見出し画像

「漢字を繰り返し書く宿題」の問題点を考える

 漢字の宿題には苦い経験があります。

 僕が小学生の頃、一生懸命書いた漢字のノートを母が見て言いました。
「もっときれいに書けるんだから、きれいな字で書きなさい」
そう言って、1ページ全部消されました。それも一度だけでなく何度も…。

 せっかく書いたのにまた1から書き直すことになり、悔しくて悔しくて泣きながら漢字を書いたのを覚えています。しかしその教えのおかげか、教師になってからも度々字のきれいさを褒めてもらえる機会があります。その度に幼少期の苦い経験を思い出します。この経験が生きる仕事に就いたのもなんか皮肉なもんだなと、時折感じるものです。

 先日この話を母に話したら、
「そんなことあったっけ?覚えてないなー」
と、あまりにもあっけない一言に驚きました。僕はてっきり母なりに
「字は一生使うモノだから字だけはきれいに書ける子に育てたい」
そういうこだわりを貫いた教えだと思っていました。僕が涙を流したあの日々。それを覚えてない?せめて「きれいな字を身につけさせたかったから」ぐらい言って欲しいものだ。親とはそういうものなのかと、何とか自分に言い聞かせて心を落ちつけました。


➣伝統的な「漢字を繰り返し書く宿題」は楽しくない

 前置きが長くなりました。皆さんは、この母の教えについてどう思われるでしょうか?

「結果的に字がきれいに書けるんだからよかった」
「そこまでしなくてもいいんじゃない?」
など、人によって考えは様々であると思います。僕の場合、結果として字がきれいに書けるのは嬉しいのですが、結局良い思い出にはなっていないのです。字を書くことが楽しくなかったんです。

 僕は、日本で伝統的な「漢字を繰り返し書く宿題」の問題点はここにあると思っています。楽しくないんです。ただただ上から下へ漢字を書くこと。覚えている漢字も機械的につらつらと書いていくこと。与えられた宿題を無思考にこなしていくことが楽しくないんだろうなと感じています。

 そういう僕も、教師になって同じ宿題を出しています。「この子の字の汚さが気になって。汚い字があったら容赦なく指導してください」と言われる親御さんもいらっしゃいます。気持ちはとてもよく分かります。それに字が汚くても「オッケー」の丸を付けて返していたら、教師がノートをチェックする意味がありません。汚くても丸を付けているノートを親御さんが見たら、先生への信用が揺らぐかもしれません。だから僕はなるべく嫌な気持ちがしないように最初に子どもたちに諭します。

「先生は漢字ノートの字は厳しくチェックするよ。でも書き直しはさせたくないんだ。だから一発で丸がもらえる完璧な字を宿題で書いてきてほしい。(お願いだから)」

 それでもやっぱり荒れた字の子がいます。その子を呼んで、どうして今日は字が汚くなってしまったのかを聞きます。そしてなるべく少なく消してあげ、もう一度書くように話します。きれいに書けたら、その字を全力で褒めます。僕のように、漢字の宿題に対して苦い経験をして欲しくないから。嫌な記憶として残してほしくないと願いながら。しかしやっぱり楽しくないものを強要するのは辛いものがあります。


➣「漢字を繰り返し書く宿題」の問題点

 「漢字を繰り返し書く」という宿題の問題点はたくさん浮かびますが、3つ挙げてみます。

 まず、そもそもこの宿題の目的は「学力をつけること=漢字を覚え、記憶に定着させること」なはずです。しかし実際のところ、まじめに宿題をやってきている子でも小テストをすると全然覚えていないことがあります。しかも結構多くの子が。自分がきちんと覚えられているかや、覚えていない字は何かというのは、テストをするまで把握できません。そういうことを意識しないまま、ただ黙々と書いているだけなので効果があまり期待できないのです。それに、覚えている字も書かないといけないので、効率の悪さも感じます。

 2つ目は、個人のレベルに合わないということです。もう覚えている子にとっては修行のように字を書き連ねる練習にしかなりません。単純作業であるがゆえに、「字のきれいさを身につける」ことばかりに意味を見出そうとしてしまいます。それを、毎日やる気を出して取り組むというのは大人にとっても至難の業でしょう。

 そして3つ目は、ひたすらに「受け身」であることです。先述したように、与えられた宿題を機械のように上から下に書いていく宿題に楽しさはありません。子どもたちの多くは宿題だからやっている。昔の僕と同じで「やらされている」感覚です。楽しくいない行動を強いられることで、「宿題=嫌い」「勉強=楽しくない」というイメージが刷り込まれてしまいます。


➣試行錯誤

 このような問題点から、なるべくこの宿題を変えたいと思って試行錯誤をしてきました。自作のプリントをつくったり、テキストを買ってきて印刷してみたり。ですがやっぱりそれは負担となることに変わりはありません。宿題は毎日あるのが普通です。そのたびに印刷をし配って回収するという手間は、地味ですが毎日あると堪えます。

 漢字ノートの書き方を変えて、より効果的に覚えられたり、子どもたちが飽きないように工夫したりしてみました。しかしこちらも、その都度やり方の説明が必要です。違うやり方でやってきてしまう子もいます。毎回違うとパニックになってしまう子もいます。

 結局のところ、教師がやり方を示している時点で、残念ながら子どもたちの「受け身」の宿題はスタートしています。ただ与えられた宿題を先生の指示に従って行うという当たり前から脱却しない限り、この問題点は改善されないだろうと考えています。


➣現状の答えは「自主学習型」の宿題

 このように考えていくと、最もよい宿題の形は「自主学習型」の宿題ではないかというのが、現状の僕の答えです。自主学習は、軌道に乗せるまで根気強く向き合う必要があります。特に低学年には難しいかもしれません。ですが、自主学習は勉強の楽しさを感じるきっかけをつくってくれる可能性を秘めています。自分に合う範囲で、自分が楽しいと思える学習の仕方で宿題に取り組むことができると勉強が楽しくなりますよね。それで漢字も覚えられて結果が出れば、自分の力で成長できたことを証明できます。その実感の中で身につけた「自己学習力」はきっと生涯役に立つことでしょう。

 僕は、今まで当たり前とされてきた「漢字を繰り返し書く宿題」を妄信的に信じるのではなく、令和の子どもたちに合ったやり方にシフトチェンジする方法をもっと探っていきたいと思います。漢字以外の宿題についても、もっと見直せるものがありそうです。「これが正解」というものはないので、いろいろ試す姿勢を大事にしていきたいと思います。


 こちらの書籍では、従来の伝統的な宿題から脱却し、自己学習型の宿題の取り組み方について新しい提案をしています⇩⇩⇩

 宿題に対する新しい取り組みや海外の事例について興味がある方はこちらの本もおすすめです⇩⇩⇩

 みなさんもぜひ、日本の宿題について考えてみてもらえると嬉しいです。


関連する記事はこちら⇩⇩⇩


いいなと思ったら応援しよう!