嘘とプライド
2011/5/31
入浴日の今日、病室を訪ねると、母のベッドだけがポツリと残っている。
母は私を見て、小さく手を挙げる。不自然な形で曲がり、宙で固定してしまった腕の、母の掌はシワシワで、触ると可哀想なくらい冷たくなっていた。自分で腕を伸ばして、布団の中にしまうことができないのだ。
母の顔はなんとなく薄汚れていて、どう見ても入浴前だったので、「お風呂はこれから?」と訊くと、「下痢してるから、お風呂に入っちゃダメって言われたの」と言う。
そんなにたいしたことないのに、お風呂で出ちゃったら困るからとスタッフに止められたのだと、母は少し不満そうな表情を浮かべる。
母はいつも、ボートのような、柩のような、寝たままの形で入るお風呂に入れてもらうのだが、私は現場を見たことはない。
寝たきりの患者の中には、入浴中に排泄してしまう人も多いらしく、スタッフは皆慣れていて、とても寛大だ。「いいのよ、出しちゃえば。お風呂なんだから」と言ってくれる。
だから母の言葉をすぐには信じられなかったけれど、まあそんなこともあるのかなと、受け流していた。
今日は梅雨の貴重な晴れ間だったので、母を散歩に連れ出すつもりだった。
「下痢でお風呂をやめたくせに、散歩なんて行ったら怒られるかしら」と、母は心配する。「そんなに酷い下痢なの?」と訊くと、「全然大丈夫よ」と応える。
もうポピーは枯れてしまっただろうかと思いながら近くの花畑まで車椅子を押していく。
「咲いてるわ」と、母が呟く。
この頃の母の声は、蚊の鳴く声よりもずっと小さい。私の耳を、その都度母の口の1センチ手前までくっつけて、やっとどうにか聞き取れる。
この間はほとんど咲いていなかった山吹色のポピーが、今日は一面に咲いている。花畑をバックに、母に携帯のカメラを向ける。
「眼鏡かけてると顔が違うからね」と言って、母の老眼鏡をはずした。今日の母は、かなり無理をして、必死に口角を上げて微笑んでみせた。
病室に戻ると、ベッドに移る介助をしてもらうスタッフから、「お腹こわしてるから、お風呂入らないっておっしゃるんでね~」と切り出された。「お腹こわしてる時ほど、きれいにしておいたほうがいいって言ったんですけどね~」
もし入浴中にもらしてしまったら、そして場合によっては、「あらあら、出ちゃったのね!」とか言われたら…。自分のプライドがこれ以上傷つくのが、きっと母は厭だったのだろうと思う。
嘘だったのねとは、だから言わないでおいてあげた。
今日の母は、食べ物も飲み物も、上手く呑み込めない。食べたがるものの、上手く嚥下ができない。むせたり、咳こんだりしてしまう。
それでも欲しがるので、少しずつ口に入れて食べ終えたものの、しばらくしてから何度も痰として口から吐き出すのは、食べたはずのババロアの塊と、一口だけ食べてやめた柏餅だ。ああ、全然呑み下せていないのだと判る。
6月3日の母の誕生日には私が来るよと、母に伝える。「ハッピーバースデーの歌を唄ってよ」と私に言う。暗い顔だけれど、冗談のつもりなのかもしれない。
「待ってるから」と、母は言う。
「そんなに朝から待たないでよ。来るのはいつもと同じ時間よ」と、母に言う。
母に優しくした日には、いつも決まって哀しくなる。