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無知=無限の遊び場

「自分が」「自分が」


私たちは幼少期から、
頭を使って生活することを要求されて育ちます。

その結果つい「自分が」「自分が」などと、
意識の中の「自分を認識する部分」を使うことに依存してしまいます。

自分と認識している部分が、
全てをコントロールしていると思ってしまうのです。

しかし実際には自分と認識している部分だけで、まだ認識できていない部分も大いにあります。

むしろ認識できない部分の方が割合は多いはずです。

それらの「自分」は過去の経験で得た知識によって作られています。

自分は物事を知っている。

という前提が、強すぎる「自分」を作り出してしまうのです。

しかし、当然過去の知識が世界の全てではなく、
知らないことは無限にあります。

過去の知識が作り出す小さな「自分」だけで生きるのは、人生を楽しみ尽くすために手放す必要があります。

今回は、無知を受け入れて、
最大限人生を楽しむ方法について考えてみます。

無知の知


人類全体を持ってしても宇宙のすべてを理解できていません。
理解できていないことがほとんどだと言っても過言ではありません。

しかし、私たちはどうしても全てを分かった気になってしまうものです。

知識をつければつけるほど、
自分が知っているもの以外は存在しないと傲慢な思考に陥ってしまう嫌いがあります。

哲学者ソクラテスは無知の知を持つことの大切さを説きました。

自分が無知であることを知る。
それが最大の知だ。

というものです。

自分が知らないということを知っている人間は、
最も物事を知っているということです。

無知の知を意識することは重要なことです。

そして何も知らないということを悲観的に捉え、自分を否定するのではなく、
何も知らないということを楽観的に肯定的に捉えるのです。

何も知らないということは、
自分がまだ気づいていない可能性が無限にあるということです。

私たちは生まれた時、
今と比べてできることはかなり少なかったはずです。
しかし何もできない、何も知らないことの外側に、希望があることを知っていました。

無知である自分の外側には無限の世界があって、
これから、それらを知っていくことができるだろう。

と、無知であるゆえの希望を持っていたのです。

希望を持って無知の領域へ

無知の知を受け入れると、
未知のものへ向かっていく欲が生まれます。

頭で考えて、
知っているものから考えると、
知っているものの外側に出たくなくなります。

恐怖が湧くからです。
知っているものが世界の全て、
またはほとんどと考えてしまうからです。

知らないものは怖いと考えてしまうのです。

しかし知らないものは、
怖いものか怖くないものか分かりません。
なぜなら知らないからです。

禅問答のようですが、
未知に対する捉え方次第で行動が変わってきます。 知った気になると動けなくなるのです。

もちろん何でもかんでも、
未知の方へ行けば良いというわけではありません。

しかし、やりたいけど怖いという場合はやるべきでしょう。

始める前の恐怖は、無知が作り出す幻想です。

知識をつけることで幻想を最小化するのも有効です。

しかし、知識をつける時、
行動を前提として行うべきです。

知ることでやらなくなってしまうのでは元も子もありません。

やった気になるのと、実際にやるのでは、
天地の差があります。

やってみれば未知は知になります。

しかし、どれだけ知を積み上げても、
私たちは無知な存在で無限に伸び代があります。

伸び代は遊ぶ事ができる幅です。

無知であることは無限の遊び場があるということなのです。

全知全能はきっと退屈です。
無知であることは最高のギフトです。

記憶を消して見たい映画や本がある人も多いかと思います。

今まさにそれをしているのです。

無知に感謝して、無限の遊びを謳歌しましょう

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