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親は覚えている、子どもは忘れている。
「お前が〇歳の頃、ここ行ったよね」
親にそう言われて「そうだね」と言えることが少ない。
大抵は首をかしげ「そうだっけ?」と言ってしまう。
そのたびに「ほんと覚えてないよね。いろんな経験させてあげたのに」と言われる。
僕の記憶力は少し変な気がする。
覚えていることはほんとに覚えている。
自分が何をしていたか、相手が何を言ったか、その時の天候やらだいたいの時間など、「なんでそこまで覚えてるの?」と言われるくらい覚えていることがある。
しかし逆に「全く記憶にございません」と、政治家みたいなことを言うこともたくさんある。
それこそさっき例に出した「小さい頃ここに行ったよね」の類いは、ほとんど覚えていないのだ。
申し訳無く思う。
「いろいろ経験させてあげたのに」という言葉の通り、人にしてもらった施しを覚えていないことほど、無礼なことはない。
ただ、未来でそう思うことがわかっているのに「記録しておこう」という意識がない自分もいる。
旅行先で写真を撮ることがほとんどないのがいい例だ。
なぜ写真を撮らないのか。
それは五感で記憶したいから。
写真を撮って思い出せるのは当然である。
だって写真に写ってるのだから行ったのだろう。
だけど写真に撮って思い出せるのは、写真の風景だけである。
そこには日の眩しさも、風の強さや匂いも、地面の感触も、そこに行き着くまで過程も何も無い。
写真の風景は写真の風景だけである。
だから五感で記憶する。
五感で感じても忘れてしまう記憶というものは、それほどのものであると思っている。
そして「忘れた」と思っていても、ふとしたきっかけで思い出すことがある。
だから「忘れた」と言いつつ、本当のところは奥に行きすぎて引っ張り出せないだけだと思う。
少し、というかだいぶ親不孝なことを言わせてもらうと、「経験させてあげた」って驕った言い方だよね。
勝手に作って、勝手に産んで、勝手に育てる過程に「経験」があるだけで、それをさも「あなたのためだ」なんて押しつけがましいにも程がある。
「子育て」というのは、親がしたいからするものだ。
だから「経験させてあげた」のは子どもである僕のセリフである。
僕が生まれてあげたから、親は親となれたのだ。
したくないのならしっかり避妊をしないさい。
こうやって「相互利益」で子育てを考えると破綻する。
「やってあげたのだから返すのは当然だろ」
そういう恩は与える側ではなく受ける側が「感じるもの」だ。
基本、子どもにしてあげたことを子どもは覚えていない。
大人である親と子どもである子には記憶力の差があるからね。
大人は長く生きている分、経験がある。
だから旅行もカテゴリー別に振り分けられる。
「お城」というカテゴリーに「江戸城」「名古屋城」「大坂城」というフォルダーがある感じ。
そこに「福岡城」というフォルダーが増えても「あ~お城カテゴリーの感じね」と、過去の経験との結びつけが容易である。
子どもは違う。
見るものすべてが新鮮であり「カテゴリー」に振り分けられるほどフォルダーが無い。
だから整理せず、バンバンフォルダーを作っていく。
そしてある程度フォルダーが溜まって見づらくなった時に、やっとカテゴリー分けを始めるのだ。
PCでもスマホでも、「データ整理」をしたことある人ならわかると思う。
カテゴリー分けをするのは時間がかかる。
そしてすべてをやることはない。
昔のデータは「まいっか」と放っておくか、捨ててしまうかだろ。
人の記憶の場合、「捨てる」という択は無い。
放っておき「忘れる」のだ。
で、「〇歳の頃、福岡城行ったよね」と言われても、昔のフォルダーはカテゴリーに分けていないから「お城」を探しても出てこない。
昔の記憶を子どもは忘れてしまう。
だから記憶は、親子ではなく夫婦で共有するものだと思う。
そうやって理屈をこねるのは簡単だ。
ただ親の「自分だけ覚えているのが悲しい」ってのもわかる。
だから写真を撮るのだろう。
「忘れた」と言われても「写真あるよ」と物的証拠を示せるように。
思い出話に花を咲かせるために。
以上!くろだでした。
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