いたように、江戸城内吹上にあった江戸時代当初の上屋敷が明暦の大火で焼失してからは、この麹町屋敷が上屋敷だった。しかしやや狭いことや文政の大火で焼失したことを機に、当主は赤坂屋敷に住むようになり、実質的に上屋敷が移ってしまった。  江戸時代や明治初期にかけては、赤坂見附門の脇から現在の弁慶橋袂に抜ける道があった以外、

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和歌山藩徳川家上屋敷(赤坂、赤坂御所)

紀州家屋敷を引き継いだ赤坂御所55万石:(紀伊、伊勢、近江、全国5位) 所在地:港区元赤坂2丁目1のほとんど 最寄り駅:四ツ谷駅、信濃町駅、青山一丁目駅  御三家では尾張に次ぐ格式を持つ紀州徳川家だが、七代将軍家継で家康直系が絶えたあと、家康との血縁の近さと、尾張家に有力な成人がいなかったことから和歌山藩主だった吉宗が八代将軍となり、以後十四代家茂まで紀州系が将軍を占める。しかし有力後継者が次々死んだことなどから、吉宗による毒殺の陰謀があったとの噂もある。  この赤坂屋敷を

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