【思い】私は思わない
人は望み通りに思えないときも多いです。
「こんなことを思ってはいけない」
と考えたとしても、その発心を止めることは難しいでしょう。
むしろ、あなたがその思いに囚われまいとすればするほど
一層強くあなたを囚えていきます。
そもそも発心とはなんなのでしょうか。
あなたが一人っきりで静かな部屋にいるときに
ご自身の心に向かい合ってみてはいかがでしょうか。
心の奥から湧いてくる思いを
そのまま認めてみるのです。
心地よき思いが湧いてきたのなら
それに身を委ねてみる。
忌まわしい思いに囚われたのなら
そのまま囚われてみる。
そのうちにあなたは
「この諸々の思いに相対しているのは一体何者なのだろうか?」
と考えることになるかもしれません。
あなたが受け止めようとしている思いなるもの
思いなるものを受け止めようとしているあなたなるもの
これは一体なんなのでしょうか。
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人が地球上でここまで繁栄できた理由
それは「客観性を得たこと」だと私は考えています。
自我を得て、世界から切り離された「私」という存在を意識できるようになる。
そして、世界と自分という相対的な関係性を理解できるようになると
あらゆるものに意味付けができるようになります。
分別ができるようになったのです。
それは生存欲求をより満たすことに繋がります。
これまでは本能に導かれて生き延び子孫を残してきましたが
分別ができると、より適切なリスク評価と生存戦略を立てることができます。
あの恐竜は、俺達が集団で、尖った木で突けば殺せるぞ…
リンゴは、太陽が七回東の山から上がってきたら、嫌な匂いを発するようになるぞ…
自分たちがまとまるには、リーダーと、それを支える男たちが必要だぞ…
生存本能はより高度なものに高められ
知性が生まれることとなり、よりよく生きることができるようになりましたが
そのために成された「分別」という行為で
世界を「ありのまま」にとらえることが難しくなってしまいました。
分別は世界の一部分を切り取って
「これはこういうものだ」「それはそういうものだ」
と意味づけ、名前により区分しますが
そのことによって「あるがまま」の世界から独立したとされる
無数の存在を生み出したのです。
…実は分別を行う主体や、分別されて意味づけられた概念も含めての唯一世界なのですが…
人間は「世界は無数の意味で分かたれている」
と信じるようになったのですね。
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心の奥から湧いてくる「思い」なるものも
そんな分別行動の結果、生まれたものかもしれません。
なにかのきっかけで、あなたの深いところから
衝動を伴う「何か」が浮かび上がってきます。
それは「あるがまま」の「何か」であるわけですが
人は分別を行う生き物なので
それに意味付けをして、言葉による呼称を行うようになります。
ここでいう「何か」とは「ただ在る」もので言葉で言い表すことはできません。
言い表そうとした瞬間「ただ在る」ものの本質をとらえられなくなってしまいます。
その「何か」は「ただ在る」ものですが
認識主体が言葉で意味付けをすることで
言葉が持つ意味を付与されます。
「悲しみ」「憎しみ」「喜び」…
その人が命を養ってきた環境によって、どのように名付けるかは違ってきますが
意味付けられた「何か」は、もう「何か」ではありません。
その「あるがまま」の本質は失われ
意味通りの存在となります。
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そして人は、その意味に囚われます。
自分は楽しんでいるんだ…怒っているんだ…嘆いているんだ…
と、意味が持つ性質から多大な影響を受けます。
たとえ、その心を止めたいと思っていても
意味に意識を集中させるほど
それが持つ性質は力を増して、人を虜にします。
…ただ、思いに意味づける行為も、それによって生じた性質も、それに囚われる人も、唯一世界は内包しているのです…
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人は分別を行い、言葉によりそれに意味付けをする以上
決して、その意味から逃れることはできません。
「こんなことを思ってはいけない」
と願ったとしても、分別行為とは人の宿命です。
思いが持つ意味はどこまでも追いかけてきます。
その人が好まぬにせよです。
もしあなたが「思い」と快く共存したいと希望されるのでしたら
自分が唯一無二の世界を、無数に言葉で分別していると自覚して
そのことを認めて、ひたすら思いに向かいあうことから始めてはいかがでしょうか。
どんな厭わしい「思い」もそのまま眺める。
そんな「思い」に煩悶させられる心もそのまま眺める。
それを否定したいという望みもそのまま眺める。
なにもかも発心のままに任せてみます。
すると内面の深奥から思いの源となる「何か」が湧いてきていることを、実感としてとらえることができます。
そして、その「何か」が湧いてくるのは、自身の意思とは無関係なことも。
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あなたの思いは、あなたのものではない。
このことに気づいているかどうかで、あなたと心の折り合いの付け方は変わります。
気づいていても、思いには振り回される続けるでしょう。
しかし同時に、思いの源があなたのあずかり知らないところにあることを分かっています。
「どうしようもない」とも言えるでしょう。
そもそも「あなた」と分別されている存在自体が
世界の一領域であり、そこを「あなた」と思い込んでいるに過ぎません。
「あなた」の「思い」はこの世界のもの。
ですが、世界から独立した存在とされる「あなた」も観念に過ぎず
「あなた」も世界であるのです。
そのことを認めて、ときには「あなた」を世界に委ねきることが
心と折り合いをつけるコツの一つなのかもしれません。
そんな委ねるという決意も、世界の一事象であり、言い方を変えれば「世界の意思」なのです。
「あなた」と「世界」を分かつことに疲れたり、疑問をもったら
「あなた」は「世界」だということを確かめるのもよいかもしれませんね。