今の日本に必要とされる弁論術とは。
こんにちは。弁論術を研究している島樹と申します。
SNSが普及して、誰でも好きなことを言えるようになった時代。その分、”炎上”と呼ばれる事案も増えてきました。
”炎上”する政治家やタレントなどの著名人たちの失言や謝罪、一つひとつのコメントを見るにつけ、どうしても、「言葉が下手くそだな」という感想を持たずにはいられません。しかし同時に、みんなひとりの人間で、それぞれ尊重されるべき正しさを持っているにもかかわらず、それが顧みられず踏みにじられる様にも、もどかしい思いを感じていました。
”炎上”にあった人に限らず、私たちの多くに足りないのが、弁論術だと思います。弁論術を身につければ、もっと上手く自分の言いたいことを伝えられるようになり、反論や批判に負けない言葉を紡ぐことが、必ずできるようになります。
そんな(実に怪しい)魔法のようなものなんて無いと思われるかもしれません。しかし、弁論術は古代ギリシアに端緒を持つ、歴史ある言葉の技術、説得術なんです。公の場で演説することが多かった古代人には必須の知識・技術で、その伝統を受け継ぐ西洋諸国では、弁論術の一部である修辞学が、自由七科=リベラルアーツの中心的な学問として、20世紀初めごろまでは必修科目でした。
日本でも、弁論術は戦前まで盛んに教えられていたみたいですが、その殆どが、戦後の左翼的運動の中で、エロキューショナリー・リーディング(大げさな身振り手振りを交えた演説)とイコールで解釈され、そうした運動の衰退とともに見向きもされなくなってしまいました。
今では、弁論術なんて聞いたこともない人が多いと思います。良い文章、表現というと、寸分の隙も無いロジカルな文章か、豊かな比喩や緻密な描写を含む文学的表現を思い浮かべる人ばかりではないでしょうか。もちろん、それらは論文や小説などの媒体では良い文章、表現です。しかし、弁論術の考える良い言葉とは少し違います。
たとえば研究者たちは、研究した成果を多くの時間をかけて論文にしますが、どの分野を見ても論争は絶えることがありませんし、小説的表現を使って謝罪会見をしている人なんかいません。
他人に意図を伝え、理解させ、納得させるための言葉は、弁論術でしか学べず、いくら優れた学者や小説家であっても、優れた弁論家ではないのです。
もちろん、公の場の演説の技術だった弁論術ですが、家族や友人との会話や、学校や職場での発言、SNSやメールの文章などにも応用ができます。
私は、今の日本社会には弁論術が必要だと思っています。言葉の段階であらゆることがエンターテインメントに消費されてしまう現状を変えなければ、より良い社会も、より良い文化も、この先現れないのではないかと強く危惧しています。
ただ、詳しくは次回以降で少しずつ紹介していければと思っていますが、弁論術は巷にあるような、大きな字で書かれた数百ページの本を読めば習得できるようなものでは決してありません。古代の人たちは、弁論術の習得のために人生をかけました。有限の存在である我々には、弁論術の習得は遠く、時に厳しい道のりだと思います。それでも、一人でも弁論術の意義に気づき、自分の大事な世界を守り、発展させるための杖として、弁論術を学ぼうと興味を持っていただければ、私にとって幸甚の至りです。
私がアリストテレスやキケロ、およびその後続たちから学んだことと、いくらか実践の中で経験してきたことを踏まえて、弁論術について分かりやすくお伝えできればと思っていますので、ぜひ、これからも読んでいただけると嬉しいです。よろしくお願いいたします。
※ちなみに、私は弁論術研究者であって、弁論家ではありません。私より上手に演説をしたり、文章を書いたりする人は沢山いると思います。しかし、現状そうした人たちも、自分がやっていることを言語化出来ている人は少ないと思われます。言語化できていないことで、改善やさらなる卓越化は難しくなります。私は言葉を用いる全ての人に、弁論術に関する知識や、思想的な側面で、何らかの力添えが出来ればと思っております。