【曲からショート】金木犀の夜
ふわりと漂ったのは金木犀の香りだった。
今朝家を出るときは感じなかったのに。これほど季節を意識させる香りはないと思う。
夏が過ぎ、次の季節の到来を知らせるように花が咲く。
金木犀と聞いて、まっさきに思い浮かべるのは香りだった。あの小さなオレンジ色の集合体よりも。そんな人は多いと思う。
花の形よりも香りが先に立つ。
残業で遅くなった帰り道は暗い。
とぼとぼ歩く道すがら、遠くにコンビニの灯りが見えた。
どこで咲いているのかは暗くてわからない。
歩みを進めるうちに香りは強くなって、やがて遠のいた。揺れるような存在感。
私はそのまま吸い込まれるようにしてコンビニに入った。中央のアイスケースに近づいていく。
カラフルなパッケージが並ぶ中から、水色を選び出す。1つだけ手に持ってセルフレジに並んだ。
バーコードを読ませてPASMOで支払いをすると、アイスを片手に外に出る。
駐車場でパッケージを開いた。ソーダ味が前歯にしみる。
部屋が広くなったのは二月ほど前のことだ。
1人で住むには広い。そろそろ引っ越しを考えるべきだろう。家賃も高いし。
彼が持ち出した荷物は段ボール数箱だったのに、やけに部屋ががらんとしてしまった。
私の知らない場所みたいで落ち着かない。暗い部屋に帰るのが嫌で、わざわざ遠回りをしている。こんなアイスまで買って。
少し肌寒いこんな夜には、温かいコーヒーのほうが合うだろう。そう思いながら前歯を避けて齧り付く。
冷凍庫に常備されていた水色のソーダ味。もうそこにはないのに手を伸ばしてしまった。残像に目を凝らすように。
彼の好きな人が私じゃなくなっただけだ。
目の前が少しだけにじむ。
こんな気持ちになるのは夜のせい。
金木犀の香りが記憶を呼び覚ましただけ。
言い聞かせるようにソーダ味を溶かしてゆく。
角を曲がるとまた金木犀の香りが漂ってきた。
塀に囲まれた一軒家の庭に、金木犀の木が植わっているのかもしれない。
等間隔に配置された街灯をくぐりながら私はアイスを食べ切った。空のパッケージをぶらぶらさせながら歩く。
金木犀の花は1週間くらいしか咲かないらしい。
この香りもやがて薄まって消えてしまう。
正面にマンションが見えてきた。
金木犀は二度咲きすることもあるらしい。
でももう、同じ想いを味わうのはごめんだ。