【自己紹介】教師としてKuro-tが大切にしていること
はじめまして。
Kuro-tと申します。公立小学校で教員をしております。妻と3人の子どもとの時間を何よりも大事にしている(つもりな)生活をしています。
教師になって十数年たちました。
これまで、いろんなことをやってきましたが、ここ数年大切にしていることは
「教育は与えるものじゃない。子どもと創るものだ。」ということです。
具体的にはどういうことか。それをこのnoteで書いていきます。
1.TeachではなくEduce
『教師』は "Teacher" なわけですが、『教育』は "Education"ですよね。
しかしながら、そのもとの言葉である Teach と Educe は意味が大きく違います。
Teache : 教える
Educe : 引き出す
そうです。教師と子どもの関係性を見ると、反対になっています。
「教える」は「教師 → 子ども」 であり、
「引き出す」は、「教師 ← 子ども」 です。
つまり、『教育』とは本来、「引き出す」ことが目的なわけです。
ここから分かる通り、「教育は与えるものじゃない。」なのです。
2.ラーニングコンパス
ラーニングコンパスというのは、"Education 2030" というOECDが出しているビジョンの中に出てきます。
ここにある図では、子どもがコンパスをもってゴール( well-being 2030)を目指し、自分の力で歩いていこうとしています。
教師や友達、家族は周りで応援(支援)するわけです。(co-agency)
このコンパスには、ゴールを目指すべく必要な力が載っています。
そして、このコンパスを回す行為がAnticipation(見通しをもつ)→ Action(実行する)→ Refledtion(振り返り)なわけです。
この図を見ると「子どもが自分の力で(主体的に)ゴールに向かっていく。その歩き方を身につけることができるようになる。」ことがものすごく大切なことがわかります。
ラーニングコンパスをいつでも意識して教育実践を行っていきたいと思っています。
ラーニングコンパスについては、また記事を書こうと思います。
3.Agencyと「自己決定」
先ほどのOECDのEducation 2030に "Agency" という言葉が出てきます。
簡単に言うと、「自分をあるべき方向にコントロールしていく力」でしょうか。
自己実現に向けて、自分はどういう道を歩いていけばよいか、そして今はどの段階で何をするべきなのか。それを選べる力がAgencyです。
ここまで書くと気づくと思いますが、Agencyを自分の中で育てていくためには「自己決定」をとにかく多くすることです。
自分で決めて、それがOKだったかを振り返り、また次を決める。
そう、先ほど出てきたAARサイクル(Anticipation → Action → Reflection)を繰り返していくことが大切なのです。
では、教師としてすべきことは何か。
そうです。「子どもが自己決定できる機会を保障する」ことですね。やはり、「教育は与えるものじゃない。子どもと創るものだ。」です。
(Agencyや「自己決定」についても、また詳しく書きたいですね。)
4.「遊び」のもつ可能性
ロジェ・カイヨワという人がいます。
カイヨワの著書「遊びと人間」(講談社、1990)は、私の中でもものすごく大切な本の一つです。
カイヨワの言う「遊び」は
①アゴン(Agon) 競争の遊び
②アレア(Alea) 運だめしの遊び
③ミミクリ(Mimicry) 真似・模倣の遊び
④イリンクス(Ilinx) 目眩の遊び
の4つにわけられています。
ここについてはまた詳しく書きたいと思いますが、この本を読んでいると、次のようなことに気づきます。
それが「マズローの欲求段階説の上から3つは『遊び』の世界と言えるなぁ」ということです。
つまり、「生命を保つための行為以外の全てを『遊び』と考える」ことで、「生きる」ということはどういうことかが見えてきます。
「いかに『遊び』を楽しむか」
「いかに多くの『遊び』を見つけるか」
それが「よく生きる」ということなのだろうと思います。
5.実践の軸…体育
私は大学時代は特別支援を専攻していましたし、大学の授業で初めて後方支持回転をできるようになったぐらいの人間です。
その私が、なぜ今、実践の軸が「体育」なのか。
そのきっかけは初任校です。
初任の学校はずっと体育を研究している学校でして、初任から5年目までに十数本の体育の指導細案を書きましたし、公開研も毎年行いました。
そこで鍛らえるとともに、体育のもつ可能性を感じ、その魅力にどはまりしました。
そこから十年以上、体育を軸にして教育実践を行ってきました。
しかしながら、私の行っている体育は、いわゆる「体育会系」の体育ではありません。
そこに目的が見えないのであれば私は取り入れません。
例えば「整列」。基本的に私は整列をさせません。その必要がない時間が多いからです。
もちろん、必要だと判断したときは整列させますが、いつでも「ぴっしりそろって『美しい』」が必要なのでしょうか?
体育で必要な「美しさ」とは?
それは「整列」に求めるものではありませんよね。
このように、「目的」を客観的に見つめて「当たり前にとらわれない体育」を大切に実践を行っています。
具体的にどのような実践を行っていっているのか、また、それを支える考え方等について、今後noteに書いていきたいと思います。
6.学級経営の基本
「学級経営」とは言いますが、私が常に心掛けていることは「学級」を「経営」する意識をもたないことです。
では、何を大切にしているのか。
それが「公での生き方を間違えない人間」になっていくための手助けです。そう、「集団」を育てようという気持ちはありません。なぜかというと、「集団」を中心に見ていくと「個」が見えにくくなってしまうことがあるからです。
「集団」を構成しているのは、あくまでも「個」です。だからこそ、「個」を意識することで、自然と「集団」が安定してくる、そう思っています。(もちろん、集団の力で子を高めるという取り組みもします。それは、おいおい、別のnoteで。)
また「生き方を間違えない」というのも大切に思っています。個性が大事、とは言いながら、自分勝手に振る舞っていいわけではありませんよね。自分の個性を大切にすることと、自分勝手は。あくまでも、他者の自由を侵してはなりません。哲学者の苫野一徳さんは「自由の相互承認」とおっしゃっていますが、まさにその通りだと思っています。自由の相互承認を大切にすること、それが「生き方を間違えない」ということです。
このように、「個」を大切にした学級経営を意識しています。
おわりに…
数年前に開いてちょっとだけかいていたnoteを再開したわけですが、これまでの私の経験と、そこから生まれた私の考えをここに書き残していくことが、いつかどこかで誰かの役に立ってくれたらうれしいなと思っています。
これから、どうぞよろしくお願いします。